林道義さんの善意 2


林さんのホームページ「フェミニズム批判」の中から、林さんの善意を感じる部分を探してみようと思う。ここにはかなりの量の文章がおいてある。まずは「1 なぜフェミニズムを批判するのか」という文章から探してみよう。そこには

「私憤・公憤という言葉を使うなら、私のフェミニズム批判はほとんど百パーセント公憤から出たものである。」


と書かれている。これはおそらく本当のことだろうと思う。むしろ、林さんの怒りは個人的な感情を越えた怒りだからこそ、正義として極限にまで走ってしまうのだと思う。このような公憤は善意の大きさを物語るものだと思う。

僕はフェミニズムに反感を持っているが、それは個人的な自分の内面から起こってくる反感だ。それは、林さんと同じように、直接フェミニストに何かやられたというような感情ではない。攻撃されている男を見て、自分も同じようにしてやられたらたまらないなと言う感情から来る反感だ。

共産党員の筆坂さんがセクハラ疑惑で失脚をした。これは疑惑ではなくセクハラそのものだと解釈している人もいるだろうが、僕は、公表された事実から考える限りでは、どちらとも言えないと思っている。相手の女性はセクハラだと感じたのかも知れないが、それは筆坂さんが、親しさを示しても大丈夫だろうと勘違いしていただけなのかもしれないと思っているからだ。

勘違いをしたということは、過失ではあっても犯罪ではないと僕は思っている。単なる勘違いで、犯罪的なセクハラで追求されたらたまらないと言う感情が僕にはある。犯罪的なセクハラとして追求するなら、少なくとも、相手の女性には他の選択肢がなかったという圧力が存在したことを証明して欲しいと思う。筆坂さんがその地位を利用して女性に圧力をかけていたなら、犯罪的なセクハラとして追求してもいいだろうと思う。

しかし、女性が筆坂さんの誘いを断ることも出来たし、一緒にカラオケに行ったのは自らの意志だったというのなら、勘違いの過失だったという可能性がある。犯罪行為を主張するなら、今度はセクハラ行為そのものが犯罪的だったかどうかを検討しなければならないだろう。これはなかなか真相は明らかにならないかも知れないが、筆坂さん本人の表現では「チークダンスを踊ったこと、デュエットで腰に手を回して歌ったこと」と書かれている。これが犯罪行為になるかどうかは、難しい判断だと思う。親しみを込めたつもりだったが、勘違いの過失だったと言えないこともないだろう。

この筆坂さんの行為に対して、全ては男の言い訳であり、男なんかその存在そのものが抑圧的で差別的なのだから、本性を出せばセクハラするような存在になるのだと断罪するような文章を目にした。それをどこで見たかは忘れてしまったのだが、具体的に事実を検討して非難するならともかく、男はそういう存在だから、男という存在から演繹されてセクハラだと決めつけるずさんな論理に反感を持ったものだった。

このようなずさんな論理で、事実を確かめもせずに、男はセクハラ予備軍であるというような前提から出発する論理がフェミニズムだと思い込んだところに僕の失敗はあった。ともかく、僕の反感は、このような私憤から生まれたものだが、林さんのものは違う。これは林さんが語るように公憤と呼んでいいものだろう。それは林さんの善意を物語るものだ。

林さんの公憤は、「妻を含めて専業主婦の訴えを聞いたことが最初の動機である」と書いている。これは、『フェミニズムの害毒』という本にも書かれていたが、林さんの奥さんが、「夫が待っているから」と言うことで誘いを断ったときに、「自立していない」と誹謗されたことに対する公憤だった。

これもずさんな論理で判断したものとして批判出来る。「夫が待っている」というのは、自発的に自分の意志で夫の元に帰ることを選んでいる場合もあるし、それ以外の選択肢がない状況であることもある。それ以外に選択肢を持たない場合は「自立していない」と判断してもいいだろうが、その状況を考えずに、誘いよりも夫を優先したことをもってして「自立していない」つまり夫にコントロールされていると判断するのは、短絡的なずさんな論理である。このようなずさんな論理を使うのは、自明ではない真理を自明だと思い込むことにある。夫を優先させる妻は全て夫に従っている・支配されているのだという「真理」を前提にしている。

林さんは、この前提を「愛情を敵視するフェミニズム」という言葉で呼んでいた。これは論理的に正当な批判だと思う。次のような記述にも林さんの善意を感じる。

「その後、前々から気づいていた子どもたちの母性欠如の病理の背後にフェミニズムがあると気づいたのが、第二の動機である。私は心理療法の実践の中で、子どもたちへのフェミニズムの悪影響を肌で感じているのである。私は弱い者いじめが大嫌いであり、反論する手だてがない専業主婦たちがいわれなく攻撃されたり、絶対的に弱い立場にいる子どもたちが被害者にされているのを許せないだけである。」


母性欠如を病理と考えるかどうかで異論はあるだろうが、「反論する手だてがない専業主婦たちがいわれなく攻撃されたり、絶対的に弱い立場にいる子どもたちが被害者にされているのを許せない」という心情は、善意から生まれるものであることは同意出来るのではないか。

「私が個々の人たちの癒しを援助していて、いつも痛切に感じてきたのは、個々の対症療法では限界がある、それらが発生する根源を絶つのでなければ駄目だという思いであった。元凶は父性不足、母性不足、家庭崩壊である。そしてその欠如を助長している元凶の大なるものとして私はフェミニズムを批判しているのである。」


という記述にも林さんの善意を感じるが、この善意にはある種の危惧も感じるところがある。「個々の対症療法では限界がある」というのは、僕も常に感じるところだ。自分の非力感を感じる場面は日常的にたくさんある。しかし、僕はそれを感じたからと言って、そのことを何とか出来るという思いはあまり生まれてこない。だが、林さんは、勇敢にもその根源を絶つ行動を起こしている。それは善意の現れだ。

僕が行動を起こさないのは、林さんほどの善意がないということもあるが、自分にはそれをするだけの能力がないと言うことを感じることも原因している。能力がないのに行動を起こせば、下手をすれば間違った方向への努力になる恐れがある。それが行動を起こさないことの言い訳になっているとしたら問題ではあるが、よく考えてから行動するのか、まず行動した方がいいのかは難しい問題だ。

林さんには善意があり、力も能力もある。だが、そのような前提があっても、その行動が常に正しいかどうかは分からない。もし間違っていたときに、途中でブレーキがかかるかどうか。あまりアクセルのきかない車なら止まるのにも苦労はしない。しかしアクセルのきいた車の場合は、止まるのを忘れて突っ走ってしまう恐れがある。上の文章に表れる林さんの善意はそういう危惧を感じさせる善意となっている。地獄への道を敷きかねない善意にならないだろうかという危惧だ。

林さんは、「フェミニズムは今や多数派であり、体制派である」とも語っている。だから、少数派である自分は被害者だという意識を持っているようだ。虐げられている、理不尽な攻撃を受けているというのは、善意から判断すればそれに抗議をして声を挙げることが正しい・正義だと言うことになるだろう。

反ユダヤ主義者だったドリュモンも、民衆が虐げられ迫害されているのはユダヤ人のせいだと思っていた。善意ある人が、迫害者を設定してそれを攻撃する心理は、自らも被害者の側にいるとする感覚から来るものだろう。この善意も、迫害している本当の相手は誰なのか、ということで間違いを犯さないかどうかが気になるところだ。ドリュモンはそれを間違えた。林さんは間違えていないだろうか。

林さんが「平気で約束を破る人格、また他人を嘘で中傷する人格」に非難を浴びせるのも善意の現れだろうと思う。これは正義から生まれる善意といっていいだろう。この正義は、行き過ぎて逆に林さんが相手をいじめるような所にまで行ったりしないだろうか。

子どものいじめなどでは、いじめる対象の子どもをしっかりさせなくてはならないという正義の気持ちから始まることがあるという。正義は、善意とともに地獄への道を敷き詰める可能性の高いものである。自らの善意と正義には敏感でなければならない。自らに悪意があり、不正義があることを自覚する必要がある。

林さんは、善意の人で、フェミニズムの欠点を容赦なく攻撃する。しかし、この攻撃は、それが極端にまで振れすぎると、実は林さんが批判しているフェミニズムと同じものを林さんの言説が持ってしまうと言う皮肉な現象が現れてしまうのではないだろうか。

林さんは、フェミニズムがずさんで短絡的な論理を使っていると非難するが、フェミニズムはそういうものだと林さんが無根拠に信じてしまうと、林さんの論理も同じようなずさんで短絡的なものになってしまう。

そのずさんで短絡的な論理を見つけて、フェミニズムの側が、今度は善意と正義感からそれを攻撃し始めると、また同じようなずさんで短絡的な論理に落ち込んでいくと言うことを繰り返すのではないだろうか。泥仕合というようなものに。

林さんは、ずさんで短絡的な論理に落ち込まないように気をつけているとは感じる。それは学者としての良心のあらわれだろう。しかし、感情に駆られたときは、その注意がちょっと弱くなっているようにも感じる。具体的なフェミニズム批判において、感情が論理の邪魔をしていないかを見てみようと思う。