杉浦法相が死刑を執行しなかったことの評価


ヤフーの「<杉浦法相>死刑執行せず 在任11カ月、命令書の署名拒む」というニュースによれば、杉浦法相が死刑執行命令書に署名しなかったことについて、正反対の評価がされているようだ。報道では、

「◇慎重な姿勢、評価 
 ▽石塚伸一龍谷大教授(刑事法)の話 刑事訴訟法が死刑の執行命令を法相に委ねたのは、特に慎重な配慮を求めたからで、時代状況に応じた法相のリーダーシップを期待したとも考えられる。死刑を減らしていくことは世界の潮流で、杉浦氏が執行に慎重姿勢を示したことは評価したい。
 ◇職責果たしてない 
 ▽渥美東洋・中央大名誉教授(刑事法)の話 死刑の執行は法相が命令すると刑事訴訟法で定められている以上、従うのが当然。命令しないのであれば法相の職責を果たしていないことになり、首相が罷免すべきだ。杉浦氏は弁護士、法律家でもあるのだから、死刑を命じないのなら法相を引き受けるべきでなかった。」


と書かれていて、二人の学者の評価が伝えられている。これは学者の評価である以上、恣意的な感情から生まれたものではなく、論理的な考察の結果として出てきたものだと思われる。正反対の結論が、どのようにして論理的に導かれるのかを考えてみたい。これは正反対ではあるけれども、どちらかが排除されるものではなく、視点の違いを認めることで両立しうる主張だと考えられる。その視点の違いを探し求めたいと思う。

僕は死刑廃止論に賛同する立場なので、直感的には石塚さんの「評価出来る」という結論に共感する。しかし形式論理的に考えれば、渥美さんの「職責果たしていない」という主張の方が論理的な整合性を持っているようにも感じる。それぞれの論理が、どのような前提から引き出された結論になるかを考えようと思う。そしてその上でその前提に、現実的な妥当性がどの程度あるかを考えたい。

まずは考えやすい形式論理的な方向から考察する。「職責果たしていない」という結論は、死刑執行命令書への署名が法相の仕事であるという前提から、それをしなかったということが「職責果たしていない」という判断になる。形式論理的には明快な論理だ。

しかし明快なのは、「職責果たしていない」という事実に対する判断までであって、このことが「従うのが当然」という、杉浦法相の行為に対する、いいか悪いかという倫理的な判断に関しては明確にどちらかと言うことは論理的には決定出来ない。どちらがいいかという絶対的な基準がないからだ。

法律に定められた仕事の内容を果たさないことは悪い、というような倫理基準を持っていれば、杉浦法相の行為は「悪い」と判断されるだろう。「従うのが当然」という言葉からは、そのような判断がされているのを感じる。「従うのが当然」というのは、果たして自明な真理といえるだろうか。

「杉浦千畝と6000人の命のビザ」によれば、6000人のユダヤ人にビザを発行してその命を救ったと言われている杉浦千畝さんは、日本政府からは「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」という支持を受けていた。これは法律で定められていたことではないが、職務の内容を定めてきたと受け取ることは出来る。この職務を杉浦さんは果たさず、指示に反してビザを発行し続けた。

これは「職責を果たしていない」ことになるだろう。「職責を果たす」ことが倫理的に正しいとする前提に立つなら、杉浦さんの行為は非難されなければならない。しかし、今では非難されるどころか、その行為は賞讃されるようなものになっている。それはどうしてだろうか。

ナチスによるユダヤ人迫害というものが、そもそも人類に対する重大な犯罪であり、ビザを発行するという行為は、その犯罪からユダヤ人を救うという正しい行為につながるものになる。つまり、杉浦千畝さんの場合は、日本政府の指示の方が間違っていたと判断される。間違った指示に従わずに、正しい行為を選んだと言うことで杉浦千畝さんはリスペクト(尊敬)されている、つまり高く評価されているのだろうと思う。

それは戦争の結果を知っている、ナチスの犯罪行為を知っている我々だからこそそのような評価が出来るのだと思う。杉浦千畝さんがビザを発行した当時においてはそのように判断出来る人は少なかったに違いない。ドイツは同盟国であり、同盟国の権力を握っているナチスがそのような犯罪行為をしているということを知っている日本人は極めて少なかっただろう。

だから、少ない情報の下では、職務として定められていることをしていないと言うことから、形式論理的にそれは「職責を果たしていない」という間違った行為であると評価されてしまうだろう。

杉浦法相の行為については、法律に定められている職務なのだから、それが間違えているとは考えにくいかも知れない。しかしハンセン氏病患者を隔離するという法律は、その間違いを政府が認めた。法律といえども間違えることはあり得る。法律として制定されているから正しいとは、論理的には言えない。

死刑を定めた法律の正しさは異論が多いもので、死刑廃止論者も多数存在する。世界的な傾向としては死刑を廃止する国の方が多いくらいだ。そのように異論の多い法律の執行に対して慎重な姿勢を示すと言うことは、怠慢による職務の放棄とは区別して考えなければならないのではないか。

この前提が、慎重な姿勢を評価した石塚さんの論理の整合性をもたらすのではないだろうか。「定められた職務を果たすべし」という倫理は単純明快で判断しやすい。その職務の内容に複雑性がないときは、このような倫理に従って行為するのは正しいだろう。しかし、その職務が複雑な内容を持ち、多くの配慮すべき事柄が含まれているときは、すぐにそれを行うよりも慎重に対処する方が正しいと言えるのではないだろうか。

形式論理の世界では、前提の正しさを疑うことは少ない。前提が正しいことを所与のものとして結論を導くことが多い。数学などではそのようにする。だから、形式論理的思考に慣れてくると、なかなか前提を疑うという視点が持ちにくい。それが正しいという前提を持った世界から離れることが出来なくなる。

しかし、世界はその一つだけではなく、そこを一段高いところから見る視点というのも存在する。その前提が違ってくるような世界というものが他にあることが分かる。そういうメタ的な視点から眺めれば、世界内の形式論理に反する結論が出たとしても、論理的には整合性を持つ。

反対の前提を持つ世界の方が正しいと思えば、反対の主張をすることになるだろう。つまり、死刑の執行命令に署名しないことが正しいという主張になる。しかし、杉浦法相はそこまで強く主張しているのではないようだ。むしろ、反対の可能性が存在するのを感じながら、一方の決定だけを判断することに躊躇したという感じなのではないだろうか。まさに慎重な態度を持って署名をしなかったのだと思う。

渥美さんの判断は形式論理的に正しいし、単純明快で分かりやすく、気分的にはすっきりする。「杉浦氏は弁護士、法律家でもあるのだから、死刑を命じないのなら法相を引き受けるべきでなかった」というのも形式論理的には正しい。しかし、この結論が正しくなるのは、法律に定められた法相の仕事というものが、現実社会においては全て妥当性を持っていると考えられるときだけだ。

任命されたら必ず死刑の執行命令に署名する法相は、職務を忠実に果たしていることにはなるだろうが、死刑制度というものが正しいのかどうかと言うメタ的な視点は持ち得ない。

僕は、石塚さんの「杉浦氏が執行に慎重姿勢を示したことは評価したい」という言葉に共感した。それは直感的な理解からのものだったが、論理的に考え直してみて、この直感の方が整合性があるのを感じている。

なぜなら、現代社会という複雑なものを深く理解するには、単純な形式論理で理解するよりも、慎重に弁証法的な理解をする方が有効だと思うからだ。これは、死刑を執行しない方が正しいという主張ではない。執行には慎重な態度を持つ方が正しいと言うことだ。そして世論が、そのことを単純に捉えているのなら、その問題の複雑性を知らせていかなければならないと思う。慎重な姿勢は、そのような世論への働きかけにもなっていると思う。

法律に書かれている職務の内容には反しているかも知れないが、法相としては正しい行為だったのではないかと僕は思う。杉浦千畝さんの行為が正しかったことが理解されたのと同じように、後世にその正しさが、誰にも分かるように評価されるのではないだろうか。