「イズム(主義)」の論理−−イデオロギーに支配された思考
何とか主義による思考の展開は、マルクス主義の崩壊とともにかなり薄れてきたように感じるのだが、それが論理的な誤りがあったという認識はなかなか難しいのではないかと思う。本人は意識していなくても、「愛国主義」「道徳主義」のようなものが基礎にあってものを考えているのではないかと思えるようなものはたくさんある。
これらの主義が、その論理的帰結の正しさを保証するものではなく、自らの行動の指針として、実践的な基礎にあるのだという自覚が必要なのではないかと思う。「愛国主義」を抱いている人間が、自らの行動を愛国的なものとして、愛国の本義に反しないようにしようと意識するのは正しい。しかし、それが普遍的な正しさを持っていると思うのは勘違いだろうと思う。
これは、一見普遍的な価値を持っていると思われる「平和主義」などにも言えることだ。自らの行動を、平和を目的とするものとして、平和と齟齬を起こさないように律する、倫理的な基準として立てるのは正しいだろう。世界平和を願っている人間が、近隣の人間とトラブルばかり起こしていれば、それは主義に反するのではないかと思う。
しかし、平和は誰にとっても貴重だからという理由で、平和主義が無条件に正しいという前提で普遍的真理を求めると論理的な間違いになるだろう。主義として信じることと、それが客観的真理であるかどうかということとは区別して考えなければならない。
その主義がつまらないものであれば、人々はそこに普遍的真理があるという見方はしない。「事なかれ主義」を持っている人に対して、その人が物事の対処の時に、どんな物事に対しても大きな損害さえなければどうでもいいというような態度を示しても、その態度に普遍性があると思っても、態度の正しさに普遍性があるとは思わないだろう。
だが主義そのものに大きな価値があるときは、それが個人の行動の原理であるという限界を超えて、普遍的な価値が普遍的な真理に直結するような論理的な間違いが生まれる可能性がある。これは誤謬論という観点から、強く意識しておいていい観点だろうと思う。
主義から生まれる論理的な間違いとしてもっとも大きなものは、推論の前提と結論を取り違えるというものではないかと僕は感じる。正しい論理的展開によって得られた正しい論理的な帰結が、その正しさゆえに、条件の限界を超えて適用される恐れがあるところに主義の論理の危険があるのだと思う。個別的に正しいということが確認された論理が、いつの間にか普遍的に正しいという信念に変わってしまう。それが論理ではなく信念に過ぎないという自覚が必要だ。
個別的に正しいことから普遍的な正しさを導こうとするのは帰納的推論に当たるものになる。これは、板倉聖宣さんが提唱する「仮説実験の論理」に関しては「任意性」のとらえ方によって普遍性の主張が正しくなると僕は思うが、一般的には間違った論理になる。個別的な事実はいくらたくさん確かめても、それが無限に多くの事実に当てはまるということは論理的には出てこない。特に対象が複雑な多面性を持っているときは帰納的推論の結論は間違えることが多い。
主義による論理は、個別的な対象に対しては、そこから正しい結論を引き出しているが、その正しい結論が普遍的に成立すると考える時点で間違いに陥る。個別的な結論を、「仮説実験の論理」なしに普遍的真理として前提に置いてしまう(公理化する)ところに間違いがある。マルクス主義におけるこのような間違いについて、内田樹さんが『私家版・ユダヤ文化論』で次のような例を挙げている。
「「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。
自由民と奴隷、都市貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、要するに圧制者と被圧制者は常に互いに対立して、時には暗々のうちに、時には公然と、不断の闘争を行ってきた。この闘争はいつも、全社会の革命的改造を持って終わるか、そうでないときには相闘う階級の共倒れを持って終わった」
マルクス=エンゲルスは階級闘争の個別的事例をここで4つ挙げた後、直ちに「要するに」という言葉を一つはさむだけで全称言明「あらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」に到達した。
もちろん、この推論は間違っている。
ヨーロッパの歴史上に4つ階級闘争が存在したことから、「あらゆる社会」に階級闘争が存在することは論理的には導くことが出来ない。階級闘争を経験しないまま社会的変動を経験した社会がどこかに存在する可能性は、ヨーロッパに4つの階級闘争が存在した事実によっては排除されない。現に、それから百年後には、「階級闘争」も「歴史」も持たず、新石器時代以来同じ仕方で生きてきた社会集団さえ地球上にはいくつも存在していることをクロード・レヴィ=ストロースは証明して見せた。」
目の前の階級闘争という事実は、個別的な自分の結論の正しさを証明している。しかし、それは、目の前にないあらゆる事実を代表しているとは論理的には言えない。そのようなことが言えるのは、形式論理としての数学の世界だけである。数学の世界では、今目の前に見えない事柄であっても、最初に立てた公理という前提を満たすもの以外は存在しないことを宣言している。
数学的帰納法という証明方法が数学の中で通用するのは、個別的な事実を確かめているように見えながら、あらゆる他の存在に関する確認を、可能ならそれが出来るということを示しているので、個別的な対象について考えていることがそのまま普遍的な対象にも当てはまるのである。
現実の世界では、何が存在しているかは、それを発見する以前に全て捉えることが出来ない。存在するものを全て構成的に一つ残らず提出することが出来ない。だから帰納的推論が、論理としては間違いになるのである。
なお上の内田さんの文章はマルクスを批判するものではない。それは時代の限界というものだという受け取り方をしている。内田さんは、
「マルクス=エンゲルスは「あらゆる社会の歴史は」という一行を書いたときに、「歴史を持たない社会」が存在する可能性を吟味しなかった。それは人類学的な知見が彼に欠如していたからというよりはむしろ、単称言明をいくら網羅的に列挙して見せても、全称言明を導くことは出来ないという論理学が彼の時代においては(マルクスほどの知性においてさえ)「常識」には登録されていなかったからである。」
と書いている。今の時代だったら、僕程度の知性でもマルクスの間違いが理解出来るほど論理学は進歩したのだと思う。しかし論理学を知らないと、この間違いには気づかないかも知れない。基本的に「イズム(主義)」の中に潜む論理的な間違いという問題はここに帰着するのではないかと思う。
僕が「フェミニズム」というものに対して個人的な感情として反感を持っているのは、その「イズム」にも、このような論理的な間違いの匂いを感じるからだ。それは、個別的な問題を考察する上では正しい結論を語っているだろうと思う。しかし、その個別的な正しい結論がいくらたくさんあろうとも、そこから「仮説実験の論理」抜きに、普遍的真理は出てこない。しかし「フェミニズム」はそれを導いているように感じてしまう。
内田さんは『ためらいの倫理学』に収められた『フェミニズムの害毒』(林道義・著)の書評で次のように語っている。
「だから、フェミニズムが近代的システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーであるかぎり、近代文明に対する一種の「野性」の側からの反攻であるかぎり、それは社会の活性化にとって有用であると私は思っている。だが、有用ではありうるが、それは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のものである。(ヒッピー・ムーヴメントや毛沢東思想やポルポト主義が支配的なイデオロギーになってはならないのと同じ意味で。)それは「異議申し立て」としてのみ有益であり、公認の、権力的なイデオロギーになったときにきわめて有害なものに転化する、そのようなイデオロギーである。
私はフェミニズムが社会を活性化する対抗イデオロギーにとどまる限りその有用性を認め、それがある程度以上の社会的影響力を行使することに対しては反対する。これはおそらくフェミニストからすると「いちばん頭にくる」タイプのアンチ・フェミニズムであるだろう。」
僕はこの主張に共感する。イズムの論理は、個別的な問題を考察する上での発想法としては非常に役に立つ。しかし、それは支配的なイデオロギーになってはいけない。その恐ろしさは、マルクス主義が支配的なイデオロギーになった社会主義国家の崩壊で実験済みのような気がする。
それが支配的なイデオロギーになってはいけないのは、それが語る主張が、個別的ないくつかの事実を確かめただけで普遍的な命題が出てきてしまうと思えるくらい、真理性を強く主張しているからだ。マルクス主義が支配的なイデオロギーになったのも、それがどう見ても真理にしか思えないように見えてしまったからだ。それが論理的には間違いである帰納的推論を用いているという自覚が薄れてしまう。
「フェミニズム」の主張も、それが正しいであろう状況は数多い。だからそれは普遍的真理であるように見えてしまうだろう。しかし、個別性から普遍性への橋は限りなく遠いという自覚が必要ではないかと思う。
今のところ一般的には「フェミニズム」は支配的なイデオロギーになっているようには見えない。しかしリベラルな学問の世界では、そう見えてしまう傾向があるかも知れない。基本的に「フェミニズム」の主張は、個別的なものに対しては正しいからだ。だから、学問の世界で圧力を感じてしまうと、林さんのように「反フェミニズム」の主張をしなければならないと思ってしまうかも知れない。
保守的な人々は、「フェミニズム」が支配的イデオロギーになることを心配して、それを叩きに回っているようだ。しばしばそれが行きすぎると「バックラッシュ」と呼ばれる現象になるのだろう。僕は一般的な状況は、「フェミニズム」叩きはバックラッシュであり行き過ぎだと思う。「フェミニズム」はまだ支配的イデオロギーではないと思う。ソビエトにおけるマルクス主義ほどの害悪はないと思う。
「フェミニズム」評価の難しさは、個別的な考察では、その発想法の正しさを評価出来、それから普遍的真理を引き出すという面を見たときは間違いを指摘しなければならないということだろう。この区別を論理的に正しく行うのは難しいし、そのことをフェミニストに説得するのはさらに難しい。内田さんが、「私がフェミニストを説得して彼女たちの理論的過ちをみとめさせる可能性はゼロだからだ」というように、帰納的推論の間違いを自覚するのは難しい。それが、自分が扱っている問題においては、ほとんど正しい結論を出している命題の場合は、わざわざ間違っている場合を想像することは絶望的に難しい。それは、「フェミニズム」に全面的に共感出来ない人間にしか気づかないものなのかも知れない。