安倍さんの所信表明演説の論理性を考える 2


安倍さんは所信表明演説(全文は「読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」」)の中で「美しい国、日本」について次のように語っている。

「一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。

 二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国であります。

 三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。」


今度は、これの論理性を考えてみようと思う。これは、真理を考察する対象の命題の形をしていない。だから、これだけで論理性を考えることは出来ない。これは、安倍さんが目指す目標のようなものとして語られている。

安倍さんは、「解決すべき重要な課題」をいくつか語り、それを解決するために「今後のあるべき日本の方向」を示すべくこの「美しい国、日本」を語っているようだ。つまり、目標であるこの「美しい国、日本」の実現が出来れば、「解決すべき重要な課題」も解決の方向へ向かうという主張がここには込められているように感じる。その論理性を考えてみたいと思う。

安倍さんは、「美しい国、日本」の実現が課題を解決するという根拠を直接には語っていない。ここでも、直接の論理性は見あたらない。「美しい国、日本」をどのようにして実現するかについては語っている。だが、これを実現すれば、課題は解決されるのだと言うことの論理は語っていない。そこで、これは読み手の方で想像しなければならないだろうと思う。

それを想像するために、「美しい国、日本」がどのようなものになるかを具体的に想像してみた。しかし、それは全くうまくいかない。安倍さんが具体的なことを何も書いていないからだ。安倍さんが描く「美しい国、日本」は次のような属性を持っている。

  • 文化、伝統、自然、歴史を大切にする
  • 自由な社会を基本とする
  • 規律を知る、凛(りん)としている
  • 未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける
  • 世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップがある

ここには具体性が何もない。まあ、これはスローガンのようなものであるから、ここには具体性が表現されていなくても、他の所に書かれていればいいかも知れない。しかしそれは全く見あたらない。

「文化」「伝統」「自然」「歴史」というのは、広い対象を含む複雑な概念を持っている。それを「大切にする」というのは、どうやって達成されたと判断したらいいだろうか。例えば、国旗を掲揚し・君が代を歌うことは「文化」や「伝統」を大切にしていると判断するのだろうか。

宮台真司氏は、「伝統」というのは、それを意識して守らなければならなくなったときに、すでに崩れてしまっているのだと喝破した。「伝統」が本当に生きている世界では、それを守るという意識なく、自然に生活の中に浸透しているという状態があるのだという。僕もその通りだと思う。

「伝統」というのは、教育や努力によって回復するものではなく、それが自然に存続していく条件が社会の側にない限り、死んでいくのを防ぐことが出来ないのではないかと思う。大切にするというのは、スローガンとして言葉としては美しく響くかも知れないが、実現可能性のない空虚な言葉なのではないか。

実現可能性のないことに努力を捧げても、「解決すべき重要な課題」が解決するとは思えない。論理としてはつながりを作れないのではないかと思う。大切にするという情緒的な言葉で了解するのではなく、それらの実体(実態)の本質が何であるかを論理的に理解すると言うことを目標に掲げないと、その実現は出来ないのではないか。

かつて教職員組合が、「体罰の一掃」というスローガンを掲げたことがあった。「体罰」を教育だと勘違いしている人もいるが、これは全く教育としては反対の効果しか持たないものだと僕は思っていたので、僕はこのスローガンに賛成だった。そこで、どのような具体的手だてで「体罰の一掃」を図るのかと言うことを質問したことがあった。

だが、それに対する回答はなかった。具体的な手だては何もなかったのだ。もちろん「体罰の一掃」というのはとても難しいことだ。体罰が、生徒の行動を支配するのにどれだけ大きな効果を発揮するかと言うことも分かる。その効果抜きに、生徒を教員の思い通りに動かそうとすることが出来ないことがあるのも分かる。しかし、それでも、その特効薬である「体罰」に手を出さずに、地道な苦労を重ねていくことを宣言しなければ、このスローガンは絵に描いた餅になってしまうと思った。

今のところ具体的な手だてはないが、たとえ失敗の繰り返しがあっても、体罰を使わない教育を作っていこう、というような回答を期待したのだが、そのような答はなかった。「体罰一掃」という美しい言葉に酔うのではなく、「体罰」というものがどういうものであるかという論理的理解を正しくするのだというふうに具体的な目標を立て直した方が良かったと思った。

安倍さんが語る「美しい国、日本」にも、その時に僕が感じた、組合の「体罰一掃」のスローガンに似た印象を受ける。言葉としては美しいが実効性がないと言う感じだ。これはやはり論理性がないと言わざるを得ないだろう。

安倍さんの「美しい国、日本」は、どの文章も曖昧な表現で、具体的な内容を持たないので、それを判断することも批判することも出来ないような内容になっている。これもまた論理性を欠いていると指摘出来るところだろう。内容が曖昧なので、どうなったらこの目標が達成されたことになるのかが確定しない。だから、目標が達成されたときに、「解決すべき重要な課題」も解決されるのかと言うことを推測することが出来ない。何が達成されるのかの具体的な指摘が出来ないので、それを出発点にして、「解決すべき重要な課題」が解決されるかどうかを検討出来ないのだ。

この曖昧さに目をつぶり、曖昧な部分を強引に解釈して、この目標達成が「解決すべき重要な課題」の達成を論理的に導いてくれるかを考えてみようと思う。これは、かなり強引な設定での論理展開になるので、論理の帰結の信頼性は低いが、何も信頼出来ない状況よりはましになるかも知れない。

それぞれが論理的につながりそうに見える部分を図式化すると次のようになるだろうか。

  • 1<文化、伝統、自然、歴史を大切にする>

          ↓
    <家族の価値観、地域の温かさが回復する>

  • 2<自由な社会を基本とし、規律を知り、凛(りん)とした姿勢をとる>

          ↓
    <企業活動にルール意識が確立する>

  • 3<未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける>

          ↓
    <都市と地方の間における不均衡や、勝ち組、負け組が固定化することを防ぐ>

  • 4<世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップを持つ>

          ↓
    <世界の新たな脅威を解決する>


これらの課題の解決の前提となることは、「美しい国、日本」のスローガンを好意的に解釈すれば、論理的なつながりを見ることが出来るかも知れない。しかし、すでに1の考察に見たように、その前提が実現可能かどうかと言うことに大いなる疑念がある。前提が成り立たないときは、その結論で何を言ってもほとんど無意味だというのが論理の法則だ。無意味だというのは、間違った前提から得られることは、結論の正しさを保証しないからだ。前提が間違いであれば、結論は正しくても間違えても、どちらでも論理的には推論としての整合性を持つからだ。

安倍さんの4つのスローガンは、いずれも言葉だけの空虚なきれい事のように見えてしまう。だからほとんど信頼感は持てない。安倍さんが、この言葉を空虚なスローガンではなく、実効的な言葉にするには、もっと確かな具体性を持たせた言葉を語らなければならなかっただろう。

しかし、具体的な言葉で語ることは、もう一つのリスクを背負うことでもある。具体的な言葉で未来を語れば、未来が実際に訪れたときに、その言葉の正否についての責任をとらなければならなくなる。曖昧な言葉で語っておけば、もし未来が言葉どおりになっていないように見えても、曖昧さの幅で、その予想が当たったかのように強弁することが出来る。曖昧であることは、一つの有効性もある。

安倍さんが、これから何かを語るとき、信頼性を高めるために具体的に語るようになれば、僕は政治家としての安倍さんを信用するようになるだろう。だが、責任回避が出来るような曖昧な言葉で語り続けるようなら、僕は政治家としての安倍さんを信用しなくなるだろう。この所信表明演説の語り方では、今のところは安倍さんはあまり信用出来ないと言うのが僕の印象だ。その言葉は曖昧すぎる。論理性が感じられないからだ。