安倍さんの所信表明演説の論理性を考える 1


安倍新総理の所信表明演説の全文が「読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」」と言うページで読むことが出来る。この演説の論理性というものを検討してみようと思う。論理性を検討するというのは、そこに書かれている主張が正しいかどうかを検討するものではない。

そこに書かれている主張が、どのような前提から導かれているのかを考えて、その前提から結論へ至る展開が、論理的な整合性を持っているかどうかを考えてみようとするものだ。論理的な整合性というのは、前提の中に結論を見出すような可能性が含まれているかどうかを判断しようというものだ。

全く関係のないものを、表面的に似ているからと言うことで結びつけたものは論理的な整合性を持たない。もちろん、前提抜きの結論だけというような主張も、論理的な整合性を持たないと判断出来る。恣意的に選んだように見える結論も論理的な整合性を持たない。好き嫌いで選ぶようなものが恣意的に選んだものに当たるだろうか。

論理的な整合性は、それだけで主張の真理性が確定するものではない。主張の真理性は、それに加えて、前提とする事柄が事実であるかどうか、前提の真理性というものを確定しなければならない。この真理性というものはなかなか確定が難しい。だから、ある主張が正しいかどうかはなかなか決定出来ない。しかし、論理的整合性が得られた主張は、論理的整合性がない主張とは違い、それが真理である可能性が高くなるだろうと思う。信頼性が高い主張になるだろうと思われる。

論理的整合性がない主張は、たまたま結論が正しい場合が、偶然にはあり得るが、信頼性という点では全く信頼出来ないと言ってもいいだろうと思う。さて、安倍新総理が、命題の形で主張している判断はどのようなものがあるだろうか。それをまずさがしてみよう。

「わが国は、経済、社会全般にわたる構造改革と、国民の自助努力の相乗効果により、長い停滞のトンネルを抜け出し、デフレからの脱却が視野に入るなど、改革の成果が現れ、未来への明るい展望が開けてきました。」


と安倍さんは語っている。これは、事実として提出されているのだが、どのような根拠からこの判断がなされたのかは何も書かれていない。つまり、前提なしの結論がここに書かれている。その意味では、この主張に論理性はない。この文章を細かく分けてみると、

<経済・社会全般に渡る構造改革>と<国民の自助努力>
     ↓<相乗効果>
<デフレからの脱却>(これは「視野に入る」という判断で、まだ脱却はしていないと言う判断のようだ)
<改革の成果が現れた>
     ↓(このことから導かれるものとして)
<未来への明るい展望が開けてきた>


と言うような論理の流れを見ることは出来る。しかし、ここに論理的整合性を見るには、<経済・社会全般に渡る構造改革>と<国民の自助努力>と言う前提の中に、<デフレからの脱却><改革の成果が現れた>と言うことが、すでに含まれていることを、具体的な分析によって明らかにしなければならない。

構造改革」や「自助努力」の中身を具体的に語らずに、この論理の流れが正しいとすることは出来ない。つまり、この論理の整合性を判断する材料はここには何も書かれていないことになる。従って、ここには論理性はないとしか思えない。

ここに論理の流れが書かれていなくても、それが想像可能であれば、この主張の論理的整合性を確認することは出来る。フランスの天才数学者のガロアは、入学資格試験において、ある数学の定理の証明を求められたときに「明らかだ」と答えて試験に落ちたらしい。ガロアの天才性からすると、説明するまでもなく明らかだと思われることだったのでそう答えたのだが、この答は、ガロアの天才性を伝えることは出来なかった。

安倍さんの認識が、上の主張において論理的な判断をしているにもかかわらず、それを書かなかったという可能性はある。しかしこれは政治家としては間違いだろう。ガロアの場合は天才性のエピソードになることでも、丁寧な説明で、国民の一人一人に分かるように表現しなかった安倍さんは、政治家としては間違いだろうと思う。

しかし、とりあえずこのことの論理性を自分なりに考えてみると、構造改革の中にデフレ脱却という景気浮揚の要素があることには、論理的整合性よりも疑問の方が大きい。小泉さんがやった構造改革の中には、官僚の天下りというような大きな弊害をもたらしたものの改革はなかった。不当な利権の構造は温存したままだった。

小泉さんが改革したのは、低負担に対する高負担であった、福祉や教育を切り捨てて、国民の「自助努力」と呼んだ、国民の痛みの方を大きくするような構造改革ではなかったのか。構造改革の結果明らかになったのは、富める者はますます富を増大させていって、貧しいものますます貧しくなるという格差の拡大ではなかったのか。富める者が富をためたおかげで、デフレ脱却と表面的には見えるような景気浮揚があったのではないか。

このように論理を展開すると、<未来への明るい展望>というのは、これからもますます富を増大させられるという層にしか感じられないのではないかと思う。安倍さんが、この一握りの階層のために、<未来への明るい展望>を語るのであれば論理的には整合性があるかも知れない。しかし、この整合性は、この主張の具体的な中身を語らなければ判断が出来ない。少なくとも、大多数の国民が<未来への明るい展望>を持つという、この主張が正しいと言うことは、論理的に理解することが難しい。やはり、ここには論理性がないと受け取った方がいいのではないだろうか。

それは結論だけが語られているだけで、願望を表明しているのだと受け取った方が良さそうだ。もっと好意的な見方をすれば、目標を設定しているだけだと言うことだろうか。目標を設定すること自体は悪いことではないが、それが達成可能かどうかを、どれだけ信じられるかで、政治家としての主張の信頼性が判断出来るのではないだろうか。

「一方、人口減少が現実のものになるとともに、都市と地方の間における不均衡や、勝ち組、負け組が固定化することへの懸念、厳しい財政事情など、わが国の今後の発展にとって解決すべき重要な課題が、われわれの前に立ちはだかっています。家族の価値観、地域の温かさが失われたことによる痛ましい事件や、ルール意識を欠いた企業活動による不祥事が多発しています。さらに、北朝鮮のミサイル発射や、テロの頻発など、国際社会の平和と安全に対する新たな脅威も生じています。」


と語る言葉の中には、現状認識が語られていて、何を事実と見ているかという判断が語られている。事実だけが語られている部分は、それを事実だと考える根拠は語られていないので、その部分に関しては論理性はないと判断出来る。例えば、「都市と地方の間における不均衡」「勝ち組、負け組が固定化する」「厳しい財政事情」というような事柄は、それがあるという判断はしているが、これが何から生まれてきたのか、これがどんな根拠の基に存続しているのか、ということは語られていない。論理抜きの結論が語られているだけだ。

安倍さんはこれらを「解決すべき重要な課題」と呼んでいるのだから、考えるまでもなく明らかな事実として提出しているのではないだろう。むしろ、解決の方向を示して、それに賛成してもらいたいなら、その存在する必然性を論理的に明らかにし、その論理から、解決の方向も求められるという書き方をしなければならないだろう。

しかし安倍さんは「今後のあるべき日本の方向を、勇気をもって、国民に指し示す」と語り、それが「美しい国、日本」だと言う展開で語っている。これは全く論理性を持たない。どのように解決するかという論理が全く語られていないからだ。「美しい国、日本」については、いくつか語ってはいるが、このことが「解決すべき重要な課題」を本当に解決するかどうか、論理的に考えなければならない。しかしそこには論理的な説明はないように感じる。あとでもう一度よく考えてみたいと思う。

「家族の価値観、地域の温かさが失われたことによる痛ましい事件」「ルール意識を欠いた企業活動による不祥事が多発して」という文章には若干の論理性を感じる。ここでは「痛ましい事件」の原因として「家族の価値観、地域の暖かさが失われた」と言うことを挙げているからだ。これは論理的整合性を考えることが出来る。

また企業活動の「不祥事の多発」に関しては、「ルール意識を欠いた」ことが原因だとされている。これも論理的整合性を考えることが出来るだろう。だが、この二つの判断は、果たして論理的につながってくることが示せるだろうか。「痛ましい事件」は、家族や地域の他にも原因がないのだろうか。また、家族や地域を復活させることは果たして可能なのだろうか。ここには複雑な関係があると思われるのに、あまりにも単純化して理解してはいないだろうか。

企業の不祥事が、「ルール意識を欠いた」と言うことが主たる原因であれば、ルール意識を確立すればその大部分は解決するものになるだろうか。ライブドア村上ファンドの問題は、そこで厳しい対応がされれば、これからの企業の不祥事は減るのだろうか。

ライブドア村上ファンドは、むしろルールの範囲内での抜け穴を狙っていたのではないだろうか。ルールを破ってまでも儲けようとしていたのではなく、抜け穴だと思っていたことが、実はルール違反だったのだと指摘されているのが、今の状況ではないのだろうか。ルール意識は持っていたのだが、むしろルールそのものに、抜け穴を狙わせるような落とし穴があったとは考えられないのだろうか。

安倍さんは論理性を語らないので、何を根拠にそのような結論を導いているかが分からない。こちらが想像するようなことを安倍さんが考えているかどうかは分からない。また、こちらの想像によっては、安倍さんの論理展開と違う結果さえ出てきてしまう。同じような論理レベルを持った人間にさえ伝わればいいのだという前提で語ることも出来るだろうが、政治家としては、大多数の国民に分かるような語り方をすべきではないかと思う。

論理的に考えるという要求を持たない国民が大多数であれば、安倍さんの語り方も政治家として間違いではないと言えるかも知れない。その前提なしの結論を信じる人が多ければ、民主的な多数は獲得出来るだろう。安倍さんに、もっと論理的に語ってもらうには、論理性を求める国民が多いという前提も必要だろうと思う。