高市氏の行為の意味を考える


高市氏の行為の意味というものを考えてみようと思う。それは、現象として見た場合には、誰もが同じ記述をするような客観的な側面を観察することが出来る。宮台氏が定義した「行動」という側面で言えば、次のような記述は誰も反対しない事実と言うことになるだろう。

  • 1 高市氏は自民党の山本拓議員と結婚した。
  • 2 高市氏は戸籍上は山本姓になった。
  • 3 戸籍上は山本姓になったが、世間では高市姓で通用している。
  • 4 高市氏は、夫婦で違う姓を名乗っている。

この4つの行動の面では誰もが同じ判断をするにもかかわらず、これを「行為」として受け取った場合は、

という二つの対立する判断が出てきてしまう。これは「行為」の意味が違うのだと考えられる。しかも肯定判断と否定判断という、形式論理の中では両立し得ない二つの判断が出てきてしまう。高市氏の行為の意味を読みとるときに、形式論理的に読みとるのが妥当だと考えるなら、これはどちらかを捨てて一方を正しいとしなければならない。

だが、弁証法的に視点が違うのだという受け取り方をすれば、対立する判断であっても両立する可能性があり得る。行為の意味をどちらの論理で受け取ることが妥当かも考えてみたい。

高市氏の行為の意味を判断するに際して、大きく分かれることの根拠は「夫婦別姓」という言葉の定義の違いに寄っている。それを「夫婦別姓だ」と肯定的に判断するのは、行動の4の側面が「夫婦別姓」の定義だと考えることから帰結される。「違う姓を名乗ることが夫婦別姓だ」という定義だ。

それに対し、高市氏自身が「夫婦別姓でない」と判断する根拠は、2の行動において、戸籍上は同じ姓になっているので、「戸籍上も違う姓になることが夫婦別姓だ」という定義に従えば、戸籍上は同じ姓なので「夫婦別姓でない」という結論が導かれる。

これは本来の辞書的な意味から考えれば、高市氏の定義は明らかにおかしい。しかし、高市氏に対して、「言っていること(夫婦別姓に反対)と、やっていること(夫婦別姓にしている)が違うではないか」という批判をするときは、この定義に従えばその批判は妥当ではないと反駁出来る。通常の解釈であれば、普通の辞書的な意味で行為を判断すればいいだろうが、高市氏の場合は、「夫婦別姓(法律的な意味での)に反対している」という特殊な条件の下での考察になるので、定義が違ってくると考えられる。

意味の違いは、直接的には、言葉の定義という言語規範の違いから導かれてくる。現実の対象は同じであるにもかかわらず、人間の思考の結果が違ってくる。これは、言語規範というものが思考の方向性に影響を与えてくると言うことの一つの証拠になるものだろう。言語規範が、現実の対象を切り取って一つの判断をもたらしてくる。

高市氏の定義の問題は、現在の段階では、法的に戸籍上の姓を違うものにすることが出来ないという現状があることだ。それこそがまさに「選択的夫婦別姓」と言うことで提案されているもので、それはまだ実現されていない。高市氏が定義するところの「夫婦別姓」は、今のところ誰一人として実現していないと言わなければならない。

そうすると、高市氏個人については、この定義を認めれば、高市氏の行為は、自身が反対している「夫婦別姓」ではないとする理屈が成立するように見えるが、同じような行動をしている人の全ても「夫婦別姓」ではないと語らなければならないのは何か変な感じがする。「選択的夫婦別姓」を進めたいと思っている人が事実婚を選んだとき、戸籍上で違う姓になっていないと言うことから、これは「夫婦別姓でない」と判断されてしまう。何かおかしいのではないかと感じる。定義の妥当性に疑問が生じる。

高市氏にとって、「言っていることとやっていることが違うではないか」という批判に反駁するには、その行為が「夫婦別姓でない」と主張することがどうしても必要だ。普通の辞書的な意味でその行為を判断すれば、「夫婦別姓だ」と言うことになり反駁が出来ない。

しかし全ての夫婦が「夫婦別姓でない」という判断が出来るような定義であれば、高市氏夫婦も、安心して「夫婦別姓でない」と主張することが出来るだろう。この定義は、自分が望んでいる結論を出すために、結論から遡って理屈としてのつじつまを合わせるようにしただけのご都合主義的定義ではないのだろうか。視点を変えればその正当性を主張出来るという、弁証法的な矛盾になるかどうかに疑念を感じる。

意味というのは関係性のことであるというのは三浦つとむさんの卓見である。高市氏の行為の意味も、その言葉の定義という言語規範との関係から読みとることが出来る。そして、この行為が関係しているものは、言語規範に限らず他にも様々ある。それを考察することで、行為の意味がより深く理解出来るのではないかと思う。

高市氏の行為は、戸籍上は同じ姓にして通称名を使うという、ある意味では高市氏が提案している修正案を実践していることになっている。高市氏は、夫婦が違う姓を持つことを、法的に公認して戸籍上も変えられるということに反対していた。しかし、通称として違う姓を名乗ることはかまわないとして、通称名にもその不都合がなくなるような便宜を図って、戸籍上の姓はあくまでも同一のものを記載することを主張していた。

高市氏は、自らの主張を実践しているように見える。そうすると、この実践は、自らの主張の正しさを証明するようなものになるだろうか。そのように判断してもいいだろうか。高市氏の行為を、その自らの主張との関係において意味を読みとってもいいだろうかという問題だ。

高市氏は、本当は戸籍上の姓である山本姓を名乗ってもよかったのだが、自らの主張を実践するためにあえて高市姓を名乗っているということも考えられているようなので、この論理に妥当性があるかどうか、意味を考えるのは重要だと思われる。高市氏が山本姓を名乗っていれば、何の問題もなく、「言っていることとやっていることが違う」という批判も出なかっただろう。それをあえて、批判が出るかも知れない曖昧な行為をなぜ行ったのか。それは、自身の主張の正しさを説得するのに役立つものになるのだろうか。

結論を言えば、高市氏の行為は、自らの主張の正しさを証明するのには全く寄与しないと言わなければならないだろう。これは論理的にそう結論出来る。「選択的夫婦別姓」を提唱している人たちが、戸籍上の姓も違うものを記載出来るようにして欲しいのは、通称名の使用ではまだ不十分だと感じているからだ。何らかの不都合を生じる事情を抱えているからこそ、通称名を認めるだけでは満足しないのである。

それに対して、通称名を認めれば十分であるというのが高市氏の主張になるだろう。もし高市氏の主張が正しいものであれば、それで不十分だと感じている人たちが、通称名を使うことで、その不十分さを感じていることが解決出来るという可能性を示さなければならない。不十分だと主張している人たち自身の行為で、それが不十分ではない、つまり通称名を使えば問題がクリア出来ると言うことを示さなければならない。

高市氏は、通称名で不十分だと感じている人ではない。実際に高市氏は、通称名で違う姓になっていれば、戸籍上の姓は夫と一緒でも何ら不都合のない人だ。だから、戸籍上の姓が同じで、通称名として違う姓を使ったとしても、これは通称名で十分だというような証明には何らなっていない。

ここで証明されるのは、高市氏は、現行法を変えずとも何ら不都合を感じない条件の下にいる人なのだという、高市氏自身が持っている属性が証明されただけのことなのである。つまり、現在の日本の状況は、「夫婦別姓」を法的に改正しなくともいいという層の人々が存在すると言うことを、高市氏は自らの行為で証明したということになる。

もし高市氏の行為が、「選択的夫婦別姓」の法律の成立に何らかの意味を読みとれるとしたら、自らはその法律の成立を必要としない人たちがその法律の成立に反対している、という意味が読みとれる。自らが提出する改正案の法律の正当性の主張とは全く違う意味が読みとれることになる。

自らは必要でないからその成立には反対するという姿勢は、エゴイスティックな立場であり、公的な立場ではない。もし高市氏の行為がこのような姿勢に結びついているとしたら、「夫婦別姓ではないと言われても」というエントリーで語られているように、

「それに高市案とは、通称使用を希望している人のためというよりは、夫婦別姓を希望している人の要望を根絶するためのものだったと理解しています。通称使用における不都合を解消し、民法改正の必要性を無くす目的があったのでは。」


という印象が正しいものになるだろう。しかしこれは早急な結論は避けなければならない。高市氏は、「戸籍上の姓も変えると言うことを自分は必要としていないからそんなものは要らない」と、あからさまに主張しているのではないからだ。そのようにエゴイスティックに主張してくれていたら判断も楽なのだが、実際には、戸籍上の姓を変えることによって家族の絆が壊れると言うことなどの公的な側面も語っている。

高市氏の改正案の主張が、エゴイスティックなものから出てきているのかどうかは、公的な立場を持たなければならない国会議員としての資質に関わってくるものだ。行為の意味はそのようなものにつながってくる。このことを正しく判断するためには、高市氏の主張というものに含まれている公的側面を評価する必要がある。いよいよ細かい知識が必要になってきたと言うことになるだろうか。