「夫婦別姓」は「夫婦別姓」ではないのかどうか


高市早苗氏が、結婚して山本性になったはずなのに、未だに高市姓を名乗っているのは「夫婦別姓」ではないかという素朴な疑問を考察している。高市氏は、「夫婦別姓」を法的に認めるという法案に反対していたので、この行為は、反対していたことを自ら行うことになるので「言っていることとやっていることが違う」のではないかというのが僕の素朴な疑問だった。

この「言っていることとやっていることが違う」というのは、僕の疑問であって、神保哲生氏が語った言葉ではない。神保氏は、ジャーナリストとして「夫婦別姓」の問題を聞かなかったのがおかしいという語り方をしていた。つまり、問題を広く知らせる必要が、ジャーナリストの使命としてあるだろうという指摘だ。これは正当な指摘だと思う。

夫婦別姓」についての議論は、それが話題に上った時期もあったが、今ではすっかり忘れられてその内容が正確に多くの人に伝わっているようには思えない。高市氏の入閣をきっかけに、その問題を改めて考える機会とするのは、ジャーナリズムにとっては重要ではないかと思う。神保氏のジャーナリストとしてのセンスは鋭い嗅覚を持っていると思う。

僕が「言っていることとやっていることが違う」と思ったのも、「夫婦別姓」というのを、現象として夫婦が違う姓を名乗るという行為を指すものだと思っていたからだ。もし「夫婦別姓」をこのように定義して理解したなら、高市氏が語る、自らの行為が「夫婦別姓」ではないという命題は、

と言うものになり、これは<Aであり、かつAでない>という矛盾律を表明するものになってしまう。これは形式論理の範囲では許されないものであり、このような主張であれば、「言っていることとやっていることが違う」という批判は正当なものになる。

しかし、mizoreさんの指摘による、「「〜 毎日新聞社に抗議します。夫婦別姓ではありません 〜   2004年9月23日」と言うページを読んでみると、高市氏が定義する「夫婦別姓」は、僕が考えていた「夫婦別姓」とは違うものであるようだと言うことが分かった。

高市氏によれば、

  • 夫婦別姓 …… 戸籍上も別の姓にすることを公認する考えのもとに行われる

という定義になる。これは戸籍上に記載されたものを「氏名」と呼んで、「夫婦別氏」と呼んだ方が普通の感覚には合うかも知れない。これに対して、高市氏の行為は、戸籍上はすでに山本性になっているものを、単に通称名として高市姓を名乗っているだけなので、戸籍上の「氏」を変えたものではないという解釈をしている。

このような定義を認めるならば、高市氏の行為は、「夫婦別氏」ではないから「夫婦別姓」ではないということになる。「夫婦別姓」ではないということが理屈の上では成立するように見える。しかし、これは何か釈然としないものを感じる。その原因は、通常我々が抱いている「夫婦別姓」の概念と、高市氏がここで定義しているその概念とに大きなずれがあるからだ。

通常の概念からは「夫婦別姓」という判断がされるのに、高市氏の定義からは「夫婦別姓」ではないという判断がされる。この言葉の定義の曖昧さに、その主張の理解の難しさが含まれている。これをもっとすっきりと理解出来るように、通常の用語とのずれを埋める工夫をしてみようと思う。

高市氏が定義するような意味での「夫婦別姓」は、上に書いたように戸籍上の「氏」を変えるものだと解釈して、「夫婦別氏」と呼ぶことにしよう。そして、「夫婦別姓」の方は、通常の意味のように、見かけ上夫婦が違う姓を名乗っていれば「夫婦別姓」と呼ぶことにしよう。そして、戸籍上の「氏」が違えば、当然夫婦は違う姓を名乗るものと考え(そうでなければ戸籍上の「氏」を変える必要がなくなるだろう)、また戸籍上の「氏」が同じでも、夫婦が違う姓を名乗る通称名の場合もあると考えることにする。

このように考えると、妥当な命題は、

  • <「夫婦別氏」は「夫婦別姓」になるが、「夫婦別姓」は必ずしも「夫婦別氏」にはならない>

つまり

  • <「夫婦別氏」の集合は、「夫婦別姓」の集合に真に含まれる>

すなわち

  • <「夫婦別姓」の中には、「夫婦別氏」ではないものが存在する>

高市氏は、通称名の使用には反対していなかった。しかし、戸籍上の「氏」を変えるのには反対していた。だから、その行為の正当性を言うには、

  • <「夫婦別姓」ではあっても、「夫婦別氏」ではない>

ということが言えれば一応の理屈は立つ。そして、実際に高市氏の行為は、上の命題に合致するので、この限りでは一応の理屈は立ち、「言っていることとやっていることは違わない」と言える。「違うのではないか」という疑念は解消されることになるだろう。しかし、何か釈然としないものがまだ残る。この気分はどこから生まれてくるものだろうか。

この複雑怪奇な定義に正当性があるのかということにまだ疑念が残るので釈然としない気分が生まれるのだと思う。「夫婦別姓」という言葉を両義的に使用して、自分に都合のいいような定義の方を採用するというふうに見える。そもそも「夫婦別氏」というのはまだ法律として成立していない。これは、そのようにしたくとも出来ない行為なのだ。だから、現実に法的な意味での結婚をしている人間は、全てが「夫婦別氏」ではなく、同一の「氏」として存在している。つまり

  • <「夫婦別氏」ではない>

という命題は、現時点においては、法的に結婚している夫婦については絶対的に正しい命題になる。これが正しい命題である限りでは、前提にどんな命題を置こうとも、その仮言命題は正しい命題になってしまう。つまり、前提を語ることに意味がない命題になってしまう。そのような命題で行為の正当性が証明されると考えるのには、論理的に無理があるように僕には見える。

高市氏が「夫婦別氏」ではないというのは明らかな事実だ。だから、高市氏は「夫婦別氏」に反対していたのであって、それの実践にはなっていないので、「言っていることとやっていることとは違わない」、何も問題はないのだと言えばよかっただろう。それをなぜ「夫婦別姓」ではないと言う無理な論理を構築したのだろうか。

夫婦別姓」を高市氏が言う「夫婦別氏」の意味で使うのに無理があるのは、それに両義性が出てきてしまい、しかもその区別がつかないからだ。「夫婦別氏」の方は、まだ法律として成立していないので、今のところは現実には存在していない。夫婦が違う姓を名乗ることは、法的に公認されたことではない。

だから、この意味とそっくりイコールで「夫婦別姓」という言葉を定義するとしたら、それはまだ現実には存在していない理念だけのものだと言うことになる。行為がどんなものであろうとも、その行為を「夫婦別姓」ではないということが、現実の事実から帰結されてしまう。これは論理の問題ではなくなるので、この定義は不当な定義といえるだろう。

これを論理の問題にするには、まだ現実には法制化されていない、「夫婦別姓」を推進する側の人が心に抱いている、「夫婦が違う姓を名乗ることを法的に公認して欲しい」という願いを持って、現象的に「夫婦別姓」という行為をすることと解釈するしかないだろう。このように解釈すれば、高市氏の行為が「夫婦別姓ではない」という判断が論理の問題となってくる。

しかし、この定義にも大きな問題を感じる。現象的に外から見える姿では、それが「夫婦別姓」なのかどうか客観的に決められないという問題がある。それは心の問題になってしまうからだ。客観性のない定義で何らかの判断をするということには大いなる問題を感じる。

高市氏が「言っていることとやっていることとが同じかどうか」という問題は、「夫婦別姓」という言葉の定義に大いに関わってくるものだと思われるが、その定義には問題が重なっているように見える。高市氏の説明をそのまま素朴に信じるには、どうも複雑な問題が絡んでいるように思う。

百歩譲って、高市氏の定義をとりあえず認めたとしても、前回紹介した「夫婦別姓ではないと言われても」というエントリーで語られているように、

「それに高市案とは、通称使用を希望している人のためというよりは、夫婦別姓を希望している人の要望を根絶するためのものだったと理解しています。通称使用における不都合を解消し、民法改正の必要性を無くす目的があったのでは。」


ということの疑念が生まれてくる。これは自由と権利の侵害につながって来かねない問題で、ある意味では日常的な行為よりも、国会議員としての行為に重大な影響を与えかねないものになる。しかし、このことについては、「夫婦別姓」問題の本質についてもっとよく考えないと、うかつなことを言えば間違えそうな気がする。少し時間をかけて「夫婦別姓」について考えたいと思う。

ここまでの考察は論理の範囲内で進めることが出来たが、これ以上のものは、やはり基本的な知識が必要になってくると思う。この問題は、思った以上に社会的に重要な問題だと思う。それに気づかせてくれた神保氏は、ジャーナリストとしてはやはり優れたセンスの持ち主だと思う。