「選択的夫婦別姓」は家族の絆を壊すか?


家族という面から「選択的夫婦別姓」に反対している考え方を論理的に検討してみたいと思う。エントリーのタイトルは反語的に使ったもので、僕の直感としては「そうではない」という結論を導きたいと思っているものだ。

その論理展開のポイントは、「選択的夫婦別姓」によって壊されるのは、「制度としての家族」であって、「現実の関係の中の家族の絆」が壊されるのではないと言う判断だ。

「制度としての家族」にとって「氏」が変わることは決定的な変更になる。特に子どもの「氏」がどうなるかは、「家名」というものの相続に関しては重要な問題だろう。そのような制度についての思い入れが強い場合は、戸籍上の「氏」が自由に変えられるというのは、「家族制度」というものを破壊すると映っても無理はない。

しかし現実の愛情関係から生まれる「家族の絆」というものは、「氏」が同じという根拠からそれが論理的に帰結出来るものではない。「氏が同じ」という形式には、「家族の絆」が生まれるという内容は含まれていない。その形式に含まれているのは、「家名が続く」という「家族制度」の継続なのである。だから、「氏が同じ」という形式は、「家族の絆を守る」という内容とは、論理的には無関係だ。この内容に関しては、それは形式だけだという批判が成り立つ。

「家族の絆」が守られるには、家族相互の間に愛情や尊敬の暖かく細やかな感情を持つという関係があるという前提がなければならない。これは「同姓」という形式とは関係なく、現実の状態こそが「家族の絆」を形成する根拠になる。たとえ姓が同じでも、家族双方の存在を疎ましく思い、家族から解放されることこそが自分の幸せだと思っていたら、そこには「家族の絆」は存在しないだろう。

実際に「家族の絆」を強く感じるのは、自分の経験から行っても、同じ姓を持っていることよりも一つの大きな事件を乗り越えたときに感じることが多い。僕の妹は20代の最初の頃にB型肝炎に感染し、それが劇症肝炎という病気にまで進行した。この病気の場合、生還するのは4人に1人だと言われた。危篤状態と言ってもいい、意識のない状態が一週間ほど続き、幸いにもこの病気を克服することが出来た。この事件を乗り越えた一週間ほど、家族の絆を強く感じたことはなかった。

「選択的夫婦別姓」への反対論者が、「家族制度を壊すから反対だ」と言うのなら、それは論理的に理解出来る。しかし、「家族の絆を壊すから反対だ」と言われると、それは論理的におかしいのではないかと感じる。「家族制度」と「家族の絆」では、その意味するところである内容が違うと思うからだ。戸籍上の「氏」と関係あるのは「家族制度」の方であって「家族の絆」ではないからだ。

しかし、「氏」は家族としての象徴であり、この象徴作用が壊れることの影響で「家族の絆」が壊れるのだという、直接的な論理の帰結ではなく、間接的な関係から「家族の絆」が壊れるという論理を展開しているように見えるものもある。林道義さんが「姓は「単なる形式」ではない、家族統合の象徴である」というページで展開している論理はそのようなものに見える。

ここでは、「同姓制度が家族の一体感を強める(別姓は家族の一体感を弱める)という我々の主張」に対して「同姓は「単なる形式」であり一体感とは関係ないと反論する」人々への再反論というものが述べられている。「家族の一体感」は「家族の絆」と呼んでもいいものだろう。これは直接的な論理関係としては、「同姓は「単なる形式」であり一体感とは関係ない」という帰結しかない。だから、そうではないと主張するには、直接的ではない関係としての意味を証明しなければならない。

林さんの再反論の一つは、「単なる形式」であるということへの反論で、「単なる形式ではない」という主張するものだ。「単なる形式」では「一体感とは関係ない」としか言えないが、「単なる形式ではない」と主張出来れば、「一体感と関係ある」とも言えるだろうという論理の展開だ。林さんは、この論理の展開で、「形式」と「内容」という一般論を根拠に、「単なる形式ではない」と言うことを証明しようとしている。僕は、これは論理的に間違っているのではないかと感じる。

林さんは、まず

「まず強調しなければならないのは、世の中に「単なる形式」などというものは存在しないということである。形式は内容を補強し、内容は形式を必要としている。形式と実質は不即不離の関係にある。堕落や腐敗した場合にだけ形式と内容が乖離するにすぎない。」


と語っている。これは抽象的な一般論の範囲では正しい主張だろうと思う。「内容のない形式は存在しない」というのは、抽象論としては正しいだろうと思う。これは、集合論的に言えば、その集合を特徴づける記述(内容)がない場合は、物の集まりとしての具体的な集合は決定出来ないと言うことにも通じる考え方だろうか。

内容のない形式というのは、言葉としては表現出来るが、実際にそのようなものを考察の対象にしようと思っても、考察出来ないのではないかと思う。内容を持たない形式は、形式としても決定しない。だから考察の対象にならないので、存在という判断が出来ない。これは原理的に出来ないのであって、そのようなものは存在という属性を考えることも出来ない、世界の外の存在だと言えるのではないだろうか。なおこのときに「世界の外の存在」と語るときの「存在」はメタ的に語った意味での「存在」であって、存在しないものの存在を語っていると受け取ると論理が混乱するだろう。

林さんの上の主張は、具体性を捨象した、抽象した意味での「形式」と「内容」に関しては成立する一般論としての真理になる。しかし、これは論理のレベルではあくまでも一般論としての正しさをもっているだけなのだ。捨象された具体性の段階では、この一般論がそのまま適用されるのではない。そのままベタに現実にこの一般論を適用すれば、それは論理の間違いになる。

「形式」が常に「内容」を伴うというのは、一般論としては正しい。しかし、具体的な存在の「形式」が、ある具体的な「内容」を伴っているというのは、その具体物の意味という関係性を検討しなければ、その「形式」の現実的な「内容」なのかというのは、この一般論からは帰結出来ないのだ。ある種の「内容」を伴うと言うことは一般論からは帰結出来る。しかし、その「内容」が具体的にどのようなものかというのは、具体性が捨象された一般論からは出てこないのである。

同姓であるという形式からは、そこから生まれる何らかの「内容」が引き出せるだろう。同姓が同氏と同じであれば、その「内容」は「家族制度を守る」というものになるだろう。しかし、その「内容」が「家族の一体感を強める」「家族の絆を守る」というものになるかは、「内容」の存在だけからは言えないのである。現実の「形式」つまり同姓であるという状況が、どのように「家族の一体感」や「家族の絆」と関係しているかという意味を考察しなければ何も言えないのである。

林さんは、

「夫婦同姓は決して「単なる形式」ではない。それは家族統合のための大切な象徴であり、また日本文化の基本の型である。」


と主張しているが、この主張の正しさは、一般論からは証明されない。だから、具体的な側面からこのことの正しさを結びつける論理を林さんは提出している。それは次のようなものだ。

「どんな集団や組織にも必ず統合のための象徴があり、たとえば学校や会社には記章があるし、どの国家にも象徴としての国旗と国歌がある。宗教も神社や卍(まんじ)や十字架といった象徴を持っている。それらは同じ集団に属するという意識を高め、きずなを強める働きをしている。」


これは帰納的推論の一つで、現実の事実として「必ず統合のための象徴」があるので、「夫婦同姓」もそのようなものだろうと帰結するものだ。しかし、帰納的推論というのは、仮説の提唱に関しては意味があるが、それはあくまでも仮説であって検証された真理ではないというとらえ方をしなければならない。だから、このことだけでは、「夫婦同姓」は「家族統合のための象徴」である可能性はあるが、それはまだ可能性を言えると言うだけのことで、断定ができる真理ではない。

林さんが語る「どんな」の意味が、数理論理的な「任意の」という言葉と同じ意味を持っていれば、林さんの主張も論理的に導かれると言うことになるのだが、数学と現実は違うので、これは「任意の」という意味に受け取ることが出来ない。林さんの帰納的推論には別の帰納的推論を対置することが出来る。

それは、「統合されている組織こそが、その象徴としての何らかの存在を持っている」とする推論だ。つまり、象徴があるから統合されるというのではなく、論理的な順序としては逆なのではないかという推論だ。組織が統合されているという、組織として機能している状況があれば、その統合を象徴する存在が見つけられるというのは、現実解釈としては論理的なつじつまが合うのではないだろうか。

家族がお互いに細やかな愛情を持っていい関係を作っているとき、このように家族の絆が強いのは、お互いに血がつながっているからだと象徴的に考える思いが生まれてくる。これは、現実に家族の強い絆があると言うことから、血のつながりが尊いという象徴的な考えが生まれてくると解釈することが出来る。

これを逆にして、血のつながりがあるからこそ愛情が生まれ、家族の絆があると考えることも出来る。「血縁主義」と呼ばれるような考え方はそういうものになるのではないだろうか。これは、どちらが正しいと考えるのが妥当だろうか。自然科学的な唯物論を基礎にすれば、現実の条件があるからこそ、思想としての「家族の絆」が生まれると考えるのが妥当だろう。

しかし、観念論的に「血縁主義」というようなイデオロギーが、血のつながりのある家族への愛情を生み出す可能性はある。しかし、それはイデオロギーがそのような考えや気持ちを生んだのであって、物質的な意味での「血のつながり」が、人間の心に影響してそのような考えや気持ちを生んだのではない。論理的にはそのような主張は出来ない。

「夫婦同姓」が家族の一体感を強めるというのも、「夫婦同姓」という形式から生まれるものではなく、そのようなイデオロギーを持っているときに、社会的にそのような考えや気持ちが生じる可能性が高まるのだろう。そのようなイデオロギーが弱まった現在は、同姓であったり、血のつながりがあったりするだけでは、なかなか家族の一体感が強まらないと言うのが現実ではないかと思う。

このイデオロギーを復活させて強めたいというのが、「夫婦同姓」論者と言うことになるのではないかと思う。僕は、これは極めて困難だと思う。新しい価値観の創出に努力した方が、現実的には有効なのではないかと思う。

「選択的夫婦別姓」は家族の絆を壊すものではないと思う。それは、権利として認められるものであるかどうかという判断の方が、本質的に重要なのではないかと思う。姓というものが公共的存在であるかそれとも私的存在であるかどうかという問題がより本質的ではないかと思う。姓というものが、個人の持ち物であるのか、個人を越えた「家族」あるいは「家」のものであるのかということだ。今度はそれを考えてみたいと思う。