自由が保障されている権利の根拠を考える


民法改正によって、「選択的夫婦別姓」という行為を法的にも正当な行為にしようという方向は、「姓(=法的な氏)を自由に選択する」という行為が、自由の行使として正当性を持っていると考えられるならば、そこには反対する理由は何もなくなる。自由として認められるべきであるなら、どのような技術上の困難があろうとも、それをクリアする方法を考え出して自由を保障しなければならない。それは自由の保障の方が重いものになるだろう。

これが基本的人権のようにほとんど制限のないものではなく、その自由の行使が何らかの公共の福祉に触れる恐れがある自由なら、その不都合をもたらさない範囲での制限を設けて自由を認めるか、あるいは、どうしても不都合が解消出来ないのであれば自由は認められないと結論するしかない。いずれにしても自由の主張の根拠が非常に重要なものになる。

姓を選択することが自由なのかどうかというのは、かなりの異論があるようなのでいきなりこのことを考えるのではなく、自由に対してあまり異論がないと思われる基本的人権として認められている自由のことをまず考えてみたい。基本的人権において認められている自由が、何故に自由としての正当性を持っているかを考えることで、そのアナロジー(類推)で姓の選択の自由も考えてみたいと思う。本質的に同じものだと考えられるなら、姓の選択は自由であるべきだと思うからである。

さて、日本国憲法基本的人権として認められている自由を拾い出してみると次のようなものがあるだろう。

自由権(国家からの自由、恐怖から免れる権利(前文))

1 精神の自由
(ア)内面的精神の自由

  • 信教の自由(政府による国教指定の禁止、政教分離 (第20条第3項))
  • 思想・良心の自由(特定の信仰・思想を強要されない、また思想調査をされない権利 (第19条、第20条、第21条))
  • 学問の自由―大学の自治保障

(イ)外面的精神の自由

2 経済の自由(経済活動の自由)

  • 居住・移転の自由
  • 移動・国籍離脱の自由―外国移住の自由(第22条第2項)
  • 職業選択の自由―営業の自由(第22条第1項)
  • 財産権の保障―財産権

3 人身の自由

  • 奴隷的拘束及び苦役からの自由、刑罰執行以外の意に反する使役禁止(徴兵の否定)(第18条)
  • 法定手続の保証(第31条)
  • 現行犯逮捕以外での、令状なき拘束・逮捕の否定(第33条)
  • 令状なき捜索・押収の否定(第35条第2項)
  • 住居の不可侵(第35条)
  • 公務員による拷問・残虐な刑罰の絶対禁止(第36条)
  • 黙秘権の保障
  • 自白の強要禁止とその証拠能力否定(第38条)
  • 刑事裁判の公開原則と刑事被告人の権利(第37条)
  • 弁護士依頼権
  • 証人審問権

「人権 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

さて、これら憲法によって保障された自由は、当たり前に我々の生活にとけ込んでいるので、今さらその根拠を求めるというのはなかなか難しい。当たり前じゃないかという感覚が強くて、論理的な正当性(もっとも原理的な根拠から演繹される)というものがあるのかどうか分からなくなる。それは存在するから存在するという同語反復しか言えないのではないかという心配もある。

上記のウィキペディアに寄れば「ホッブズの最初に唱えた社会契約説によれば聖書に記述されている楽園(原始社会)においても(自然に)存在した権利である生命権と自由権自然権とされる」と記述されている。つまり、もっとも原理的な根拠はまずは「聖書」の記述におかれていたということだ。「聖書」に反対する人がいない時代は、この根拠で十分だっただろう。

しかし、自然科学的な方向の思考が進めば、「聖書」を根拠にすることは、誰もが賛成するというわけにはいかなくなる。キリスト教の神を信じない日本人にとっての根拠は、次のように記述されている。

「かつては、人権の根拠は自然法つまり神に求められていた。しかし、世俗主義の現代においては人権そのものが根拠・命題と自然法論では主張される。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」は、この意味に解される。この場合人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられる。一方で法実証論においては人権の根拠は単純に法律(殆どの国では憲法)にあるとされる。」


法実証論における、法律が根拠というものだと考えると、「選択的夫婦別姓」という法律が成立していない時点では、自由の根拠はなくなってしまう。それが自由であるという理由から、法律の正当性を主張することが出来なくなる。だから、「選択的夫婦別姓」において、姓の自由の根拠を求めるなら、「個人の尊厳」というものに求める方向しかないだろう。これは論理的にはどうなっているのだろうか。

「尊厳」というのは、辞書的な意味では「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと」と書かれている。自由の根拠を、この辞書的意味のままで解釈したら、またそれは同語反復になってしまう。

「自由が保障されなければならないのは、個人の尊厳が保障されなければならないから」
   ↓
「その自由は侵害されてはならないから守られなければならない」

「なぜ守られなければならないのか」という問いに対して、この方向の思考では、「それは守られなければならない存在だからだ」としか答えられない。「守られなければならない」という属性は、証明抜きで前提されてしまう。これでは論理的な根拠にならない。「尊厳」という言葉を、辞書的ではない、根拠としてふさわしい意味を持つものとして考え直さなければ、根拠を考えることが出来なくなる。

「尊厳」という言葉の意味には、「気高く犯しがたい」というものがある。これを逆に考えると、「尊厳がある」と判断されるものに対しては、それを侵した場合の弊害があまりにも大きくなるので、そのことから「尊厳がある」と判断される可能性もあるのではないかと考えることが出来る。

保障されるべき自由については、その自由が侵されるときには、個人の尊厳をも侵すのだと言うことが演繹されるのではないだろうか。もしこのことが演繹されるなら、その対偶として

 「個人の尊厳が侵されない」 → 「自由が侵害されない」

ということになり、個人の尊厳が侵されない(=守られる)と言うことが保証された範囲内での自由に限り、それが侵害されないということが正しくなければならないと言えるのではないかと思う。この場合の「個人の尊厳」は、抽象的な「尊い、厳か」という意味よりも、「気高い、犯しがたい」という、「人間的であるということを守る」という意味で解した方がいいだろう。

前出のいくつかの自由を見る限りでは、この自由が侵害される、つまり自由ではなくなるという、選択肢を認めないという状況があったとき、「人間的である」ことが侵されると考えられるのではないだろうか。

日の丸・君が代の強制との関連で考えた「思想・良心の自由」に関しては、その自由を認めないと言うことが人間的に生きると言うことを否定することになると考えられる。それは複雑化して発展した社会においてそう言えるのではないかと思う。誰もが同じような生き方をしている時代だったら、「思想・良心」の選択肢の幅も狭く、そもそも自由だといってもそれほどの違う選択をするものはいなかっただろう。しかし現代社会のように複雑化した社会では、「思想・良心」の対象になるものもたくさんあるに違いない。

日の丸・君が代が戦争の歴史を背負い、その戦争においても、侵略戦争だったかどうかという議論が多岐に渡り、犯罪的行為の是非についても異論がたくさんある状態では、これが「思想・良心」の自由を巡る考察の対象になるだろう。異論があるものに対して、異論を考えることそのものまで否定することになれば、「人間的な生き方」の否定につながり、これが「思想・良心の自由」の侵害が、個人の尊厳の侵害につながるという論理になるのではないか。

憲法で保障された自由は、その侵害があったときに、人間的な生き方にまでもその害が及ぶと言えるのではないだろうか。だからこそ守られる必然性があるということが、それが自由であるという根拠になるのではないだろうか。それは時代と関係のない自然科学的なものではないと思う。時代の変化とともに、自由の幅が変わってくると思う。選択肢が増えるとともに、選択出来る範囲も増えていかなければならないと思う。

姓の選択についても、今の時代の要請が、その自由を認めなければ人間的な生き方を侵害するものになるといえるなら、その自由は認められるべきだろう。その時は、どのような困難があろうとも自由は認められなければならない。しかし、そこまでの強い要請がないときは、一定の制限の下に、認められるかどうかが考察されなければならない。姓の選択に関しては、果たしてどのような判断が出来るだろうか。賛成論・反対論を精査して考えてみたいと思う。