新聞社説に見る「日の丸・君が代強制」に関する考え方


山陰中央新報「国旗掲揚・国歌斉唱/自然体で定着させよう」という社説には共感出来る事柄が多い。ここでは、東京地裁が示した判断で、「国旗に向かって起立したくない教職員や国歌を斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想良心の自由を侵害する」というものを妥当なものと受け止めている。

ここで重要なことは、「懲戒処分をしてまで」と言うことで、このような処置が伴うことによって選択の自由を奪うことが問題なのだと考えられるわけだ。しかし、「国旗・国歌を敬うのは当然」と思っている人は、その前提の方が「内心の自由を尊重する」ことよりも上位に来てしまうので、反対をするという拒否の意志を示しただけで何か悪いことをしているかのような判断をしてしまう。だが、内心の自由を尊重することこそが民主主義の財産だと思えば次のような判断をするようになるだろう。社説では

「問題は、それを強制することの是非についてだ。判決が指摘したように個人の自由を尊重する民主的な社会では宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体のような行政機関が安易に踏み込むべきではない。行政上の権力を背景に処分や強制をするのは行き過ぎというべきだろう。」


と語っている。また、この社説では公権力が内心の自由を侵すことの問題を指摘して、憲法によって公権力を規制することの正当性もよく分かるように説明されている。次のような記述だ。

「ここでの問題は地方自治体という公権力が自ら決めた一定のやり方だけによって敬意を外部に表現するよう、法的に強制することについてだ。国旗や国歌への愛着は国民の間で長年かけてはぐくまれていく。それを強制するのは本末転倒ではないか。」

「たとえ少数者であっても、心の自由は尊重されなければならない。それを多数者が踏みにじってきた歴史の教訓があるからこそ、憲法一九条は「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と為政者を縛っている。」


軍国主義下での日の丸・君が代の存在は、まさに内心の自由を「多数者が踏みにじってきた歴史の教訓」というものを持っている。その日の丸・君が代が、再び内心の自由を脅かすものになっているというのは象徴的な意味を持っている。現代日本では、日の丸・君が代は、内心の自由を制限しなければ人々の心に安定した価値を持つような存在にまだなっていないのである。これこそがいちばんの問題であって、その問題をそのままにして日の丸・君が代に対する敬意だけを強制すると言うことは、まさに本末転倒と言うことになるだろう。

内心の自由を基に、自発的に敬意を持つように努力すべきなのだろうと思う。そのためには、敬意を持てない部分をなし崩し的になかったことにするのではなく、正当な方法で克服することこそが必要だろう。日の丸・君が代の強制が、未だに軍国主義の復活とともにイメージされることにこそ問題を感じるセンスが必要だ。そのイメージがあるということは、未だに日の丸・君が代には軍国主義の影が引きずられていると言うことを意味しているのだ。その影を白日の下にさらして、払拭する努力が必要なのである。忘れ去って、なかったことにするのは正しくない対応だ。

他の新聞の社説でも基本的な論調は同じようなものが多い。次のようなものがある。

「懲戒処分までして迫る都教委を「行き過ぎ」と厳しくいさめたものであり、この問題をめぐる他の訴訟にも、大きな影響を与えずにはおかないだろう。」
「ただ、過去の歴史的な経緯から日の丸、君が代になお抵抗感をもつ人がいるのも現実だ。強制によって教育現場にとげとげしい対立が生まれている状況を見れば、式典の妨害などにならない限り、少数者の思想良心の自由は尊重されるべきとした判断には説得力がある。」
「神戸新聞 国旗国歌訴訟/「行き過ぎ」が指弾された」


「見解が想定するのは君が代、日の丸に対する異論の存在だ。それをどう見るかが問題になるが、判決は生徒に同調を求めないことなどを条件に、教職員の思想良心の自由は認められる、とする。少数意見を容認しつつ社会の多様性を保持する民主主義の理念に基づいている。」
「国旗国歌の強制はしないが、教えることの大切さは認める。そんな姿勢から導き出されるのは「自然のうちに定着させる」ことへの強い期待感である。」
「高知新聞 【国旗国歌判決】教育に強制は要らない」


「個人の自由を尊重する民主的な社会では、宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体が行政上の権力を背景に安易に踏み込むべきではない―という考えであり、今後の国旗、国歌の在り方を明確に示した判決といえる。」
「しかし、ここでの問題は、国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかということではない。地方自治体という公権力が、自ら決めた一定のやり方だけによって敬意を外部に表現するよう強制することの是非だ。」
「沖縄タイムス 思想良心の自由は侵せぬ」


「民主的な社会では、個人の自由が尊重されるべきで、宗教や思想、信条など、個々人の心の中に国や自治体が安易に踏み込むべきではない。
 判決は、行政上の権力を背景に、職務命令によって「強制」と「処分」を繰り返してきた東京都教委の行き過ぎを戒める画期的な判決だと言える。」
「判決については、国旗国歌法がある以上、それに敬意を払うのは当然で、拒否した場合、処分を受けるのも当然だと言う意見もあるだろう。
 しかし、問題は地方自治体が自ら決めた一つのやり方だけで、敬意を法的に強制しようとすることへの是非だ。
 憲法は19条で「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」とし、多様な世界観や相反する主張を互いに理解し、尊重することを求めている。このことから、例え少数であったとしても内面の自由は尊重されなければならない。」
「琉球新報 国旗国歌判決・異なる意見も認めるべき」


これら地方紙の社説は、ほとんど判決の趣旨を支持するもので、民主主義の観点からその判断が正しいとするものだ。しかし、全国紙の大マスコミである読売の論調はちょっと違う。読売の社説は次のように書いてある。

「「教職員は、指定された席で、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」。今年の卒業式を前に、都教委が都立高校などに、そう通達したのは、式に国旗、国歌を正しく位置づけるためだ。」
「教師が卒業式で起立を拒否するのは、高校野球の開会式で、運営に当たる大会役員が国旗に背を向けるのと同じだ。許されることではない。」
「ワールドカップでも、日の丸を振る若者が目立った。国旗や国歌に対する自然な態度が育っている。
 学校だけが社会の意識とかけ離れている。当たり前の姿に戻すべきである。」
(3月31日付・読売社説 [国旗・国歌]「甲子園では普通のことなのに」 )


この社説では内心の自由の問題は全く考えられていない。高校野球やワールドカップなどのスポーツの祭典と、学校における式典・教育の問題が同列に論じられるかという問題もある。また、同じ全国紙の産経でも次のような主張がされている。

「朝日は「国旗・国歌の強制」は「憲法が保障する『思想及び良心の自由』を侵す疑いが強い」とする。一般社会の私的な場なら、この考え方も許されよう。しかし、学校は子供に知識やマナーを身につけさせる公教育の場だ。それを怠る先生には処分を伴う強制力も必要である。朝日の主張を推し進めると、教育は成り立たなくなる。」
「日本の公教育を担う教員には当然、国旗・国歌の指導義務がある。通常の社会人以上に、子供の模範となるような行動を心がけねばならない。まして、公的な学校行事である卒業式において、生徒の面前で起立しない行為は到底、許されるものではない。」
(4月3日 産経新聞社説 国旗・国歌 本質をそらした朝日社説)


読売や産経は国粋的な右翼思想を代表しているのだという判断もあるだろうが、真っ向から対立するこの考え方に、どちらに論理的な正当性があるかを考えるのは意義のあることだろうと思う。

なお読売と産経の社説は、直接見つけられなかったので「都教委処分問題の新聞の対応」というページから引用した。

対立する社説の二つの論理を考えるとき、重要になるのは、どのような考えを原理・原則的なものとするかということだ。どのような価値観をもっとも尊いものだと考えるかという基本的な姿勢だろうと思う。判決を支持する社説においては、内心の自由を尊重する憲法的な価値観を、民主主義においては最も重要なものと考えている。

それに対して、処分を伴う処置をしてでも国旗・国歌として日の丸・君が代を式典で位置づけたいと言うことを正当化する考えの基礎には、内心の自由よりも、そのような敬意を教える教育の方が大事だという考えがある。この観点は、果たして民主主義としての正当性を持っているのかどうか。かつて歩んだ軍国主義の道を反省せずに再びたどっているだけではないのか。内心の自由の問題や民主主義の歴史などをもう少し調べ直してから、この疑問をもっと深く考えてみようと思う。