抽象概念としての「秩序」と現実の「秩序」


宮台真司氏の「連載第四回:秩序とは何か?」に書かれている「秩序」という概念の理解に努めてみようと思う。ここで説明されているのは抽象概念としての「秩序」である。具体的な、日常生活の中で見られる「秩序」という現象の説明ではない。具体的な「秩序」現象から、具体的な要素をいくつか捨象して、その本質だと思われる部分を抽象して作り上げた概念だ。

具体的な対象は、実際にイメージを浮かべやすいので分かりやすい。だが、そのイメージの中にある種の価値観が入り込むと、その価値観という視点からの判断が入り込むために、人によって判断が違ってきてしまう恐れがある。そこに秩序があるのかないのかという判断が、秩序があるということが良いことであるという価値観を持っていると、それが良いことのように見えないと「秩序がない」という判断をするようになるだろう。

価値観というのは、どれが正しいという決定が出来ないものだ。だから、それを基礎にして判断をすれば、その判断からは客観性が失われる。学術用語として抽象的な概念を作るのは、その概念を基にした判断に客観性を持たせるためである。つまり、誰が判断しても同じ判断になるような定義を作るために抽象化をする。

「秩序」という言葉をそのようなものとして理解して、社会現象における「秩序」の理解を深めようと思う。抽象的な意味での「秩序」を理解すれば、その「秩序」を支える条件が分かり、それが変化する要因も理解することが出来るだろう。未来に対してより正しい方向の予測が出来るに違いない。

さて、抽象的な意味での「秩序」の定義は、宮台氏は次のように語っている。

「統計熱力学では、秩序とは相対的にエントロピーの低い状態です。エントロピーとは、与えられたマクロ状態に含まれる、ミクロ状態の違いによって区別された場合の数の、多い(マクロ状態の生起確率が高い)/少ない(生起確率が低い)を表します。」


エントロピー」という言葉には価値観が含まれていない。純粋に対象の事実的な記述になっている。だから、「エントロピー」という言葉が分かっている人間にとってはこの記述で、価値観を離れた「秩序」の概念がすぐにつかめるだろう。しかし、この「エントロピー」という言葉は、「秩序」という言葉に輪をかけて理解が難しいものになっている。

ここでの理解のポイントは、確率的なとらえ方にある。生起確率が高いというのは、要するにありふれたというものだ。確率的な考え方では、いくつかの生起する現象を拾い出し、そのどれもが同じ程度で現象するという前提で考察をする。コインを投げると、表が出るか裏が出るかの二種類の現象が起こると考える。コインが立つなどという現象は起こりえないもの、つまり確率的にはゼロだと考える。

このとき、表が出やすいとか、裏が出やすいと言うような前提は置かない。どちらも同じ程度に現れるという前提で考える。これが確率的な前提であり、ランダムと言うことの意味になる。コインを投げるという試行の場合、それが1回だけなら、表が出るのも裏が出るのも確率が同じだから、そこにはどちらがエントロピーが高いと言うことはないから、より秩序があるという判断は出来ない。

しかし、これを何回も続けて試行する場合を考えると、表の出方と裏の出方の分布がどうなるかは、確率的に高いものと低いものが考えられる。どちらもほぼ同数出るという状態が確率としては最も高いものになる。もっともありふれた状態で、この場合は生起確率が高いので「秩序は低い」という判断になる。

表ばかりがたくさん出る、あるいは裏ばかりがたくさん出るという生起確率は低い。そうすると、もしそのような現象が見られるなら、この場合は生起確率の低さから、「秩序が高い」あるいは「秩序がある」という判断が出来る。これは、確率という客観的な情報から得られる判断なので、誰が判断しても同じものになる。

このように、確率と結びつけられた抽象概念の「秩序」で社会現象を見てみると、そこに現れる「秩序」はどのようなものになるだろうか。例えば、現在の日本の学校ではほとんど100%に近いほど、入学式・卒業式では日の丸掲揚と君が代斉唱が実施されている。しかし、かつてはそうではなかった。僕がいた養護学校でも、僕がいた時代には式典における日の丸・君が代はなかった。

日の丸・君が代に対して、それが「ある」「ない」という二者択一は、単純に確率的に半分だとは言えないが、ランダムと言うことの意味をそう解釈すれば、ほとんど100%「ある」と言うことは、確率的には低い状況が現実化していると言えるだろう。つまり、これは「秩序が高い」「秩序がある」という判断が出来る。

日の丸・君が代に反対する人にとっては、この現象を「秩序がある」などというと、感情的な反発を抱きたくなるかも知れないが、抽象的な意味で理解すれば、そう判断するしかないという客観性があるだろうと思う。いいか悪いかという価値観を捨象して、事実としてどうかという判断が抽象されていると考える。

さて、この状況が「秩序がある」と判断されるからには、その「秩序」を支えている条件が求められるとするのが抽象的な理論の展開になる。それが、宮台氏が説明する「定常システム」という考え方になるだろう。抽象論の応用というのは、現実をこのように解釈するとうまく理解出来ると言うときに有効性を発揮するだろう。

定常システムというのは、「連載第三回:システムとは何か?」で説明されている概念だ。定常というのは、辞書的には「一定していて変わらないこと」を意味する。これはいつまでも「A=A」という状態を保つと言うことではない。システムを構成する部分は常に変化しているが、全体としては一定の状態を保つという「同一性」を持つものを定常システムと呼んでいる。

その同一性は、確率的にはありそうもないものなので、秩序がその同一性を支えているとも考える。学校の式典における日の丸・君が代の問題で考えれば、その式典に参加する人は常に変化していると考えられる。だから、人々の思想に多様性があると考えるならば、日の丸・君が代に賛成の人も反対の人もランダムに登場すると考えられれば、常にそれを式典で登場させるという秩序は、定常システムとして同一性を保っているものと考えられる。ランダムなものなら、やったりやらなかったりがランダムに起こるはずだからだ。

日の丸・君が代を登場させると言うことは、人々の行為に関わるものなので、この定常システムは、行為を要素とする「社会システム」であるとも考えられる。行為というものは人間的な性質を持っているもので、その行為を選び取るという判断が、意志を介在して行われる。それが、意志の自由が完全に保障されているものなら、確率的にはランダムな状態になる。しかし、その意志が何らかの規定を受けていると、そこにはその規定による制御が働き、システムとして何らかの行為が常に選ばれるという「秩序」が見出せる。

宮台氏によれば、システムというのは、互いに影響を及ぼし合う部分がループを構成している要素を持っているものと定義されている。それはループを構成しているので、それが作動した状態を繰り返して、その繰り返しが安定した「定常」の状態を作り出すと考えられる。

日の丸・君が代が式典で存在するという定常状態は、どのようなループの基に安定した秩序となっているのだろうか。かつてはこのような定常状態はなかった。だから、自然的にランダムの状態では起こりえない秩序だ。人々の行為に働きかけて、他の選択肢を選ばせない要因となっているのはどういうものなのだろうか。

日本人的な感覚としては、「他の人がみんなそうしているから」と言うことの影響がかなりあるのではないかと思う。ランダムに自分の意志で行動が選べるとしても、他の人がしていることとかけ離れた行動をするというのは、日本人にとってはしにくいことだろう。その行為の規範が、ループとなって個人の行動を規制し、その通りに行動する人をますます増やして秩序を形成すると考えられるだろう。

しかし、それは現在のようにほぼ100%日の丸・君が代が実施されているという状況で推測されるシステムの構造だ。それがまだこのようなシステムになっていなかったとき、そのきっかけになった、それまでのシステムに変化をもたらすような原因としての変化はどこにあったのだろうか。

システムは、部分は変化しても全体としては変わらないという秩序を保つように働く。しかし、部分のある変化は、全体の変化につながるようなものがある。その時は、システムそのものが変化を起こすと考えられる。それを正しく捉えることが出来れば、システムが壊れることを防ぐことが出来るだろう。

システムを抽象的に捉えれば、このようにその成立条件であるループを守ればシステムが維持され、ループに変化をもたらせばシステムそのものが変化する(壊れる)と考えることが出来る。だが、実際の具体的なシステムについては、どこを抽象してループと捉えるかに難しさがあるため、抽象論の展開ほどすっきりとは考察出来ない。学校というシステムに関しても、どのような変化が望ましいかは、価値観が関わってくるので、正しく捉えたとしてもその変化を望んだ方がいいのか、変化しない方を望んだ方がいいのかは難しい。

日の丸・君が代の実施は、おそらく国旗国歌法の成立が要因として大きいのではないかと思う。しかし、それに対する価値観としての判断は異論がたくさんあるだろうと思うので、あくまでも事実としての秩序という面だけの考察にとどめたいと思う。

現在の学校というシステムにおいて、日の丸・君が代の実施という秩序は事実として存在している。この秩序は、学校というシステムの部分として、教育全体の中でまた一つのループとしての役割を果たすだろうと思う。この秩序は、他の秩序にどのように関わっているか、それはシステムという考え方で理解を深めていくことが出来るだろうか。この秩序が影響を与えて、学校というシステムの他の秩序の安定に寄与していることが分かれば、学校というシステムが将来的にどうなっていくかの予想も出来るかも知れない。そういう考察の方向に向かえば、宮台氏が提出する抽象理論としての社会学が応用出来たと言うことにならないだろうかと思っている。