学校という社会システムの秩序


宮台真司氏の「連載第五回 社会システムとは何か」によれば「社会システム」というものは「行為」というものを要素とする。システムの要素であるとは、それが互いの同一性の前提となっているようなループを構成していると言うことだ。

つまり、ある行為を前提としている行為があって、そのような行為の連鎖が一つのループをなしていると言うことが要素の間の関係としてみられる。これがループをなしていると言うことから、このような行為の連鎖の繰り返しが起こることが論理的に帰結される。従って、繰り返される行為によってある安定した状態が起こる。そのような定常の状態こそが「秩序」と呼ばれるものになる。

この「秩序」は、それがあるからといって道徳的な価値が高いというものではない。どのような状態であろうとも、定常的な安定性があれば「秩序」と呼ぶわけである。価値観を伴わない事実的な判断として「秩序」というものを定義している。判断のポイントになるのは確率的な見方だ。あらゆる可能性の間に、その起こりやすさを同等なものと仮定して、生起確率の低い場合が定常的に実現されていれば「秩序」があると判断する。

自然状態がランダムに起きるのであれば、生起確率が高いものが実現されるはずだ。それが生起確率が低いもの(エントロピーが低い)が実現されるというのは、システムの中にそれを実現する要因があるということだ。それが、起こりうる可能性の幅を縮める、要素の間のループの構造だと考えるのが「定常システム」の考え方である。システムにおいては、自然状態がランダムに起こるのではなく、要素の間に存在するループによって、内部作動的に選択肢の幅が狭められて生起確率が低いものが実現される。

さて、社会システムの要素である行為は、物理的な現象としては同じ(物質的な位置情報・動き・測度などが同じ)でも、意味的な違いがあれば違う行為として分類される。つまり、生起確率を考える際のあらゆる可能性を拾い出すときに、意味的な問題を考慮しなければならないものになる。この意味に関しては、宮台氏は上記の講座で

  • 1 示差的
  • 2 二重の選択性
  • 3 否定性
  • 4 選び直し

の4つの性質を本質的な属性としてあげている。生起確率との関連でこの4つの性質を考えてみると、ある行為と、その行為の選択に関わる別の行為の可能性というものが、この4つの観点から得られるのではないかと思う。

例えば、卒業式において君が代が演奏されるときに起立するという行為の意味を考えてみると、物理的な行動としては、それは座っている状態から立ち上がった状態になるということを意味する。この行動で、外から見れば全く同じように見えても、意味的には違うと言うことが起こりうる。

それは、意志の面から言えば、積極的にその行為をやろうという意志を持っている場合もあれば、あまりよく考えずに従っているときもあり、本当は拒否したいのだがある圧力によっていやいやながら従っているという場合もある。これらは、行動としては同じだが、内面の状態に違いがあるという示差性によって区別される。

また、起立するという行為の選択においては、それが学校における卒業式という前提を選択したときの行為の選択になる。これが、スポーツの前などの君が代演奏だったら、観戦している観客には起立する義務はないし、起立するかどうかは自由な選択になる。ある行為の選択が、すでに選択された前提のもとに行われていると言うことが二重の選択性に当たるだろう。

3番目の否定性は、生起確率を求めるに当たっては重要になる属性ではないかと思われる。行為の選択が、「起立する」「起立しない」という、肯定と否定の二つだけに単純に分けられるなら、その生起確率は1/2だと言えるだろう。しかし、否定性の中にいろいろな選択肢が見出せるなら、その数の分だけ「起立する」という生起確率は低くなる。つまりエントロピーが低くなり、抽象的な意味での「秩序」の度合いが高くなる。より「秩序」があると言えるようなものになる。

「起立しない」という行為の中に、

  • そのまま座っている。
  • 何か他の仕事をしている。
  • 会場から外に出る。
  • 最初から式に出席しない。

などのような選択肢が含まれている場合は、上のような場合なら、「起立する」という選択肢の生起確率は1/5になると考えられるだろうか。これらは、さいころを投げるときのように単純に同じ確率で起こるものではないが、生起確率の低さを考察するために、同じ確率で起こると仮定している。細かい事情は捨象して考えている。選択肢が増えれば生起確率が低くなり、それだけエントロピーが低くなって「秩序」が高くなると言う判断をするために末梢的だと思われる部分を捨象している。

最後の選び直しの性質は、システムの作動を考えるときに重要になってくるだろう。選び直しが出来ると言うことは、ループの分岐の構造が見出せると言うことになるだろう。単純に同じループを繰り返すのではなく、あるところで分岐する選択肢があり、そこで分岐することによって「秩序」に変化が起こることが考えられる。安定した定常状態が一つではなく、選び直しをすることでもう一つの安定状態も考えられるのではないかと思う。

さて、卒業式の君が代斉唱で、全員が起立して歌うと言うことは、君が代に敬意を持っている行為として非常に「秩序」あるもののように感じる人が多いかも知れない。しかし、抽象的に定義された意味での「秩序」を考えると、これが果たして「秩序」があると判断されるものかどうかには疑問を感じる。

抽象的に定義された「秩序」はエントロピーの低い、生起確率が低いという判断がされる。そして、行為の場合の生起確率は、どのような行為が選べるかという選択肢の数に関わっている。その選択肢の数は、4つの属性を考えることであらゆる可能性を見出すことが出来る。

もし完全な自由が保障されていれば、どの選択肢を選ぼうとも自由なのだから、「起立して歌う」という行為を選択する生起確率は極めて低いものになる。つまり、選択前提としてかなりの数の選択肢が許されているという状況にあるとき、一つの選択肢を選ぶことが圧倒的に多くなれば、そのシステムはその状態で安定していて「秩序」を持っていると判断出来る。

このような意味で「秩序」をもっている社会システムは、その社会の成員が自由な判断によって「秩序」を保っているので、近代社会としては非常に安定したものになっているだろうと思う。そのシステムの安定性を維持することに価値が見出せるのではないかと思う。

しかし、選択肢がほとんどない状態で、その選択肢を選ばざるを得ない人々がその行為をすることで、同じ状況が全ての学校で実現されているという場合は、抽象的な意味での「秩序」があるとは言えないのではないだろうか。それは、その選択肢しか選べないのであるから、生起確率としては非常に高いものになるだろう。つまりエントロピーが高い状態なのだから、「秩序」があるとは言えなくなるのではないか。

原始的生活をしていた人間は、例えば日照りが続いたときには、雨を降らせるのは神の行為であるから神に懇願をするという行為によって雨が降ると考えた時代があっただろう。ほとんどの人が、神というものをこのように考えて、神に懇願をするという「雨乞い」の行為を選ぶとしたら、その行為を選んでいる安定した状態というのは「秩序」があると言えるだろうか。

これは社会システムにおける抽象的な「秩序」ではないと思う。これは、誰もがそう考えていた時代に、常識的な行為を選んでいたと考えれば、むしろ自然状態がそのようなものなのであって、ランダムな確率として最も高い生起確率が実現されているだけのことなのではないかと思う。選択前提として、選択の地平と呼ばれる選択肢の数がない状態なのだと思う。

前近代においては、安定しているように見える状態がむしろ自然であって、それは近代以後の「秩序」とは違うものだと理解した方がいいのではないだろうか。近代以後では、自明の前提というものがなくなり、前提そのものさえも選択の前提になるという再帰性が問題になっているのではないだろうか。近代以後の「秩序」は、選ぼうと思えば「秩序」の否定である混乱を選べるのに、あえて「秩序」を保つ方を選ぶというシステムが存在することを問題として考えるのではないだろうか。

卒業式における君が代斉唱やその時の起立という行為については、愛国心との関係から考えれば、それを通達や法律で、選択肢を奪った状態で実現しようとするのは「秩序」をむしろ破壊するのではないかと思う。それは「秩序」ではなく、自明の前提という前近代性を復活させようとしているだけではないだろうか。それは、全く愛国心とは関係のないものではないかと思う。

愛国心というのを、社会システムとしての、行為の選択のループに影響する要因として「秩序」を保つためのものとして育てようとするなら、自由な選択を許した状態でなお愛国心に従って君が代の斉唱の時に起立して歌うという行為を自ら選ぶような「秩序」を実現するために努力すべきなのではないかと思う。

愛国心の押しつけで選択させようとするのは、近代的な意味での「秩序」は育てない。前近代的な自明な前提という先入観を植え付けるような教育になるのではないだろうか。ほとんどの学校で卒業式の時に、君が代斉唱があり、そこでほとんどの人が起立して歌うという今の状況は、本当の意味での「秩序」ではなく、近代的な意味から言えば何ら「秩序」ではない。むしろ、近代的な「秩序」を否定する、時代遅れの封建的な意味での「秩序」を実現しているだけではないか。僕はそんな感じがする。この考察が正しいものであれば、抽象理論の応用は役に立つなと思う。