上祐史浩氏の人間的成長


上祐氏がマスコミに華々しく登場していた頃は、「ああ言えば上祐」と揶揄されたように、屁理屈をまくし立てる詭弁家としてのイメージが強かった。上祐氏はディベートの専門家で、相手を言い負かす理屈の立て方には長けている人間だった。しかし「ああ言えば上祐」といわれていたと言うことは、その理屈をきっぱりと否定は出来ないものの、正しいと受け止めがたいといううさんくささを多くの人々が感じていたと言うことを意味していた。

その上祐氏が、神保哲生宮台真司両氏が司会するマル激トーク・オン・デマンドの「マル激トーク・オン・ディマンド 第289回(2006年10月13日) 麻原の神格化は大きな過ちだった ゲスト:上祐史浩氏(アーレフ代表)」でゲストとして招かれていた。そこで聞いた上祐氏の話は、穏やかな語り口とともに、屁理屈に流れない真っ当な論理としての明快さを感じた。その語る内容からは、上祐氏の誠実さも感じられ、10年あまりの時を経て大きな成長を遂げたのだなという印象を受けた。

かつて無理な屁理屈でディベート的に教団の正しさを主張していた頃についても、なぜそのような状態だったのかを冷静に分析しており、その結論にも納得出来る論理があった。特に印象に残ったのは、人間の心の弱さと関連して、絶対的な神を求めそれにすがろうとすることと、そのことによって自らを神にしてしまうことの間違いを語っていたことだ。この宗教的な理解の境地は、宗教性と無関係に考察する僕にもよく分かるものだった。つまり論理的な説明になっていた。

上祐氏がオウム真理教に惹かれて、麻原代表に接した最初の頃は数々の宗教的な神秘体験をしたらしい。この神秘体験というのは、それが客観的なものとして存在していると証明するのは難しい。神秘体験をしたと思っている当事者と、それを外から観察している人間とでは、体験の意味が違ってくるからだ。しかし、体験したと思っている当事者にとっては、客観的にはどういうメカニズムかは分からないが、体験として感じるということは確かだということは言えるだろう。

唯物論的に考えれば、人間の心がそのまま伝わることはあり得ないと考える。心は、何らかの物質的存在を媒介にして表現されることによって他者に伝わる、と考える。言語はそのもっとも便利な道具だと言うことになる。しかし、体験としては、自分が何も表現していないのに心を読まれるということがある。しかも、その心が自分としては「読んで欲しい」と願っている内容ならば、心を読んでくれた相手が神秘的な大きな力を持っていると思いたくなるだろう。自分のことを本当に良く理解してくれたと思うかも知れない。

これは、唯物論的に考えれば、心を直接読んだのではなく、表に現れた微細な変化から深層心理を読みとったのだと解釈することも出来る。シャーロック・ホームズの小説にはよくそういう場面が出てくる。鋭い観察力と推理能力を持った人間は、しばしば「超能力」ではないかと思えるくらいの洞察を見せることがある。

このような力が本当に「超能力」だと証明することは難しい。しかし、「超能力」らしき現象を体験したと言うことはいくらでもあるだろう。それが信仰を強めると言うことは納得出来る論理だ。オウム真理教という組織で中心の位置を占めていた頃の上祐氏は、そのような神秘体験を基にして、麻原代表に対する信仰を強め、麻原代表を神に近い存在として絶対的に正しいと考えていたのではないかと思う。

麻原代表とオウム真理教が絶対的に正しいという前提で論理をスタートさせれば、どこかで間違ったことをしていたときに、その間違いを認められずに無理な論理を展開しなければならなくなる。そこが「ああ言えば上祐」と揶揄されるような詭弁になったのだろう。上祐氏がディベートに高い能力を持っていなければ、その詭弁も笑い飛ばされ軽蔑されるようなものになったのだろうが、ディベートの専門家として高い能力を持っていたために、詭弁とは感じていてもすっきりとは否定出来ないもどかしさが揶揄となったのではないかと思う。

その上祐氏が、オウム真理教という教団が起こした犯罪と、それを裁く裁判を通じて、麻原代表の間違いとそれを見抜けなかった自らの間違いを真摯に見つめるようになったように感じる。誤謬を誤謬として深く理解することが、上祐氏の人間的成長をもたらしたのではないかと僕は感じた。

上祐氏の至った結論というのは、宗教として非常に重要な視点を持っているものではないかと感じる。それは、かつて釈迦が到達したという「悟り」の境地を、現代的な解釈の基に言い換えたものではないかとも感じた。それは、宗教的に感じるようなものではなく、論理的にも理解出来るような説明にもなっていて、これが宗教というものの新しい形なら、僕自身も信仰を持てるかも知れないと感じるものだった。

その本質は「人間を神にしない」という一言で言えるものではないかと僕は感じた。神という存在は、絶対的な存在として到達し得ない神秘的な信仰の対象として存在しうる。それは、理想とかイデアとでも言えるような存在と似たようなものだ。究極の抽象的対象と呼んでもいいだろう。

それは論理的に理解すれば、抽象的対象だから、そのままの形では現実に存在しない。しかし、抽象であるからには、現実存在の中にその片鱗を見ることが出来る。その片鱗を見ることが「神秘体験」というものになる。その神秘体験によって神の概念がよりハッキリしていくものになれば、そこで信仰が強まっていくようになるのではないだろうか。

この神は理想であり優れた存在であるから、その影響を受ければ人間的な成長が期待出来る。完全な神を感じることによって、自分の中の不完全さをよりハッキリと自覚し、それを埋めるために努力するという意識も生まれてくるだろう。人間は感情の生き物であり、自然のままに感情にまかせていれば、確率的にはランダムな判断の中にいることになるだろうが、神を意識すると言うことで自分の中に理想に近づくというメカニズムを持ったシステムを作ることが出来るだろう。

ここまでは宗教の建設的な側面であり、宗教のいい面が個人の成長に役立つことを教えている。だが、宗教の負の側面が、人間の間違いを増幅させると言うことがある。それに気づいた上祐氏の思考は、非常に優れたもののように感じた。それは、負の側面の極端な一面を見せたオウム真理教という教団の犯罪を、上祐氏が当事者として体験したと言うことがそれに気づいた大きい要因ではないかと思った。

上祐氏が悟った間違いは、究極の抽象として遙か彼方にあった神を自分の中に引き入れてしまったという、人間を神にしてしまったことだという。神は、あくまでも遠くにいる存在としてあがめるものであって、人間がそのまま神を体現出来ると考えてはいけないというのが、上祐氏が語る宗教的な「悟り」の境地ではないかと僕は思った。

しかし、人間を神にするという誘惑は、宗教においてはいつでも可能性が存在するものではないかと思う。神というのは、完全さを抽象したものであり、悪の面は一つもない。全てが善であり、だからこそ完全だと言える存在だ。素晴らしい存在であることは確かなものだ。その素晴らしいものを見つけることが出来た自分は、また神に近い素晴らしい存在であるという感覚も生まれやすい。

ただ、神が抽象的存在にとどまる限りでは、自分の中に神を取り入れる危険性もまだ少ない。自分が神の生まれ変わりだと信じるほどの強さを持っている人間は少ない。しかし、そういう人間が登場して、人間の姿をした神を見つけたと思ったとき、その人間の姿をした神を見つけた自分という人間も神に近づいてしまうと言うことは起こりやすいだろう。

オウム真理教における間違いは、麻原代表を神にしてしまったことだと上祐氏は語る。麻原代表を神にしてしまったために、麻原代表が間違えると言うことは論理的に考えられなくなった。神は完全な存在として抽象されているからだ。しかし、神ではない人間は間違いうると言うことが現実にはある。それを上祐氏は体験し、そこからこのような神の概念を学び取ったと言えるのではないかと思う。

完全な神はあくまでも彼岸の彼方にあり、人間という存在は、それを感じ取ることは出来るが、神になりきることは出来ない。麻原代表という存在も、神の存在を様々な現実存在の中に感じ取ることの能力は高かったが、それだからといって神そのものにしてはいけないのだ、というのが上祐氏が至った結論なのではないかと思う。

人間を神にする弊害は、その人間に現実に敵対する存在があったとき、敵対する者たちを悪魔にしてしまうことだ。敵対する者たちが悪魔であるなら、それを抹殺することが正しい行動となってしまうだろう。それがオウム真理教が取り憑かれた間違いだったと上祐氏は語っているが、この解釈は納得出来るものだ。

人間を神にしない宗教というものは現実には難しいと思う。神は抽象的な存在であり、現実に姿を持たないものであると言うことを、感情的にも納得するのは難しい。長い歴史を持っているキリスト教イスラム教は、形の上では神となった人間はイエスだけだ。もはや今では存在していない。しかし、イエスの生まれ変わりを称する人間は出てくるし、最も高い地位を持つ聖職者が神のように信仰の対象になる可能性もある。

しかし、だからといって宗教を否定して宗教なしに生きようと思っても、それほど人間は強くない。僕は既存の宗教に対する信仰は持っていないものの、現実世界では論理的に正しいことが実現して欲しいという宗教的な願いを持っている。このような願いが裏切られたときに、どう心の平静を保つかという問題は、既存の信仰がなくてもやはり宗教的な問題になるのではないかと思う。

世の中には理不尽や不条理がたくさんある。その中で、自暴自棄にならずに心の平静を保って生きるには、この理不尽や不条理が存在する論理をある意味では納得して、それが解決されるということを信じて生きていく必要がある。狂信は人間を不幸にするが、正しい信仰は人間の弱さを埋める力がある。

狂信に陥らない戒めとして「人間を神にしない」という上祐氏の「悟り」は、宗教的に大きな意味があるのではないだろうか。このような考えに至った上祐氏の優れた知性に大きなリスペクト(尊敬)を感じる。始めに結論ありきというディベート的な思考ではなく、真理とは何かを求める論理的な展開が、上祐氏の知性を優れた方向に導いたという感じがする。そして、そのことによって上祐氏の誠実さというものがはっきりと現れてきたと言えるだろう。かつて屁理屈を弄していた頃は、誠実さは影を潜めていたが、真っ当な論理を展開することによって誠実さも表に現れてきたという感じがする。

上祐氏は、「こんな悪いことをした我々でも変わることが出来る」ということを示したいというようなことを語っていた。人間は誰でも良い面と悪い面を持っているのだろう。それは宗教的な真理かも知れない。そして、良い面が現れるか、悪い面が現れるかは、ある種のメカニズムによって決まる。弱さの克服において、人間を神にすれば悪い面が現れ、人間を神にしないという戒めを持てば、良い面が現れてくるのではないだろうか。そんなことを感じさせる上祐氏の話だった。