疑問を感じる教育界の二つの事件


いじめによる自殺ではないかと思われている事件において、学校側が「いじめの事実が確認出来ない」と主張することが続いているようだ。これは学校側の認識の甘さや責任逃れという面が感じられて、外から見ている人間にはケシカランことのように映るのではないかと思う。

しかし「確認出来ない」と言うことはある意味では本音を語っているようにも僕には見える。むしろ、「確認出来ない」という状況を生み出す社会の側の問題が本質的に重要なのではないかとも思える。これが確認出来るようになったとしても、社会の状況が変わらなかったら、学校がこのことの解決に出来ることは乏しいのではないかとも感じる。

もう一つ変な感じを受けるのは高校における必修科目の世界史の履修漏れの問題だ。この問題は、その解決において、全く責任がない生徒の側に一番大きな負担を強いると言うところに変な感じを受ける。履修漏れがあったから、その漏れた世界史の科目を履修して問題を解決するというのは、理屈としてはつじつまが合うかも知れないが、どこに一番責任があるかという問題は棚上げになってしまう。それがはっきりしないと、何か変な感じが残るのではないだろうか。

教育問題について語るのは、僕にとっては当事者意識があるので客観性を持てるかということが心配だ。いじめ自殺問題に関しては、いじめの「確認が出来ない」と言うことに僕は一定の理解が出来る。これは、同じ立場の同業者を擁護しているように受け取られるかも知れないが、いじめの判断は、原理的に客観的な判断が出来ないのではないかと論理的には感じる。

いじめというのは、物理的な「行動」の問題ではなく、意味的な「行為」の問題だ。外見が同じように見えても、それが意味的に「いじめ」の意味を持っているかどうかの判断は、物理的な観察だけでは判断出来ない。また、いじめを受ける方の感覚(主観)を判断基準にするのか、いじめをしていると見られる方の感覚(主観)を判断基準にするかで判断が違ってくる。

いじめを確認すると言うことはそう単純な判断ではないと思う。だから、「確認出来ない」という言い方は、ある意味では本音であり正直なものではないかと思うのだ。

いじめの判断の考察には、三浦つとむさんが「差別語」の考察に使った論理が応用出来るのではないかと思う。三浦さんは、「差別語」という言葉に倫理的な意味での「悪い」という意味を持たせずに、単に物理的な意味での差異を表現するという意味だけを持たせて考察した。

そして「差別語」の不当性というものを文脈の方に見出すことで、それが批判されるべき「差別語」なのか、正当に差異を表現している客観的な表現なのかを判断しようとしていた。この判断も非常に難しいものも存在するが、単に表現上の形式として、「差別語」として分類されている言葉が入っているから不当だというような単純な判断よりも、現実にはより正しいと思われる判断に近づいていくだろうと思われる。

世間で「差別語」だと分類されている言葉を使ったからといって、不当な差別の意図を持っているとは限らない。つまり「行為」として不当な差別の意味が込められているとは限らない。逆に、「差別語」に分類されている言葉ではない言葉を使っても、そこに意味的に不当な差別が込められていることもあり得る。同じ形式(外見)の言葉が、ある時には不当な差別になり、ある時には正当な差異表現になるという判断が必要だろう。

いじめという「行為」についても、同じような「行動」が、ある時は不当性を帯びた「いじめ」になり、ある時は正当な「行為」として評価出来ると言うことがあり得るのではないか。その違いは外見からでは難しい。意味的な文脈を読みとらない限り正しい判断が出来ないのではないだろうか。

いわゆる日本の家制度における「嫁姑問題」は、現代感覚からすればそれは「いじめ」のように映るのではないだろうか。嫁だけが不当な差別を受けて、家族の苦労を一身に背負うという印象を受ける。そして姑は、嫁をいじめる鬼のような存在に映るかも知れない。

しかし、当事者の意識はまったく違うものだったのではないだろうか。かつての日本ではそのような「嫁姑関係」が普通であり、姑もかつて嫁だった時代はそのように扱われてきて、それが日本の家を安定させてきた要因だったとすれば、それは「いじめ」ではなく「しつけ」なのだという意識(主観)で行っている「行為」なのではないかと思う。

嫁の方にしても、かつてはそれを「いじめ」だと受け止める人は少なかったのではないだろうか。だが時代が変わり、個人の主体性が尊重される時代になれば、嫁だけが家の苦労を背負うと言うことが、たとえ家が安定したとしても不当ではないかという考えが普通になってくる。かつて「しつけ」として通用していたことが「いじめ」として認識されてくるようになったのではないだろうか。

学校の側がいじめが「確認出来ない」と語るのは、その「行為」の意味が文脈的に理解出来ないと言うことだろうと思う。単に遊んでいるだけのように見えたり、子ども同士に良くあるケンカの一種だと思われたりすると、それを積極的にいじめだと判断するのは難しいだろう。普通には何でもないと思われている「行為」が、時代の変遷とともに「いじめ」と受け取る心性が高まってきたのかも知れない。

このように難しい判断は、自殺という事件が起きて初めてその深刻さに気づくと言うことがあるのではないかと思う。だからこそ、自殺が起きる前にはいじめだという不当性が「確認出来なかった」のではないかと思う。もし自殺が起きる前にいじめを確認することが出来れば、自殺に至る前に何らかの手を打てただろう。自殺という事件に発展してしまったことが、すでにいじめということの確認が出来なかったことを証明しているようにも見える。

だから、自殺が起きた後に、いじめがあったかどうかを確認しようとするのは、何か本末転倒な感じがする。ヤフーの「<岐阜自殺>中2女子誕生日にメモ残し 「いじめ」可能性」というニュースによれば「学校が自殺翌日に全校生徒を対象に記名式で実施したアンケートでは、いじめと思える事案は見つからなかったという」報道があった。

事前にいじめという確認が出来なかったことが、事後に確認出来ると言うことはないのではないだろうか。少なくとも、いじめていると見られている人間が、記事によれば「(バスケットの)技術的な問題で失敗した時などにきつい言葉を投げかけたことはあるが、いじめという認識ではない」と語るのは論理的には当然とも思える。このときにいじめという意識があれば、事前につかむチャンスはあったと言えるだろう。

それが自殺という事実によって、相手は「いじめ」と受け取っていたと言うことが分かったというのが、この状況の論理的な理解ではないかと思う。同じ「行動」が、一方からは「いじめ」として映り、他方からはちょっと行きすぎたかもしれない「叱責」と思われていたのではないだろうか。

この感覚のずれを正しく軌道修正するのはかなりの困難を伴う。いじめられる側がそう感じることを全て避けようとすれば、いじめを感じる人間とのコミュニケーションをしないということが正しい行動になってしまう。差別を感じる言葉を一切使わないという表現をすることが「差別語」の解決だと考えることに通じるものになるだろう。いじめられる側に100%依存する判断は、コミュニケーションの否定という結果をもたらすのではないかと思う。

しかし、いじめはどこにもあるのだと言うことで、その不当性を免除するような、いじめられる側に我慢を強いるような方向も正しくないだろう。それは不当性が承認されることになり、「無理が通れば道理が引っ込む」という諺の正しさを証明するものになる。どちらにしても極端な側の発想は正当な論理は否定される方向へ行ってしまう。

極端ではなく中庸の道を取ることが正しい軌道修正の道になるだろう。しかしこれはとても難しい。正当か不当かという判断を、常に文脈の理解とともに行わなければならない。この判断を100%正しく行うことは不可能だ。だから、判断を間違えたときの弊害を少しでも減らす工夫が要るだろう。

学校のいじめの問題で言えば、いじめられたと感じる人間が、いじめを告発することが容易になるような制度的工夫が必要だろう。そして、その感覚が勘違いであったときに、勘違いで厳しい処罰をされないような歯止めも考えなければならないと思う。告発は容易にするが、判断は厳しく厳正にするということが必要だろうと思う。告発されただけで処罰されるような、警察国家のような制度では逆の問題が出てきてしまうだろう。

また、いじめを感じるようなときは、学校に行かないと言う選択や、他の学校に移るという選択も容易に出来るような制度が必要かも知れない。時代的な変化として、ちょっとしたことが自殺につながるような恐れがあることが分かった今となっては、この程度のことは「わがまま」ではなく正当な権利として「自由」が認められなければならないのではないかと思う。

社会状況との関連から言うと、社会に蔓延している不当な「いじめ」の現象の不当性を一つずつ解決していくという必要があるのではないかと思う。社会に不当な「いじめ」が残っていれば、その反映が学校に現れるのは必然的なことではないかと思う。

派遣労働者やパート労働者の問題として、同じ仕事をしていながら給料に不当な格差があるのは、これは社会に見られる「いじめ」現象ではないのか。表に出てこられない、不法就労といわれる外国人労働者の問題も同じ構造を持っているのではないかと思われる。

このような現象は、ごく当たり前に社会に蔓延しているので、その不当性を感じる感受性が鈍っていると思う。そのためまさに「無理が通れば道理が引っ込む」という現象が起こっていると思う。

いじめの事実が「確認出来ない」というのは本音であり、現状を正しく反映しているのだと思う。問題は、確認出来なくさせている社会状況の方を深く理解することではないかと思う。それは、ごく当たり前のことであって、自分としては何ら問題を感じないと受け止めることが出来るから「確認出来ない」のであって、本当は多くの不当性を含んでいるのではないかと再考することが大事なのではないか。

また、誤解を招きそうな言い方になるが、いじめを受けていると感じている人間の方も、「免疫性」を高める必要があるのではないかと思う。小さな出来事に左右されすぎない強さも必要ではないかと思う。そのためには、自由に逃げられると言うことがどうしても必要な気もする。それは、いつでも逃げてばかりいていいということではなく、訓練の度合いが適切なものであるかの判断をするために、逃げる自由を担保しておくと言うことだ。「免疫性」を高めるための訓練は、その人に適した強度が必要だ。指導者がそれを適切に判断する能力を高めるためにも、耐えきれなくなったときには逃げるという自由が必要なのではないかと思う。

仮説実験授業研究会では、子どもたちの主体性を育てるために、「イヤなものはイヤだと正直に言おう」と言うことを子どもたちに呼びかけていた。それはあるときにはわがままと言うこともあるだろうが、訓練が適当でないと言うことを指導者に教えてくれる指針として役立つのだと受け止めていたのだと思う。

履修漏れの問題についてはあまり詳しく考えられなかった。これももっと深く考えてみたいものだと思う。