宮台氏の「左翼の嘘」という発言の意味


漫画家の江川達也氏をゲストに招いたマル激の議論で、宮台真司氏は「左翼の嘘」という表現を使った。これは、「朝鮮人強制連行」に関わる言説で、「全て」の在日朝鮮人が強制連行で連れてこられたというのは嘘であって、強制連行による人も「存在した」のは確かだが、大部分は自ら日本へ来た人ばかりだったというものだった。

この事実に関しては僕も驚きだった。宮台氏自身も、高校生まではこの「左翼の嘘」が正しいというイメージを持っていたそうだが、僕はついこの間までは、大半は強制連行された人だったのではないかと感じていた。それが全く逆だったというのが事実の方だというのは驚くことだった。

宮台氏によれば、この「強制連行」に関わる言説が嘘であること(大半が「強制連行」ではないということ)は、在日の人々の間では自覚されていたそうだ。宮台氏はそれを在日の人たちに直接聞いたという。しかし、何らかの理由で、この嘘(一部の「存在」を「全て」に言い換えるというもの)が流通することが有利に働くことがあったので、長い間これが暴かれることがなかったのではないかと語っていた。

この嘘は論理の間違いから言えば、全称命題と特称命題の間違いであり、それなりに間違えやすいものでもある。全称命題が否定されたからと言って、特称命題まで否定されることはない。だが、人々の反応を見ていると、感情的にはそのような反応が見られるような気もする。「全て」の人が強制連行とは限らない、ということは強制連行だった人もいたと言うことを否定しないのだが、強制連行などはなかったのだという逆の極端に振れる感情の揺れがあるように見える。

「全て」(あるいはごく一部を除く大半であれば、ごく一部を捨象して「全て」と語ること)という言説は、感情的なインパクトが大きい。「全て」の在日朝鮮人が強制連行で連れてこられたのだと言うことであれば、日本の戦争はどれだけ罪深いことをしてきたかと言うことが、感情的にも伝わってくる。人々を動員するのに、「全て」という言説は非常に有効だと言えるだろう。

だが「全て」という言説は、厳密に考えれば現実にはあり得ない。現実には「全て」を確認出来る場合が少ないからだ。原理的には無限を把握しなければならなくなる。これを、現実的に、一部を捨象した大半と考えても、その証明は難しい。「全て」を語る言説は、そこに入らない存在が見つかったときに、その部分からほころびを見せてくる。

極論は人々の感情に訴える力が大きいから動員には役に立つ。しかし、極論には論理的な穴がたくさんあり、論理的な破綻を来す可能性が大きい。このとき、破綻した論理は、その感情的な影響が大きい分だけ反対の極に振れる可能性が大きい。バックラッシュという現象を理解するのに、この極論の揺り戻しという綱引きは現象をよく説明するものだと思う。

新しい歴史教科書をつくる会」などが、「従軍慰安婦はいなかった」とか「強制連行はなかった」という言説は、ある一面では正しい面を持っていたのだと今は感じる。その一面の正しさに反応した人が、今までの「嘘」を否定して、その「嘘」が極論の嘘だったために反対の極に振れたと理解することが、現状把握としては正しいのではないかと感じる。

全ての人が、軍による強制的な措置で慰安婦になったのではなかったのだろう。「全て」は否定されるような所があったのだろう。もし「全て」がそのような存在だったら、公文書で何か証拠が残っていていいはずだと考えるが、それが見つからないことが、ますます「全て」を否定する強い証拠だと思われただろう。そして、「全て」を否定出来たときには、「全てそうではない」という逆の意味の「全て」を主張することになってしまったのだろう。これは論理的には


<全ての人が軍の強制によって従軍慰安婦になった>のではない(否定)
     ↓
<強制でない形で従軍慰安婦となった人もいた>


という理解になる(ド・モルガンの法則によって)。この結論は、強制でない人もいたと言うことであって、全てが強制ではなかった、という主張ではない。強制で連れてこられた人の存在は否定していないのである。だから、強制によってそのような目にあった人がいた場合、その不当性に対しては告発する権利があると考えなければならない。だが、逆の極端に振れた人たちは、全てが強制ではないのだから、告発自体が間違いだと受け止める人が出てくるかも知れない。

「全て」を語る言説が、対立する両極端の立場の間で揺れるというのは、不毛な二項対立を生み出す原因となるものかも知れない。それは実際には対立しなくてもいい考えを対立させて、論理よりも感情を前面に押し出した対立になってしまうだろう。「全て」という言葉にもっと敏感になって、それがどのように具体的な「全て」なのかをよく考えなければならないだろう。

このような論理の使い方に関わる「嘘」の構造は、対立する議論にはいくつか見つかるのではないかと思う。例えば南京大虐殺を巡る議論では、虐殺された人々の数の多さが主張されることが多いが、本質的にはそこで死んだ人々の「全て」が虐殺されたのだという感情的な面に訴える言説が対立を生んでいるようにも感じる。そこで死んだ人々は、「全て」が虐殺されたのではなく、戦闘行為で死んだ人も「存在した」のではないかという問題だ。

「全て」が虐殺されたという主張なら、その悲惨さは感情的に最高のものになり、訴えるインパクトも最高のものになる。しかし、この「全て」の主張は、論理的な破綻を招く恐れのある「全て」になる。実際には、その殺害の内容を細かく研究して、虐殺と呼べるような不当なものがどれくらいあったかを、客観的に考えようとしている人もいると思う。だが、分かりやすい言説としては、やはり「全て」が虐殺だったのだという主張が流通しやすいかも知れない。

この「全て」に疑問を持った人間が、「全てではなかった」という結論を得ると、これが「全てはそうじゃなかった」という極論に振れたくなるのが感情かも知れない。「全て」に疑問を感じる人間は、ある特定の対象に対しては、その言説が間違っていると感じている人だろうと思う。その人が証拠を手に入れたら、疑問の大きさに応じて、逆の極論に振れる度合いが大きくなるだろう。

フェミニズム的な言説に関しても、この「全て」に関わる論理の破綻をもたらす可能性を僕は感じる。フェミニズムの考え方が、極論に陥る可能性があるのではないかというのは、以前は漠然とそう感じていただけで、確たる証拠も確信もなかった。それで、あまり確実とは言えない証拠を持ち出して、この極論を展開してみようとして失敗した。それは、僕の中の偏見が、そのあやふやな証拠を「全て」を否定する一つの事実だと勘違いしたところにあったと今では分析している。

だが最近の考察で抽象論としてたどり着いた考えは、「イズム(主義)」で語られる言説は、マルクス主義にその典型を見るように、「全て」を主張するものになっているということだ。マルクス主義では、「全て」の歴史を階級闘争の歴史だと見る。それは、抽象され、捨象されたものだと今までは理解していたが、それをあまりにもベタにそのまま現実に押しつけすぎたのではないかとも感じる。現実には、捨象出来ない階級闘争が存在しない歴史だってあったのではないか。

資本家が「全て」搾取する存在であるというのも、抽象出来るのかどうか疑問を感じる。板倉聖宣さんは、資本の発明の素晴らしさを語ったことがあった。歴史の進歩をもたらした資本主義という制度が、全くの悪であって、いいところが一つもないということはないだろう。だが、マルクス主義は、資本主義の「全て」を否定してしまったのではないか。

フェミニズムも、現在の体制が「全て」男の視点から、男に有利なものとして作られていると主張しているように見える。この社会の構造からは、「全て」の男は逃れられないとも考えているように見える。男であるということから、「全て」の男は抑圧者であると結論するような論理を感じる。この「全て」の論理は非常に危うい論理のように思う。もし、抑圧者でない男が一人でもいたら、この「全て」は論理として破綻してしまうからだ。

フェミニズム的な「全て」の言説に疑問を抱いている人間が、その「全て」を否定するような特別な存在を見つけたら、反対の極に振れる「全て」の否定に陥る危険性はないだろうか。林道義さんの言説などを見ていると、フェミニズムの言説の「全て」を否定しにかかっているように見える。その恨みの深さは、感情的には良く理解出来るが、論理としては反対の極に振れてしまって、その批判の矛先を向けている「フェミニズム」と同じ誤りに陥っているように見える。

このような二項対立をしている当事者の間では議論は成立しないだろう。社会的に多数を占めた方が相手を攻撃してバッシングするという現象が見られるだけのような気がする。そして社会的に多数を占めるきっかけはかなり偶然なものなのではないだろうか。

マルクス主義においては、それをリードする社会主義国家の、特にソビエトが国の経営に全く失敗したと言うことがあるように思う。誰の目にも明らかな失敗がさらされてしまったので、人々はそれを全く否定してしまったという感じがする。そのような失敗が起こらなければ、言説の段階では、まだ極論が流通していたかも知れない。破綻は必然的なものだったかも知れないが、いつ破綻するかは偶然的なものではないかと思う。

「左翼の嘘」というきっかけがどのようにして生まれたのかは分からないが、破綻する「全て」の論理には、いつかはこのようなきっかけが生まれるのだろう。バックラッシュによるバッシングが始まったところには、破綻する「全て」の論理が見付かるのではないかと思う。人々の感情を抑圧する「全て」の論理というものを、いくつかの現象の中に探してみたいものだ。「全て○○は、こうすべし、こうであるべき」ということを主張したくなるところには、それが抑圧として働く、破綻をはらんだ論理があるのではないだろうか。