左翼(学校)の全体主義


いじめ問題を扱ったマル激の議論の中で、ゲストの内藤朝雄さんが言った「右翼も左翼も全体主義が好きだ」という言葉が印象に残った。この場合の「右翼」と「左翼」は定義が曖昧な言葉だが、多くの人からそう見られている集団という程度に受け止めればいいのではないかと思う。

右翼の全体主義というのは分かりやすい。軍国主義の歴史というものがあるからだ。かつての日本では、軍国主義的思想からはずれるような人間を「非国民」と呼んで迫害した。全体からの思想の押しつけの圧力の強さは、少し歴史を振り返ってみればすぐに分かる。また、この歴史は日本固有のものではなく、ファシズムの歴史を持っている国ではいずれも同じような全体主義が支配した時代があった。

右翼的な全体主義ナショナリズムから導かれてくるもののように見える。そしてある種の事実がそのナショナリズムから見て自明の前提とされるようになると、それが数学的な公理のようになり、それに異議を唱えることが出来なくなる。その命題が支配する全体主義的な世界がそこに誕生することになるだろう。

国のために命を投げ出すことが自明の前提だった時代には、人の命は物である兵器よりも軽いものになった。そのような全体主義の時代には、命をかけて敵に体当たりする特攻などに異議を唱える人は出てこられなかっただろう。

アメリカなどで兵士の命が重いものと考えられているのは、国のために命を投げ出すことが自明の前提ではなく、勇気ある貴い行為だと受け止められているからではないかと思う。誰もが出来ることではない優れた行為だからこそ、その行為を行う人の命は尊いという発想になるのではないかと思う。全体主義的ではないからこそ、歪んだ命題が導かれては来ないのだろう。

人の命が物より軽くなるのは歪んだ思想だと思う。そのような考えが生まれてくるのは、全体主義という思想がゆがみをもたらすメカニズムを持っているからだと思う。だから、集団が全体主義に染まらないような手だてが必要なのではないかと思う。

内藤さんが語った「右翼」や「左翼」というのは、その考えを過度に進める人たちが抱いている思想なのではないかと感じる。ナショナリズムというのも、過度にならずに健全なところにとどめ置くことが出来れば、自分さえよければいいのだという利己主義を脱し、その国で育っていく子どもたちの将来を見据えた思想を生み出すことが出来る。

「右翼」の全体主義ファシズムに進化し、それがエスカレートして様々な悲惨な戦争を起こした印象が強いので、全体主義は「右翼」の専売特許のように感じられるところがあるが、ソビエトの崩壊以来は、「北朝鮮」の姿などを見たりすると全体主義は今度は「左翼」のものと考えられつつあるのではないかと思う。

右翼の全体主義が、過度なナショナリズムによって生み出されるように、左翼の全体主義は、善意と真理から導かれるような気がする。内藤さんが語った「左翼の全体主義」は、学校という場で行われている現象を捉えた文脈で出てきたのだが、僕も学校という場に全体主義的なものを感じるので、この言葉がよけいに印象に残ったのだと思う。

僕が生徒だった頃には、学校が押しつけてくる善意というものに息苦しさを感じたものだった。学校というのは(あるいは教師というのは)、誰もが平等に機会を与えられ、誰もがそれに一生懸命取り組むことに価値があると思いがちだ。そこで得た経験によって、生徒は今まで乗り越えられなかった壁を乗り越えて成長すると言うことを信じているような所がある。

これを信じていると表現するのは、必ずしもその予想通りにいかないこともあるからだ。法則的に、いつも良い結果が出るとは限らないのが現実だ。だが、誰もがそう信じていると、そのことに異議を唱えることは出来なくなる。誰もが信じていることを押しつけて来るという全体主義的な雰囲気がそこに生まれる。

あることを信じている人にとっては、その信じていることは「真理」になる。また、人間が成長することはよいことだというような価値観を持っていれば、成長の助けをすることはいいことだという「善意」も生まれてくる。これが全体主義につながって歪んだ結果を生み出すと僕は思えるのだが、学校という現場にはそう言う感覚を持った人は少ない。

例えば、文化祭の発表のような、芸術表現を義務として課されたら、本当に芸術を好きな人はむしろそれを拒否したい気分にならないだろうか。芸術表現というのは、それは発表したいという内的な欲求がわき起こってきた人がするべきだと思う。だが、学校現場では、今その欲求がわき起こってこなくても、やっている中でそれが起こってくるはずだから、最初にそれが見つからないときはそれを与えて引き出すべきだと考える人が大部分だ。

この考えには一理ある。そうやって成功することもあるからだ。だが、それがいつでも正しいと考えたら、それは歪んだ全体主義にならないだろうか。どのようなタイプの人間にはそれを与えて引き出してやることが成功するのか、どのようなタイプの人間にはそれは失敗するのか、そのような発想も必要ではないだろうか。誰もがそうであるはずだと思い込んで、そうならないときは努力が足りなかったのだと評価してしまうのは、現実を正しく考えたことにはならないのではないか。

ある種の事柄が自明の前提のように扱われて、それに疑いを抱く人間がいなくなると、そのことが無言の圧力となって個人に覆い被さってくる。このような状態を全体主義的な状況と呼べるのではないだろうか。これは特に学校という場に僕は強く感じる雰囲気だ。内藤さんは、このような全体主義的な要素が「いじめ」を必然的に引き起こすとも論じていたように思う。

内藤さんは、学校のことを「ベタベタした共同体」とも表現していた。それぞれの構成員が、適当な距離をとって個を確立した関係にあるのではなく、いつでも自分の領域に踏み込まれてくるようなベッタリとくっつきあった状態の関係がそこにはあるという指摘だ。この特徴も全体主義のゆがみが引き出される重要な要素ではないかと思う。個が確立していない関係では、過度の干渉が存在し、それが全体主義的な思想の押しつけに効果を与える。

僕は自分の中にやる気が芽生えないときに、無理やりやる気を出させられるのが嫌いだった。たとえそのことによって何かに上達するという結果が出ても、自分を失ってしまったという感覚が大きく、自分を失ってまでも手に入れるだけの価値がそれにあるのか、という疑問をいつも抱いていた。

僕は高校を卒業するまで、学校で教えられることを家で勉強したと言うことがほとんどなかった。試験勉強というものをしたことがなかったのだ。授業は、教師が語ることが分かる間は聞いているが、どこかで分からなくなると違うことを想像して時間を過ごした。ほとんどは数学の問題を考えているという感じだっただろうか。

僕は無理やりやらされることは拒否したが、他の人間がそれをやりたいというのなら、それを邪魔したことはなかった。だから、このように他者の邪魔をしないのであれば、学校的な全体主義からはずれる人間の存在も許容して欲しいと思う。

僕の場合は、押しつけられるものを拒否したとしても、外見上は頭の中で違うことを考えていただけなので、教員の方では押しつけを拒否しているとは分からなかったので見逃していたのかも知れない。しかし、あからさまに拒否の姿勢を示したら、それはきっと弾圧を受けるだろう。だが、弾圧をすることで感情的な反発を呼び、弾圧さえなければ拒否の姿勢を見せるだけだったものが、弾圧によって抵抗者になり邪魔をするということが起こってくるのではないかと思う。これは全体主義のゆがみだと思うのだが、なかなか理解されない。また、このゆがみを理解した人が反対の極に振れる恐れもある。押しつけは全ていけないという理解も、反対の極の全体主義になるだろう。

仮説実験授業研究会では、子どもへの押しつけに関して、子どもにそれを拒否する気持ちが起こらないような押しつけなら、どんどん押しつけていっていいだろうというような指針を出していた。その押しつけを拒否しているかどうかと言う判断に敏感になろうというものの考えだった。

仮説実験授業では、基本的には4つほどの選択肢を設けて問題を提出する。選択肢を設けることで、これは子どもの自由な発想の邪魔をしていると解釈する人もいる。これは間違った押しつけではないかという批判だ。だが、この押しつけは子どもたちに拒否されることがない。子どもたちは、むしろ選択肢があることで自分の考えがはっきりしていき、自由にされたら漠然としか考えられないことがはっきり考えられるようになることを喜ぶ。

子どもたちにこの種の押しつけが歓迎されているのか拒否されているのかは、仮説実験授業では、直接子どもたちに訪ねてみる。その結果を見て判断するので、教員の側の思い込みや善意で判断しようとはしない。学校における全体主義をうまく避ける工夫になっているのではないかと思う。

学校が全体主義的になるのは、生徒の生活の全てを背負おうとするからではないかとも僕は感じる。学習も道徳も生活習慣も、生徒の人生のあらゆる面で学校は影響力を持とうとしているのではないだろうか。それは、かつての時代なら、どこもそれを担ってくれなかったという条件の下では、学校はそれなりにその任務を果たしていたのではないかと思う。仕方なくやっていた状況の時は過度の期待をされなかったのではないかと思う。

時代はもはや学校が生徒の生活の全てを背負う時代ではなくなっている。このような時代に、未だに全体主義的な特徴を残しているところに学校の再生が難しいところがあるのではないか。内藤さんや宮台氏の指摘にはそう感じられるところがあった。この学校の再生は、教育基本法という法律の言葉を変えるところに解決の方向があるのではなく、どのように具体的に全体主義的な要素を取り除くかに解決の方向があるのではないかと思う。

内藤さんや宮台氏の具体的な提言にはいくつか希望が持てそうなものが多かった。学校というものに過度な機能を持たせるのではなく、学習という面だけに限定して再生すべきではないかということに役立ちそうな提言には期待が持てると思った。

学級というものの解消というのは、都立高校の単位制制度の成功という面からも期待が持てるものだと感じた。学校生活が学級というものに縛られる時代は終わったといってもいいのではないだろうか。学級がなくなれば、何を学びたいかというのは、個人の選択にゆだねられることにもなるだろう。全体主義的な要素はかなり減るに違いない。共同体的なメンタリティを持つ教員には、学級がなくなった学校は想像も出来ないかも知れないが、僕のような人間にはとてもいい環境になるだろうと期待出来る。その時は、本当の意味で個と個のつきあいが生徒と教員の間に出来るのではないかと期待出来る。

学校に警察を導入して、学校を法が通用する市民社会にするべきだという提言もいいものだと思った。学校が警察の役割もしてしまうことに全体主義に傾くきっかけがあるのではないかと思う。生徒の弾圧のために警察が使われるのではないかと心配する人もいるかも知れないが、それを恐れて教員が生徒を弾圧するのを見逃しているのが今の学校の状況ではないかとも感じる。市民社会の常識の範囲で学校に警察を導入することは必要なことではないかと僕は感じる。

内藤さんは、学校を聖域にしないということも語っていた。これも重要なことだろうと思う。聖域には、それに対する批判を許さないと言う面がある。容易に全体主義に流れることになるだろう。学校は特別にいいものではない。いい面もあり悪い面もある、ごくありふれた存在なのだ。その感覚は、僕にはとてもフィットするいいもののように思える。