内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 6


瀬戸さんが「母親と保育所とおむつ」というエントリーで最後に書いた、内田さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」の中の三砂さんの研究に関する部分の判断(解釈または感想)の残りの二つについて考えてみようと思う。2番目のものは、

  • 2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」


というものだった。この判断は、僕は、誤読ではないかと思っている。内田さんは、三砂さんの研究に反対するものの中から、紙おむつメーカーのものとフェミニストたちからのものをあげているのであって、非難をするもののうちの一つとしてそれをあげている。非難をするものを全部まとめて、それを全てフェミニストたちの言説だという言い方はしていない。

むしろ「紙おむつメーカーが慌てるのはよくわかる」という言い方をしている。利害関係を考えれば、この反対は合理的に理解出来ると言うことだ。この紙おむつメーカーの反対に対しては、これをフェミニストからの反対と混同はしていない。これは、賛成はしないが理解は出来るという非難になっている。

これに対して、フェミニストからの反対と語っているのは、その反対の前提となっている命題が「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」とされているものから導かれるものである。この命題を論理的な前提として立てれば、「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」と主張することは、これは母親を子どもに縛り付けることになるから、前提に対立する命題になってしまう。そしてこれは前提に対立するがゆえに「そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制イデオロギーなのである」と結論されることになる。

この論理展開は、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」という前提から導かれるものだからこそ、内田さんはフェミニストのものだと判断しているわけだ。だから、フェミニストがこのような主張をしていないと言うことであれば、内田さんがこの前提をフェミニストのものだと考えたことが間違いだという批判が出来るだろう。

しかし、その場合は、フェミニストはこの前提を相対化する「母親は子どもに縛りつけられるべきだ」ということが成り立つ場合も現実にあり得ると言うことを承認する必要があるだろう。フェミニストがこの命題を承認しているのであれば、僕もフェミニストの言説に反対はしない。

「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」時におむつを利用するのは、現実的に正しい場合もあるだろう。だが、「母親は子どもに縛りつけられるべきだ」というときには、おむつを使わない、子どものシグナルを読みとるということが正しい場合があるだろう。現実というのは、様々な条件を持っているのだから、条件によって真理は相対的に変化すると捉えるなら、それは論理的に全く問題はない。

あらゆる場合に「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」ということを前提にしてしまうところに論理的な問題がある。そしてこれが無条件の前提になってしまうと、三砂さんのように母親を子どもに縛り付けるような、子どものシグナルを読みとろうとする研究が、研究の内容と関わりなく反対すべきものとなってしまうのだと思う。

内田さんが「(とほ)」という言葉を付け加えたのは、この論理に共感出来ないからではないかと僕は思う。内田さんの文章は、非を唱えるものをみんなフェミニストにしてしまうのではなく、フェミニストに特徴的な考え方の中に潜む論理的なおかしさを指摘したものだと僕は受け取った。

特称命題を全称命題にしてしまう間違いは「イズム(主義)」の論理に特徴的なものではないかと僕も思う。束縛というのが全て悪だというイメージの方を修正する必要があるのではないかと思う。愛するものに束縛されるのは、むしろ幸せなことだと感じたりするものだ。束縛そのものが悪いのではなく、誰かを犠牲にするような仕方で束縛することに問題があるのだと思う。母親が子どもに縛り付けられるのは、全て女性に対する不当な束縛だと受け取るのは違うのではないかと思う。だが、それもフェミニスト的に言うと、「すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制イデオロギー」だと言われてしまうのかも知れない。もしそうなら、フェミニストとある種の男との論理的な接点はやはりなくなってしまうのではないかとも感じる。

  • 3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」


という解釈については、瀬戸さんも「だろうか」という言い方をしているので、内田さんが直接このようなことに言及している部分は見付からないと思う。内田さんの論理を延長していったときに、「母親よ家に帰れ」と言うことに行き着くかどうかが問題になる。

内田さんの言説というのは、結果的にこうなるだろうと思われて反発を呼ぶことが多いようだ。若者の労働について語ったときも、若者のおかれた現状に言及せずに、若者への説教を垂れているというふうに受け取られていたようだ。内田さんの年齢からすると、説教を垂れる部分もあると思うが、僕はそれはレトリックの範囲のものではないかと感じている。

内田さんは、「コミュニケーションに対する深い信頼をもっている子どもをひとり育てることは、権力や財貨や情報や名声や文化資本を得ることよりもずっとずっとたいせつなことだと私は思う」と語っている。この言葉から、子どもとの深いコミュニケーションをするために「母親よ家に帰れ」と言っているように見えたりするかも知れない。しかし、この言葉を自民党の保守層が語る言葉と同じ意味を持つものと受け取ってはいけないのではないかと思う。

内田さんは、「帰れ」というような命令形の語り方をしているのではなく、帰りたくなるような理由が三砂さんの研究から見出せるかも知れないと語っているのだと僕は受け取っている。

家に帰りたいと思っていない母親をも無理やり帰すべきだという語り方ではないと僕は思う。しかし、子どもとの間に深いコミュニケーションを確立し、そのことによって子どもの成長に深い関わりを持ち、ともに幸せを共有出来る瞬間を持てれば、これほど素晴らしいことはないと内田さんは語っているように僕には見える。

「それはあなたが男で、『そういうもの』を全部あらかじめ占有しているから言うことができるのだ」と、内田さんはフェミニストたちの言い方を語っているが、これは反対ではないかと思う。僕も含めて、男たちはこのような素晴らしい幸せな瞬間を味わう機会に恵まれていないのを感じる。男が子どもに縛られることが少ないのは、子どもとの幸せの共有という点では恵まれていないのだと僕には感じられる。

それなら、子育てをすればいいじゃないかという人もいるだろうが、人間は現実には出来る範囲でしかそれを担うことが出来ないものだ。それは、最初から決められた役割としての「ジェンダー」というものではなく、現実の条件から規定される可能性の問題だと僕は思う。子育てというのも、現実には出来る範囲でやるしかない。このときに、ある種の技術があれば、出来る範囲は広がることだろう。

可能性として子どもとの深いコミュニケーションを作り上げる可能性に恵まれている人々に、そちらの方がいいと思えるような研究をしていくことで、子どもに縛られることに幸せを感じるからこそ縛られる方を選ぶ、という人が出てくれば、これは役割分担によって縛られているのとは違うのではないかと思う。

瀬戸さんが批判する「下村発言」や「憲法24条見直しプロジェクト」には、母親の役割として家を守り子どもを育てることが大切だという古い考え方があるのではないかと思う。内田さんが主張することが、現象的に、母親が子どもを育てることに重要さを認めていることが同じように見えたとしても、基本的な考え方には大きな違いがあるのだと思う。

家に収まることしか選択肢がなかった時代に家を守り子どもを育てることと、社会に進出することも選べるようになった時代に、あえて家に戻り子どもを育てることを選ぶのとは違うと思う。現象的な現れとして同じであっても、行為としての意味が違うのではないか。あえてそれを選ぶと言うことは、そこに積極的なプラスの意味を読みとるからだと思う。そのプラスの意味を教えてくれるものが、三砂さんのおむつ研究になるかも知れないと言うのが、内田さんの考えなのではないだろうか。

内田さんは、

「人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。
コミュニケーションへの深い信頼をもつことのできないものは、それが男であれ、女であれ、つねに、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。」


とも主張している。これは納得出来ることだ。そしてこの文脈から「社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人」に対するアドバイスとして、おむつの問題を考えることを提言している。それは、

「自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。」


からだ。この言葉は、母親の資格を語ったものではなく、社会的な成功を収めたい人間は、コミュニケーションに敏感であった方がいいということを言っている。子どもがいないのであれば、他の所から社会的な成功の要因を考えていくだろうが、子どものいる母親だったら、子どもとのコミュニケーションの技術を磨くことで、かえって社会的な成功のリソースとしてのコミュニケーション能力も高まるのではないかという意味で語っているのだと思う。決して、母親に対する圧力として語っているのではないと思う。僕は、文脈上そのような受け取り方をしている。「母親よ家に帰れ」というような意味では語っていないのだと思う。