必要条件と十分条件


igelさんが「内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 5」というエントリーに書いた「コメント」に、論理的に面白いと思われる内容があった。それは、

「シグナルが読めるのは母親でなくてもかまわないと言うことから、細やかなコミュニケーションが母親にとって「必要」でないという否定は導くことは出来ないだろうとは私も思います。
むしろ、シグナルの読めない母親(であれ誰であれ)が細やかなコミュニケーションにとって「必要」でないという否定が導けると考えます。」


と語られている部分だ。ここでは「必要ない」という判断が語られているのだが、この判断はとても難しい。論理においては「必要である」という必要条件については分かりやすい。仮言命題「AならばB」において、結論となるBは、前提Aにとっての必要条件となる。それは、Bが成り立たないときはAも成り立たないという関係になっているからだ。

もしAが成り立っているのなら、その時は仮言命題「AならばB」によって、必ずBも成り立たなければならない。しかし、Bが成り立たないことが分かっていればここで矛盾が生じてしまう。だから、Bが成り立たないときはAは決して成り立つことがない。だから、Aの成立にとってBは必要な条件となるわけだ。

ついでに付け加えておくと、仮言命題「AならばB」において、前提であるAは結論Bに対しての十分条件になっている。これは、Aの成立さえ言えれば、後は何も言わなくてもこの仮言命題からBの成立が言えるから、Bの成立のためにはAを言うだけで十分だと言うことになる。必要条件と十分条件は、このように仮言命題として考えれば分かりやすい。

そこで「必要ない」という判断を考えるのだが、これはまず否定判断としての難しさをもっている。肯定判断というのは、実際にそれが存在することを示すことが出来れば証明が出来る。しかし、否定というのは直接表現することが出来ない。野矢茂樹さんの論理学の本にもたびたび登場していたが、否定というのは、そこに何かがあったはずのものがなかったという認識を表現するものになっていた。客観的に示すことが出来るものではなく、主観を表現するものであり、言語でのみ表現出来るというものだった。

否定表現は基本的には背理法によっているのではないかと思われる。例えば机の上に乗っているものが「コップではない」という判断があったときは、これは認識の中に「それがコップである」という仮定が生じていたのを、「コップだ」という判断と矛盾する何かを見つけたために「コップでない」という判断になったのではないだろうか。否定判断というのは、一度は肯定判断が生まれないとならないのだと思う。

単純な対象に対しては、この判断がほとんど瞬時にされるので否定判断が直接行われているような錯覚を起こすのではないだろうか。しかし、否定判断は、まず肯定判断がなければならないというのは、三浦つとむさんが指摘したように、世界の言語には共通の文法構造を作っているように感じる。日本語の「〜でない」という表現は、まず「で」という助動詞で肯定判断を表し、その後に「ない」と否定している。

「必要ない」という判断も、一度は「必要である」という仮定が生じて、その後にそれが否定されなければならないと言う過程的な構造を持っているだろう。これは論理(ロジック)としてはこのような構造を持っているだろうと思われるのだが、感情的にはこの仮定の構造を無視することが起こりうるような気がする。「必要である」というようなことを考えたくもないと言う感情があると、「必要ない」という論理的判断をしているのではなく、「必要がない」という状態であって欲しいという願望が「必要ない」という表現になることがあるだろう。

「必要ない」という表現の理解が難しいことの一つは、それが論理的な判断なのか、感情から生まれた願望なのかという区別をすることがまず難しいのではないかと感じる。そして、論理的な判断である場合は、そこに設定されている仮言命題の真偽というものが関わってくるので、仮言命題の真偽を決定するという難しさが次に生じてくる。

「おむつが必要だ」という判断においては、次のような思考の連鎖が、おむつの「必要性」という必要条件を最終的に仮言命題の判断としてもたらすのではないかと思う。

 「子ども(赤ちゃん)は自らの排泄を自らで処理する能力をまだ持たない」
     ↓
 「母親(またはそれに代わる人)に排泄の処理をしてもらわなければならない」
     ↓
 「排泄の事後に処理をするのであればそれは服を汚すことになる」
     ↓
 「汚す服をいつも同じものにして、他の服は汚さない工夫をする」
     ↓
 「汚す服として工夫された存在が<おむつ>になる」

おむつというのは、他の服を汚さないために、自らは汚れる存在となるという、極めて弁証法的な存在だなと言うのを感じる。対立を背負った存在となっているわけだ。これは、仮言命題としては

 「服が汚れない」 ならば 「おむつが存在する」

というものが正しければ、「おむつの存在」が「服が汚れない」ための必要条件となるだろう。つまり「おむつが必要だ」という判断になる。ただし、この仮言命題の正しさは、条件というものに左右される。排泄を自分で処理出来るような年になれば、もちろん「服が汚れない」時でもおむつが存在していない。だから、この仮言命題が正しくなるような条件を考えて、この仮言命題の真偽を問題にしなければならないだろう。そして、この仮言命題が正しくなるような条件の下で、「おむつが必要だ」という必要条件が主張出来るのだと考えなければならない。

このような具体的な問題として命題を考えるとき、その真理となる条件を全て拾い出すことは原理的には出来ないと思うが、いくつかを考えて、実践的にはその範囲で考えることで十分有効だと言うこともあるだろうと思う。おむつの必要性を主張するための条件をいくつか考えると次のようなものがあるだろうと思う。

  • 1 子どもが自分で排泄を処理出来ない。
  • 2 子どもが排泄の時期を伝えることが出来ない。
  • 3 服が汚れることが困る(それを避けたいと言うこと。もし服が汚れることを気にしないのであれば、それを避けるためのおむつも要らないことになるだろう)。

この条件は、どれかがなくなればおむつの必要性の主張も出来なくなる。三砂さんの研究は、このうちの2の条件をなくすためのものではないかと思われる。子どもは成長をすれば、やがては自分で排泄の処理が出来るようになることを期待出来る。その成長の過程において、排泄の時期を伝えることが出来るようになるための、様々な知識や技術を研究するというのが三砂さんの研究ではないのだろうか。

コミュニケーションを深めることが出来るというのは、この研究や技術訓練から生まれてくる副産物ではないかと思う。研究そのものの目的かどうかは分からない。また、コミュニケーションを深めるための壁や負の副産物として生じるのが、母親が子どもに束縛されて自由に行動出来ないと言うことにもなるだろう。これらはあくまでも副産物であって、このことが研究そのものの方向を左右するものになるかどうかは、またその条件によるのではないかと思う。

もし三砂さんの研究の結果が、「おむつは要らない」と言うことが結論されて、そのための訓練として様々なものが提言されたとき、権力によってそれを母親に押しつけるというなものになれば、その弊害は大きなものになるだろう。しかし、その研究に賛同する人間が、主体的にその訓練をして技術を身につけるのであれば問題はどこにもないのではないだろうか。

仮説実験授業を提唱した板倉聖宣さんは、仮説実験授業が教育委員会に認められて、各学校に天下り的に採用されることをもっとも恐れていた。そのようなやられ方をされたときは、それまでの仮説実験授業の成果が全てなくなってしまうような弊害がもたらされると思っていたからだ。それは、何よりも主体的に行う教師によって進められなければならないと考えていたからだ。

「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」という命題から、三砂さんの研究が否定されるような判断がもたらされるなら、これは、副産物として起こるかどうか分からないもののために学問の自由が脅かされているように僕は感じる。これは、包丁は危ない道具であり、人を殺すことに使われる可能性があるから、その可能性の段階で廃止してしまおうとする考え方に似ている。それは、ある種の安全をもたらすだろうが、包丁の持っている便利さを全て捨てて不便さの中に甘んじることを意味する。

必要であるかないか、特に「ない」という否定判断の場合は、現実の具体的な条件が大きく関わってくるので、その判断は難しいと思うが、可能性としてそれが成立するかどうかを考えるのは、学問の自由として保障されなければならないのではないかと思う。それがたとえ難しい判断であるとしても考えることは自由でなければならないだろう。

さてigelさんの「細やかなコミュニケーションが母親にとって「必要」でない」という否定判断に戻ると、この判断は、現実的には正しくないだろうと思う。細やかなコミュニケーションのない、親密さと暖かみのない関係であれば、その両者は親子と呼ぶような関係にふさわしいとは思えないからだ。そんな相手は親でなくてもいいだろうということになってしまう。

「シグナルの読めない母親(であれ誰であれ)が細やかなコミュニケーションにとって「必要」でない」という否定判断については、これは僕は最初読んだときには、正しいかどうかの判断が付かなかった。「シグナルが読めない」と言うことは、「必要性」の判断と直接結びつくように感じなかったからだ。

「シグナルが読めない」というのは、排泄の処理を事前にすることには失敗すると思う。しかし、失敗したからといってその人が「細やかなコミュニケーションにとって「必要」でない」と結論出来るものかどうかに疑問があった。それは、その時点では単にそのことが出来なかった、まだ技術を習得していなかったと言うことに過ぎないのではないだろうか。

問題はシグナルを読もうとする意志があるかないかではないだろうか。シグナルを読もうとする意志のない人間は、そのシグナルを通じて生まれる「細やかなコミュニケーション」にとっては、それを取り結ぶ可能性がなくなってしまうので、無くてもいい存在になる。つまり必要でないと言えるかも知れない。だが、これも他で「細やかなコミュニケーション」が成立するのであれば、このことだけでそれを行う必要性はないだろう。しかし、実際に赤ちゃんを育てる環境にいて、「シグナルを読む」ことが技術的に習得可能であると言うことになったとき、それをわざわざしないでいようとする意志を持つのはもったいないのではないかと思う。わざわざそんなことをする「必要はない」と感じるのが僕の感想であり、内田さんの言いたいことではないのかと僕は思った。「わざわざしないでいようとする意志を持つ」のは、フェミニズム的な発想から出てくるのではないかというのが、内田さんの指摘でもあり批判だったのではないかと僕は思う。