理論と実践(あるいは科学と現実)の問題


現実と乖離した理論というものを考えていたら、これも弁証法的に捉えることが出来るのではないかという感じがしてきた。普通は、現実と乖離した理論は、現実への有効性を欠くことになり役に立たないとされてしまうことが多いだろう。しかし、現実と乖離しているからこそそれが正しく有効だという観点も見つけられるのではないかという気がしてきた。現実と乖離していない言説は、そもそも理論として確立しないのではないかという気がしてきたのだ。

理論というのは抽象的な対象に対して何かを語ることになる。目の前にある具体的な対象について語るときは、たいていが「事実」を語るというふうに言われ、普遍的な真理を語る「理論」だとは言われない。理論というのは、現実にベッタリと張り付いた、具体的対象に関する言明ではなく、それから抽象されたものに対して成り立つ普遍的な真理を語るものになっている。

抽象というのは、具体物からある側面だけを取り出して、その他の側面を無視するという捨象をするものになる。この捨象という無視によって、抽象は現実から乖離する。言葉を変えて言えば、抽象という現実からの乖離を経ないものは理論として成立しないと言えるだろう。つまり、全ての理論は原理的には現実から乖離するものなのだ。だから、現実から乖離しているという点だけを取り上げれば、これは全ての理論を批判することが出来る。

これは、三浦つとむさんが「差別語」を論じたときに、全ての言語表現は差別の構造を持っていると指摘したものに似ている。表現に違いが出ると言うことは、対象の間に差異があるからであり、その差異を捉えて表現に違いが出てくる。だから、言語表現が「差別」を表現すると言うことは原理的な事柄になる。そうすれば、言語で表現すると言うことは、そこにある種の差別を常に発見出来ることでもある。差別だけを指摘するのであれば、全ての言語表現は「差別語」として糾弾出来てしまう。

原理的に差別を捉える言語表現の中に不当性があるかどうかが糾弾されるべき差別かどうかを決定する。それは、言語表現では文脈から読みとる必要がある。単なる認識としての差異が、ある時は利害関係に結びつき、価値観と結びついたときその結びつきに不当性があるかどうかが、不当だという糾弾をすることの正当性を判断させることになる。

原理的に現実から乖離する理論においても、その乖離が現実への有効性を欠くものであるかは、言語表現の場合の文脈に当たる考察が必要になる。それは、その理論がどのような抽象の過程を経て打ち立てられたものであるかという抽象と捨象の過程を理解するというものが相当するだろう。

例えば物理法則における自然落下の理論においては、地球の引力という力のみを抽象して、他の力を捨象して考察するという抽象過程がある。空気の抵抗などというものは自然落下においては考察の外に置いておくわけだ。端的に言えば真空中での考察をするということになる。これは現実にはあり得ない仮定で、ここだけを取り上げれば十分現実から乖離している。

だから、空気抵抗に大きく左右される鳥の羽などと空気抵抗を無視出来る鉄の玉の落下を比べれば、理論上は同じ加速度を持つはずなのに、理論は現実を正しく記述しなくなる。この乖離を取り上げて自然落下の理論を非難しても、それはあまり建設的なものにならない。これは、抽象過程の無理解を示すものにしかならないだろう。

自然落下において無視した空気抵抗が大きく影響してくる対象を考察すればその理論は現実から大きく乖離する。しかし、鉄の玉のように、空気抵抗が無視しうるだけの小さい「誤差」の範囲に入っているのなら、この理論は鉄の玉に関する限りでは現実に良く符合する有効な理論になる。

理論の抽象過程を無視して、現実の特殊な事実をもってきて、現実はその理論の反例を見せているのではないかという指摘をして理論の批判をしたつもりになっているものは、理論そのものの理解が浅いのだと思う。その反例が確かに理論そのものの反例になっているかは、それが理論の構築の抽象過程に沿った例になっているかどうかが確かめられなければならない。

現実から乖離した理論として批判の対象になっているものに護憲論的な平和主義というものがある。これは、宮台氏の言い方などでは、<憲法9条を守ってさえいれば平和が訪れる>と考えるような平和主義のことだ。護憲論の全てがこのような単純な理論だとは思わないが、このような単純な理論は抽象過程も単純なので、抽象過程そのものに批判されるべき欠陥があるように感じる。

憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。このことをベタに受け取って実践しようとすれば、ここで無視されていることが現実に影響を与えてくることが多いだけに、現実と乖離した理論のように映ってくるだろう。世界の他の国の人々は、果たしてナショナリズムよりも平和を愛するだろうか。これは、現実にはあり得ない希望のように思える。あり得ない希望を前提にした行動は、現実から乖離することになるだろう。

<9条を守ってさえいれば>の「さえ」は、このあり得ない願望をベタに信じるところからもたらされるものだと思う。現実にはむしろ捨象された、諸外国のナショナリズムの方こそが安全と平和の確保のためには重要だというのを歴史が教えているのではないだろうか。

平和と安全のためには、むしろ憲法を改正して、それなりの自衛の軍隊を持ち軍事的な抑止力を保持することが理論的には現実と乖離しない方向だろう。マル激のゲストの武貞秀士氏(防衛研究所主任研究官)が語ったように、核兵器を持つ必要はないが、「北朝鮮」の核基地を速やかに攻撃して壊滅させるだけのミサイル防衛能力を持つ必要がある、という主張は現実的な理論のように感じる。

ただ、この説得力も、「平和と安全のため」という言い方の下での説得力だ。「平和と安全」という目的の下に、ある種の抽象がされ、捨象されたものを前提とした理論の正しさの下での説得力だと思う。もし捨象されたものが、捨象するとまずいだけの影響力のあるものなら、この説得力も違う感じを与えてくる。

軍事力の保持を認める「平和と安全」の考え方には、日本が侵略される恐れがあるときという前提(抽象)が存在しているように感じる。軍事力として考えていることが自衛軍であることからそのような想像が出来るだろう。アメリカのように、世界の警察になるような軍事力を想定している人はいないと思う。

北朝鮮」の核の脅威などが宣伝されると、この前提が正しいような感じがしてくるかも知れないが、侵略されるという抽象が行われると逆に、侵略するという恐れの方は捨象されることになる。日本が再び侵略国になるということは、「平和と安全」のための軍事力保持、そしてそれから帰結される憲法改正の理論からは抜け落ちる。

今の状況から言って、日本が侵略される恐れは極めて低いと考えるなら、むしろ「平和と安全」という自衛の側面を捨象して、軍事力の増強で再び侵略国になることを抑止しようと考える人がいてもいいと思う。そしてそのために憲法9条を利用するという考え方も出てくるのではないかと思う。

憲法9条には、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かれている。この条項が残っていれば、自衛隊というあやふやな存在は認めても、それを侵略が出来るほど強大な軍隊には出来ないという抑止が働く。この抑止のためにこそ憲法9条を守らなければならないという理論は、かなり現実に有効に働いているのではないかと思う。

憲法9条は、「平和と安全」のためにはほとんど役に立たない。それは現実と乖離した空論であるというのが以前内田さんが語っていたことではないかと思う。そして、内田さんの9条護憲論というのは、これが空論であるからこそ別の側面で非常に有効に働くから残しておこうというものだったように僕は感じた。もし「平和と安全」のために有効に働くような理論だったら、その結論は自衛のための軍隊を正当化するものになるのではないだろうか。憲法9条は、「平和と安全」のためには空論であるからこそ、軍隊の増強には役に立たず、再び侵略国になるかも知れないと言うことを抑止するために役に立つのだと思う。

日本が侵略される国なのか、侵略する国なのかというのは意見の分かれるところだろうと思う。その意見の違いによって、憲法9条が語る理論が現実と乖離しているかどうかと言う抽象過程への賛同が決まってくるような気がする。僕自身は、日本という国は、アメリカにはすでに侵略されていて植民地になっているが、アジアの国に対しては再び侵略国になる恐れがある(経済的にはすでに侵略しているのかも知れない)のではないかと感じている。だから、侵略の力を抑えるための抑止として9条は残しておいた方がいいのではないかと思っている。

さて、内田さんが語るおむつの問題とコミュニケーションに関する理論は、果たして現実と乖離しているものだろうか。内田さんは、子どものシグナルを読むことによってそこに深いコミュニケーションが生まれ、そのことが子どもの成長にとって重要な意味を持つという主張をしていた。この理論においては、何が抽象され、何が捨象されているのだろうか。

内田さん自身は詳しく語っていないので想像するしかないが、このコミュニケーションで抽象されているのは、母親と子どもの「心」の交流というものではないかと僕は感じている。「心」というものは、直接触れ合うことが出来ないもので、そのための「媒介」をどうしても必要とする。自分の「心」は自分で感じることが出来るが、他者の「心」は知り得ないものだ。想像して理解するしかない。

他者にも自分と同じような「心」があるという信じることは、他人への信頼においては重要なことだと思う。それはどのようなものから生まれてくるのか。行為の意味を読みとることから生まれてくるのではないだろうか。行為は、行動として物理的に同じものであっても、その意味が違っていれば行為としては違うものとして受け取れる。その違いの中に「心」を読みとる鍵があるのではないか。

行為の意味を子どもに伝えると言うことで、子どものシグナルを読みとると言うことの重要さがあるのではないだろうか。その意味が子どもに伝われば、子どもは母親の「心」を感じることが出来て、信頼感が深まるというコミュニケーションの細やかさが生まれるのではないだろうか。

この際捨象されているものは何だろうか。母親がどのような社会的環境・立場で子どもに対しているかと言うことは捨象されているように感じる。子どもの育児を全面的に背負わなければならない立場に立っているかどうかは、「心」のコミュニケーションにおいては直接の要因として働いていないとして捨象されているような感じがする。

この捨象が気になる人は、内田さんが語ることは現実と乖離していると思うかも知れない。僕は、この捨象は抽象論の確立としては必要な捨象ではないかと思っている。もし社会的環境や条件までも抽象の中に含み込んでしまうと、その理論はとても複雑で訳の分からないものになるのではないか。抽象論の確立のための単純化としてこの捨象は必要なものではないかと思う。そして、抽象論の確立の後に、現実への適用の要素としてそれは考慮されるべきなのではないかと僕は考えている。