仮言命題の難しさ再考


瀬戸智子さんから「またまた「おむつ」について」というトラックバック「誤読をしたくなる心理と仮言命題の理解」というエントリーにもらった。この中の、仮言命題に関する部分を考察してみたいと思う。

僕が考える仮言命題というのは、ある仮定の下での結論を主張する形の命題で、仮定だけあるいは結論だけの単独の主張ではなく、「もしAならばBだ」という二つの命題の組み合わせでの判断を主張する形のものを指す。このときのAやBに当たるものは、命題であるという条件だけであって、その内容には何も触れていない。これは命題論理の範囲で考えているので、そのような対象を設定している。

だから、瀬戸さんが「仮言命題の最大の条件は「変項」を同じくすることです」と語ることの意味が僕には分からない。「変項」というものを設定すると、これは命題論理の範囲ではなく述語論理として考えることになる。しかも、仮言命題の場合に、「変項が同じ」という制限を設けてしまうと、その対象になるものがひどく狭められてしまうのではないかと考えられる。

変項として、例えばaというものを設定して、aに関する言明としてF(a)<aはFである>という述語Fを考えると、仮言命題として考察することが出来るものは、G(a)<aはGである>という形のものしか使えなくなる。すなわち

  F(a)ならばG(a)

という仮言命題しか、論理学では扱えないということになってしまう。aと同じではないbという対象に対しては、

  F(a)ならばG(b)

という論理が扱えなくなってしまう。これは、仮言命題の制限として果たして正しいのだろうか。変更の違う命題は、仮言命題の対象として設定することが出来ないのだろうか。例えば、aとbの二人の中から一人だけを代表として選ばなければならないとき、aが代表として選ばれたとする。その時次のような仮言命題が作れないだろうか。

  「aが代表に選ばれた」 ならば 「bは代表に選ばれなかった」

これは、前件と後件の変項が違うのだが、仮言命題として成立するのではないだろうか。前件が正しいときは、後件も必ず正しくなる。また、瀬戸さんは

「子どものシグナルが読める」→「(二歳まで)おむつをする必要はない」

という仮言命題に関して、前件の変項は「シグナルを読むのは世話をしている人」つまり大人であり、後件の変項は「おむつを必要としないのは子どもの方」としている。すなわち、これは前件の変項は「大人」であり後件の変項は「子ども」だから、両者の変項が違うという指摘をしている。だが、これは、

  F(x,y):xはyのシグナルを読む
  G(x,y):xはyにおむつをする

というふうに二項の変項を持つ述語だと考えれば、この二つの述語においては、xは両方とも大人になり、yは両方とも子どもになる。つまり、二つの述語の変項は同じになる。そうするとこれは、

  F(x,y) ならば not(否定) G(x,y)

という仮言命題を作ることが出来ると判断するのだろうか。変項の定義の仕方によって仮言命題が成立したりしなかったりしたのでは客観性が保てなくなってしまう。実際には、仮言命題には変項の制限は必要ないのだと思う。

  A ならば B

において、AやBは命題でありさえすればいいのだ。これが命題でない場合は、その真偽が決定出来ないので、前件が正しいときに常に後件が正しくなるかどうかの判断が出来なくなる。つまり、この仮言命題の全体の真偽が決定出来なくなってしまうので、論理として扱うことが出来なくなる。仮言命題にとって本質的に重要なのは、真偽が決定出来る命題をその前件と後件に使っているかどうかということになるだろう。

仮言命題の典型的な例を数学に求めてみると次のようなものが見つかる。

   「対象となる三角形が二等辺三角形である」
        ↓(ならば)
   「その三角形の両底角は等しい」

二等辺三角形であるかどうかは辺の長さを見ることで決定する。それに対して結論は、角の大きさが等しいという主張をしている。角の大きさを直接測って大きさが等しいことを主張するのではなく、まったく違う対象である長さを知れば角についての情報が得られるというところにこの仮言命題の素晴らしさがある。対象となる三角形に対して、それが「二等辺三角形である」とか「二つの角が等しい」という主張を単独にしているのではなく、両者を組み合わせた仮言命題が正しいという主張を、この命題は語っている。

ところでこの前件が正しいことは確定出来るだろうか。現実の三角形に関しては、この命題が厳密な意味で正しいという主張は出来ない。測定にはどうしても誤差がでてしまうからだ。数学がこの命題を正しいと判断するのは、抽象的な世界でこの前提の正しさを保証しているからである。

それでは、この仮言命題は現実と乖離した単なる空想を語っているだけのものなのか。そうではない。この命題は、現実に応用されるときは、誤差を無視しうる範囲というのが実践的に決定される。1辺が10メートルくらいの三角形に関して考えれば、1センチくらい長さが違っても、角度はほぼ同じと見なしてもかまわないだろう。1センチの違いなどは、実践的には誤差として捨象される。

抽象的な数学世界で仮言命題を考えれば、前件の正しさは絶対的な厳密な正しさで判断出来る。しかし、現実に仮言命題を考えるときは、誤差として捨象出来る範囲というものがいつでも問題になると考えなければならないだろう。数値で測定出来る対象に関しては、それは文字通り測定誤差というもので表れる。数値による測定にそぐわないものに関しては、それが特殊なものを捨象した、一般的なもの(いわゆる普通のもの)と考えたものを対象にするという注釈が必要だろうと思う。

風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、これは仮言命題の連鎖になっている。

  「風が吹く」 →(ならば) 「埃が舞う」
         →(ならば) 「埃が目に入る」
         →(ならば) 「目が悪くなる人が増える」
         →(ならば) 「目が悪くなった人が三味線で身を立てる」
         →(ならば) 「三味線をたくさん作るために猫が減る」
         →(ならば) 「猫が減るのでネズミが増える」
         →(ならば) 「ネズミが増えるので桶がかじられる」
         →(ならば) 「壊れた桶が増える」
         →(ならば) 「新しい桶が売れるので桶屋が儲かる」

これは笑い話のような仮言命題なので、例外的な事実を除けば、そのような結論の場合がほとんどだとは言えなくなるので、仮言命題として成立しないところが出てくる。だから、最後の結論が信じられなくなってしまうのだが、この仮言命題の連鎖が、例外を除けば普通はそうなるだろうと理解されるなら、その例外は捨象されて仮言命題が成立すると考えることが出来るだろう。

「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」という内田さんの(三砂さんの?)主張も、このような仮言命題の連鎖を考えてみようと思う。

 「母親が子どものシグナル(排便の兆し)を読むことが出来る」
   →「兆しの段階で排便の処理をすることが出来る」
   →「そのまま服に排便をしないのだから服を汚さない」
   →「服を汚さないために使っていたおむつは要らなくなる」

さて、この前件から後件へ至る流れの判断において、現実には前件が成り立っているときに後件が成り立たないときが出てくることもあるだろう。現実は数学的世界のように、都合のいい対象だけを集めた抽象的世界ではないからだ。常に例外的存在を含むのが現実世界だ。問題は、それが捨象出来るような「例外的存在」なのか、捨象出来ない重要な存在なのかということだ。

瀬戸さんが語る「場所や時間により排便させることができない場合」というのは、「兆しの段階で排便の処理が出来る」ということを否定する場合だ。これが捨象出来れば、上の仮言命題の流れはそのままつながるが、捨象出来ない場合はつなぐことが出来なくなる。

もし内田さんや三砂さんの主張が、瀬戸さんが考えるような「場所や時間により排便させることができない場合」も含んで、その時でさえも「おむつは要らないのだ」と主張するものなら、これは例外的なものにならず、仮言命題に含み込まれたものとして考えなければならないだろう。そして、これを仮言命題に含み込んでしまえば、「排便させることが出来ない場合」なのだから、「排便の処理が出来る」ということを否定してしまうことは明らかだ。

僕は、内田さんがこのように分かりやすい論理の間違いをするということが信じられない。内田さんが、このような具体例について語っていないとしても、語っていないことで、僕はそれは捨象されていると解釈している。つまり、内田さんにとっては、生後間もないときだとか、電車に乗っているときや、外出先で排便処理が出来ないときなどは、例外的なものとしておむつの必要性を少しも否定していないと思っている。

内田さんがおむつの必要性を否定しているのは、二歳まではしていてもいいのだという前提で、シグナルを読むという発想も持たない親を考えているのだと思う。そういう親に対して、必要だと思っているときでも、そうじゃなくすることも出来るということを考えた方がいい、という提言をしているのだと思う。

「(二歳まで)おむつをさせる必要がある」→「子どものシグナルが読めない」

という仮言命題についても、それがどのような状況で設定されているかということが大事なことだろう。この場合に「普通」として設定されているのはどういうことなのか。また、例外的なものとして捨象しているのはどういうことなのかを考えなければならない。「場所や時間により排便させることができない場合」は捨象されている。つまり、その時におむつをさせる必要があると考えても、それは「子どものシグナルが読めない」ということにはならない。

シグナルを読めば排便処理をさせることが出来る状況にあってもなお「おむつをさせる必要がある」と考えている親に対しては、「子どものシグナルが読めない」という判断が出来るのではないだろうか。問題は、抽象と捨象にあるのではないだろうか。それは理論の現実への応用の場合には必ず生じてくる問題ではないかと思う。