誤読をしたくなる心理と仮言命題の理解


witigさんに「排便シグナルが読めて対処方法があればおむつは要らないか」というトラックバック「必要条件と十分条件」というライブドアのエントリーにもらったのだが、これを読んでも、やはり内田さんの文章の文脈を誤読しているのではないかという印象は変わらない。

内田さんが語る「必要性」は、あくまでも「二歳までおむつをとる必要はありません」という言い方に関連して語られているものだと僕は文脈上の理解をしている。つまり、完全な形でおむつが必要でなくなるまではおむつをつけていてもいい、ということを「おむつが必要だ」という意味に理解し、完全になるまでの過渡期においてもおむつが必要でなくなることもあるよという主張として「おむつが必要ない」という内田さんの言い方を理解している。

問題は、子どもが自立と依存の中間点にいるときに、依存しつつ自立するという状態を作るために、排泄のシグナルを読みとろうという発想をしているのだと思う。自立か依存かという二者択一の発想ではなく、失敗をしつつも上手にシグナルを読みとる道が見つからないかを求めることに価値を見出すというのが、三砂さんの研究であり、それに賛同する内田さんの主張だと僕は受け取っている。

だからwitigさんが

「百歩譲って排便シグナルが読めてかつ、日本でも利用できる排便に対する対処方法が見つかったとしよう。本当におむつは要らなくなるだろうか。赤ちゃんがいつ排便するのかは細やかなコミュニケーションでしかわからないとすると、その細やかなコミュニケーションを24時間とり続けなければならなくなる。

自分の経験からすると、まあだいたいこの時間にするだろうという予測はつくし、だいたいその予測どおりにはなるが、はずす場合もかなり多い。やはり、おむつなしでは24時間の監視が必要になるだろう。その場合母親はいつ寝るのか。」


と内田さんの言説を非難するのは、やはり誤読だとしか思えない。内田さんは、このような主張はしていない。「おむつは要らない」ということの文脈上の意味を広い範囲に読みとってしまった結果としてこの非難が生まれたように僕は感じる。

二歳までおむつをしていてもいいという育児の常識が、一歳でもおむつが取れたとなれば画期的なことだろうと思う。これは24時間母親がつきっきりで子どもを監視していろという主張と結びつくものではない。今までは読みとることの無かった、読みとろうという意志のなかった事柄に目を向けて、上達するような失敗を繰り返すことで読みとり技術を上げれば、おむつをとる時期を早めることが出来るだろうという主張なのだと僕は読んでいる。

また、細やかなコミュニケーションというのは、子どものシグナルを読みとるという繰り返しの結果として生まれるものであって、細やかなコミュニケーションをまず作り上げてその結果として排泄のシグナルが読めるようになるというものではない。細やかなコミュニケーションというのは、排泄のシグナルという具体的対象よりも抽象度の高い広い範囲を含むものだからだ。

三砂さんの研究の出発点は、あくまでも「二歳までおむつをとる必要はありません」という今の育児の常識に対する疑問なのだと思う。おむつそのものの存在を否定するような「必要ない」という主張ではない。もし三砂さんの主張がそういうものであり、内田さんがそのようなものを支持していたら、僕も内田さんは変だと思うだろう。だが、他の文章であれほどの明晰な論理的展開を見せてくれる内田さんが、この件に関してこんな変なことを書くはずがないというのが僕の内田さんに対する信用だ。だから、内田さんの主張が、このような変なものと結びつくような読みとり方は、僕には誤読としか思えないのだ。

witigさんの読みとり方は僕には誤読にしか思えないのだが、誤読をしたくなる心理というのは想像出来る。これは仮言命題の難しさにあるのではないかと思う。仮言命題こそは、論理を考える上では最も重要でしかも難しいものだと思うからだ。仮言命題は、形の上では

  A →(ならば) B

という形式を持っている。AやBで書かれているのは一つの命題だ。これは、AやBの命題を単独で考えて理解してはいけない。あくまでも仮言命題として全体的に把握する必要がある。前提のAや結論のBに、単独では反対であっても、全体としての仮言命題は正しいと賛成出来る場合があるのである。

マル激のゲストで出ていた武貞秀士氏(防衛研究所主任研究官)は、「北朝鮮」の核武装に対して、核基地を攻撃して壊滅させることの出来るミサイル防衛システムの必要性を主張していた。これは、仮言命題的に言えば、

 「ミサイル防衛システムを持つ」→「日本の平和と安全を守る」

というものになるだろう。僕はこの結論「日本の平和と安全を守る」ということに対しては賛成だが、前提「ミサイル防衛システムを持つ」ということに対してはまだ態度保留だ。それが正しいかどうかの判断が出来ない。むしろ危惧の方が大きい。

だが、これを仮言命題として考えれば僕はこれは正しいと思うし、武貞さんに賛同する。この仮言命題には、いくつかの但し書きがつくのだが、その一つに「日本が核武装をするよりも」というものがある。武貞さんは、日本の核武装論の非現実性をいくつか指摘していた。これは、リアリティのある、現実理論家としての優秀さを感じさせてくれる論理だった。

その但し書きの上で、有効な防衛(つまり平和と安全を守るということ)手段としてのミサイル防衛システムを語っていた。これは非常に説得力があった。その前提に対しては必ずしも賛成ではなくても、仮言命題としての論理には僕は賛同する。

前提に対する危惧というのは、「北朝鮮」の現状に対する認識の違いから出てくるものだろう。僕は、「北朝鮮」の現状は、これもマル激のゲストで出ていた吉田康彦氏(元IAEA広報部長)の主張に賛同する。「北朝鮮」の核武装というのは、日本に攻撃を仕掛けようという意図を持ったものではなく、アメリカとの駆け引きの過程でそうせざるを得ないところにまで追い込まれてやむなくそこに至ったものだという理解をしている。

北朝鮮」というのは、訳の分からない非論理的な行動をする国家ではなく、その国家の存続のためにあらゆる情報を駆使して論理的に行動しようとしている国として理解する。そういう理解をすれば、核を持って、日本を攻撃しようということがいかにばかげたことで自滅の道を歩むかということが論理的には分かるはずだという理解をしている。むしろ危ないのは、論理的思考をする努力を放棄して自暴自棄になったときではないかと思う。ミサイル防衛システムの建設が、どちらの要因として働くかがはっきりしないので、今のところ僕には危惧の方が大きい。

今の状況でも、日本を攻撃すれば不利だということが分かると思うので、この状況に変化が起こらない限りは、まだミサイル防衛システムの建設に踏み切らなくてもいいのではないかという感想を持っている。状況が変化したとき、例えば在日米軍が全て撤退して、「北朝鮮」との間に深刻な利害対立が起こったときなどに、ミサイル防衛システムの問題は初めて現実のものとして議論されるのではないだろうか。

仮言命題の場合は、前提や結論に反対であっても、その全体の表現がどうであるかをまず考えなければならない。その推論に間違いがないのなら、仮言命題としては正しいという受け取り方が必要だ。内田さんが語る仮言命題は

 「子どものシグナルが読める」→「(二歳まで)おむつをする必要はない」

というものだ。これを仮言命題として全体的に理解するのではなく、前提や結論を切り離して理解すると誤読をする。「子どものシグナルが読める」という前提に対しては、そんなことが出来るはずが無いという感覚を持っている人は、これを仮言命題として理解する前に、この前提に反対して、内田さんが語ることを否定してしまうだろう。

また「おむつをする必要がない」という言葉の印象が強く目に入る人は、「必要だ」という思いが生まれれば、やはり仮言命題としての理解よりも、結論に対する反対の感情の方が生まれてくる。

この仮言命題は、「子どものシグナルが読める」という前提の時のことを語っているのであって、実はシグナルが読めないときのことは何も語っていない。だから、シグナルは読めないと思っている人に対しては、内田さんは何も言っていないのだ。その時は、おむつの必要性は論理的な帰結としては出てこない。必要か必要でないかは決定出来ないというのが、この仮言命題が表すことなのだ。

「子どものシグナルが読める」かどうかは、三砂さんの研究によって出される結論であるから、これは内田さんが語ることではない。内田さんが語っているのは、あくまでも「子どものシグナルが読める」という前提の下での結論なのだ。この前提に疑問を持つ人は、三砂さんの研究結果を待って、それを批判した方がいいのではないかと思う。

仮言命題を見たときは、その前提や結論が自分の考えと違っていても、それだけですぐに自分の判断を出さない方がいいと思う。仮言命題というのはその全体の主張が、正当な推論の下に導かれているかどうかが問題だ。その推論が正当なら、いかに前提や結論に反対であっても、その仮言命題としての正当性は承認しなければならない。それが論理というものなのである。