絶対的真理と相対的真理(あるいは絶対的誤謬と相対的誤謬)


エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしている。

「真理と誤謬とは、両極的対立において運動するところ、全ての思考規定と同様、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。これはたった今我々が見た通りである。また弁証法の初歩を、すなわち全て両極対立というものが十全なものでないという、ちょうどそうしたことを扱っているところを少しでも心得ておれば、デューリング氏にもそれが分かることと思う。真理と誤謬との対立を右に述べた狭い領域以外に適用しようものなら、この対立はすぐさま相対的なものになってしまい、従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。だが、もしも我々がこの対立に絶対的な妥当性があるとして、そうした領域以外にそれを適用しようと試みるなら、我々はそれこそ本当に失敗してしまうことになる。対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。」(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理)


これは、三浦つとむさんが語っていた、真理とはその条件によって変わりうると言う考えにも通じる。真理は誤謬に転化するという発想だ。エンゲルスが語る「領域」とは、真理関数の定義域のようなものだ。ある命題が語る言明が、その「領域」の対象のみを語っているときには常に真理となるなら、その「領域」は真理関数の定義域になる。

だが、この「領域」以外から対象を持ってくれば、その真理関数は真理と対応しなくなり、そのままの形式で誤謬に対応するようになる。これが真理から誤謬への転化というものになるだろう。この「領域」を意識することは、真理というものを考える上では非常に重要なのだが、それはいちいち表現されないことが多い。エンゲルスは上の言葉につなげて、ボイルの法則を取り上げて、「領域」の違いが真理から誤謬の転化をもたらすことを説明している。

「有名なボイルの法則を例にとろう。この法則によれば、温度が変わらないでいれば、気体の体積はそれの受ける圧力に逆比例する。ルニョーはこの法則がある種の場合に当てはまらないことに気づいた。ところで、彼がもし現実哲学者だったとしたら、どうしても次のように言わなければならなかったであろう。ボイルの法則は変化しうるものだ、従ってそれは本当の真理ではない、従って何ら真理ではない、従ってそれは誤謬である、と。しかし、もしこんなことを言ったとしたら、彼はボイルの法則に含まれている誤謬よりもずっと大きな誤謬をおかしたことになるであろう。彼の一粒の真理は誤謬の砂山のうちに埋もれてしまったであろう。つまり彼は自分の得た元々正しい成果を一つの誤謬に仕立て上げてしまったことになる。これに比べればボイルの法則の方が、それに少しばかりの誤謬がこびりついていたとしても、まだしも真理だったわけである。けれども、ルニョーは科学者だったから、そんな子供じみたことはやらなかった。むしろさらに研究を進めて、ボイルの法則が一般にただ近似的に正しいだけのものであって、圧力によって液化しうる気体の場合に、特にその妥当性を失うのであって、しかも圧力が液化の起こる点に近づくや否やそうなるのだと言うことに気づいた。こうしてボイルの法則は単に一定の限界内においてだけ正しいものであることが分かった。ではこの限界内でならそれは絶対的に、終局的に真理なのだろうか。物理学者には誰もそんなことを主張するものはいないであろう。物理学者はこう言うであろう。この法則は一定の圧力と温度との限界内で、一定の気体に対して妥当性を持つのである、と。しかも彼は、かようにずっと狭く定められた限界内においても、将来の研究によってそれがなおもっと狭く限界づけられたり、それの解釈が変化したりする可能性のあることを拒みはしないであろう。だから、物理学を例にとってみても、終局的な決定的真理というものは、まずこんな具合のものである。」


長い引用になったが、ポイントはボイルの法則が持っている誤謬の側面をどう評価するかと言うことだ。それを重く見るなら、ボイルの法則は間違っている「真理ではない」「誤謬だ」という判断になるだろう。しかし、それが末梢的なものであり、例外規定を語っているだけだと受け止めれば、依然としてボイルの法則は「真理である」「誤謬ではない」という判断になる。

誤謬の側面の評価によって、ボイルの法則は「相対的誤謬」と判断されるか、「相対的真理」と判断されるかが決まる。この誤謬の側面は、現実を「領域」とするような命題には必ずつきまとってくるものだ。なぜなら、現実の「領域」はその全てを把握することが出来ないからだ。これは実無限の把握の問題に関わってくる。現実の「領域」の全体は実無限となってしまうのだ。

この「領域」を数学的世界だけに限定すると、ここには例外的存在は含まれない。つまり数学的世界は、全体を把握出来る可能無限の世界に限定される。そのような世界では、真理は絶対的真理としての性格を獲得する。だから、現実を対象にした自然科学でも、「領域」を抽象化して、予想外のものを排除することが出来れば、その範囲では絶対的真理を獲得することが出来る。しかし、これも技術の発達によって今までは見つからなかった新しいものが発見されれば「それの解釈が変化したりする可能性のあることを拒みはしない」と言うことになる。

このボイルの法則を、それが誤謬であると否定してしまえば、ボイルの法則が持っている有効性も捨ててしまうことになる。この有効性をよく分かっていたルニョーは、ボイルの法則を否定するのではなく、それが誤謬に転化する「領域」を定めることの方を選んだようだ。そして、その「領域」を除いた、ボイルの法則が真理となるような「領域」を確定することによってその真理性を守った。これは科学者として正しい態度だとエンゲルスは語っているように思う。

さて、内田さんが「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」と語ったことに関して、いやおむつが必要な場合があるではないかという反論があった。これは、内田さんが語る命題の真理の「領域」という意味で考えるとどうなるだろうか。内田さんが語ることも、現実を対象にした言明である。だから、条件抜きに絶対的な真理性を主張することは出来ないだろう。そこには誤謬がこびりついている「相対的真理」としての性格がある。

この誤謬は、内田さんの主張を否定してしまうだけの重さを持った誤謬になっているだろうか。僕にはそうは見えなかった。むしろボイルの法則が持っていた誤謬のように、例外規定に関する末梢的なものではないかという感じがしている。

ボイルの法則が持っている相対的誤謬の側面は、普通はあまり顔を出さない。「圧力によって液化しうる気体の場合に、特にその妥当性を失うのであって、しかも圧力が液化の起こる点に近づくや否やそうなる」という例外規定だと考えられる。普通の状態であれば、ボイルの法則は現実に良く妥当するものになる。だからこそルニョーは、この誤謬よりもボイルの法則の真理性の方を守ったのだろうと思う。

「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」ということが真理なるのはどのような状況の時だろうか。母親が排泄の処理が可能だという状況があるときだ。そして、逆に言えば、母親が排泄の処理が出来ないときはこの命題は誤謬となる。シグナルが読めても、排泄行為の前に処理が出来ないのであれば、おむつを充てて服が汚れるのを防がなければならない。

育児の状況において、母親が排泄の処理をすることが可能な状態の方が普通なのか、それが不可能な状況が普通なのかで、内田さんの主張を「相対的誤謬」として受け止めるか、「相対的真理」として受け止めるかに違いが出てきそうだ。可能な状況が普通だと考えれば、不可能な状況は例外的であり、例外規定として条件を求めれば、内田さんの主張は「相対的真理」として受け止めることが出来るだろう。

逆ならば、内田さんの主張は「相対的誤謬」として受け止められる。witigさんや瀬戸さんと僕の違いはおそらくこんな所にあるのだろう。多分、ボイルの法則においてはそれが「相対的真理」であるという解釈に同意する人は多いと思う。それは、対象が自然であり、意志を持たない物質的存在なので、「領域」の観察も客観的に出来るからだと思う。それに対して、内田さんが語る「領域」は、人間の意志が関わってきて変化してくるのでなかなか同意することが難しいのだろうと思う。

フェミニズム的な視点では、「母親」という表現にこだわりがあるかも知れないが、それは一応「領域」の問題とは別なので、ここでは「領域」の問題に絞って考えてみたい。現在の社会状況を肯定的に受け止めた場合、その中では子どもの排泄処理をシグナルを読んで行うことが可能だというのは難しい場合がありそうだ。母親が忙しいと言うこともあるし、子どもを保育園などに連れて行かなければならないとか、子どもを同じような環境にとどめておくことが難しいと言うこともあるだろう。

しかし、子どもの排泄処理が可能な状況を作ることに出来るだけ工夫して努力したいという意志を持っていたら、これは「領域」が変わってくる。現状肯定の下で「領域」を考えるのか、現状を変えるという視点で「領域」を考えるかでそれが変わってくると言うのが、この問題がボイルの法則に比べて難しい面だろう。同意が難しい面でもあると思う。

研究の初期では、条件に恵まれた人間が、「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」ということが真理として見られるかと言うことが考察されることになると思う。これに対して、それは条件が恵まれているから出来るのだという批判は妥当なものになるだろうが、それは「領域」の問題を考えれば、研究の初期はそうせざるを得ないし、そうすることが正しいと思う。たとえ条件に恵まれているからそれが出来るのだとしても、素質に関係なくそれが出来るのだと言うことを証明することの意義の方が大きい。

条件さえ恵まれていれば、素質に恵まれていない普通の母親にも「子どものシグナルが読める」と言うことが証明され、多くの人がこの研究に価値を認めれば、社会的には条件を整える方向に運動が向いていくと思われるからだ。そして社会的な条件が整う方向に進めば、おむつを介したコミュニケーションの副産物として、母親と子どもとの深いコミュニケーションが生まれるのではないかと期待出来る。その時は、その深いコミュニケーションに父親も参加させて欲しいと思うものだ。

三砂さんの研究が、明らかにまずい結果に結びつくのなら、その研究を制限する方向の動きも理解出来るが、そうでないなら、研究の結果がまだ分からない状況ではそれは自由に行われるべきではないかと思う。それに横やりが入ることに異議を唱えるのが内田さんの本意であり、母親と子どもの深いコミュニケーションに役立つような方向へ研究が進むのなら面白いというのが、内田さんの感想ではないかと思う。