「仮言命題の限界」というエントリーに関する雑感 2


瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている仮言命題の真理性について気になる記述があったので、それについて考えてみようと思う。瀬戸さんは、

「前件・後件が真なら結論も真。
 前件・後件が偽なら結論は偽。
 前件が偽でも後件が真なら結論は真。
 前件が真でも後件が偽なら結論は偽。」


と書いている。仮言命題「AならばB」は、Aを仮定Bを結論と呼ぶこともあるので、これが前件・後件という言い方と紛らわしいところがあるが、瀬戸さんが語る「結論」という言葉は、仮言命題の全体を指しているのだと思われる。そこで上の文章をそのように解釈すると、次のような意味になるだろうと思う。

  • 1 A(真)ならばB(真):仮言命題の全体は真
  • 2 A(偽)ならばB(偽):仮言命題の全体は偽
  • 3 A(偽)ならばB(真):仮言命題の全体は真
  • 4 A(真)ならばB(偽):仮言命題の全体は偽

瀬戸さんは、仮言命題の真偽が「後件に左右されるものと思っていました」と語っているように感じるので、この解釈がおそらく正しいと思う。そして、この真理値は2番を除けば正しい。つまり2番は間違っている。2の場合は、仮言命題の全体は真になる。これは直感的には非常に分かりにくいが、これが形式論理における法則だ。

仮言命題というのは推論というものと深い関わりを持っている。「AならばB」という言い方は、Aという条件が成立するときには、必ずBという結果が得られると言うことを主張している。つまり、Aの成立を確認した時点で、Bのことを直接証明しなくてもBが正しいことが導けるという、推論形式を与えるものとなっている。

このような推論は、アリバイの証明の時などに典型的にその姿を見ることが出来る。人間は、同時刻に二つの離れた地点に存在することは出来ない。これを絶対的に正しい命題として承認するなら、

  A地点にいた →(ならば) B地点(Aと違う場所)にはいない

ということが仮言命題として成立する。前件が成立すれば、同時刻には他の地点にはいないのだから、必ず後件が成立するからである。犯罪現場をB地点とすれば、そこと離れた場所に同時刻にいたと言うことが証明されれば、B地点にいないことを直接証明しなくても、B地点にいなかったことがこの仮言命題を通じて推論される。形式的には、

  Aが成立する かつ A→(ならば)Bが成立する

という二つのことが確かめられると、Bが成立すると結論出来るというのが、仮言命題が示している推論形式になる。仮言命題というのは、本質的にこのような推論形式と結びついているものだ。つまり、前件であるAの成立を前提条件としてBの成立を主張するものが仮言命題なのだ。Bの真理性は、Aという条件付きだと言うことを主張することが仮言命題の本質だ。Bは単独で絶対的な真理性を主張することは出来ないと言うことを物語るのが仮言命題である。

前件Aが成立するときは必ず後件Bも成立すると主張するのが仮言命題なら、それが偽となる・つまり正しくなくなるのは、Aが成立するにもかかわらずBが成立しなかったときになる。つまりAが真でBが偽の時に仮言命題「A→B」はその全体が偽になる。そして仮言命題が偽になるのはその時に限るのである。

仮言命題「A→B」は、実はAが成立しないとき(すなわちAが偽の時)については何も語っていない。Aが成立しないときは、Bがどうなるかは分からないのだ。その時にはBが成立するかも知れないし、成立しないかも知れない。どっちとも決定が出来ないのだ。前出の

  A地点にいた →(ならば) B地点(Aと違う場所)にはいない

という仮言命題は、一人の人間が同じ時刻に、離れた地点に存在出来ないと言うことを認めれば常に正しい。つまり、この仮言命題は真であることが主張出来る。この仮言命題において、前件が成り立たないときとはどういう場合になるだろうか。

それは「A地点にいなかった」と言うことになるのだが、その時に、この人物が犯罪現場であるB地点にいたかどうかは、この仮言命題からは何も分からない。「A地点にいなかった」ので、B地点にいる可能性はあるが、いたかどうかは直接証明しなければならないことになる。

仮言命題において、前件が成り立たないときは後件については何も言えないとしても、仮言命題の全体に対して真理値は決定しておかなければならない。真理値がないというわけにはいかない。真理値がなければ、仮言命題は形式論理の体系の中では使うことが出来なくなってしまうからだ。だから、形式的にでも真理値を決定しなければならない。そして、まさに形式的には、この場合は仮言命題全体の真理値は真と定めているのである。

これは体系の全体の整合性を守るために、形式的にはそう決めざるを得ないと言うところから来ているのだと思う。ちょうど、マイナスとマイナスをかけるとプラスになると言う正負の数の法則が、そうしなければ方程式等の数学の体系の整合性を保てなくなるのと似ている。マイナスかけるマイナスがプラスになるのも直感的には分かりにくいが、かなり無理な設定をしてかけ算を考えると何とか納得出来る。仮言命題の真理値の場合には、その無理な設定による直感も難しい。

形式論理の体系からの考察では、「A→B」という推論と同じ形式を与える命題として「Aでない、かまたはB」というものがある。「A→B」という仮言命題は、Aの成立が証明されれば、そこからBが導かれるという推論を与える。同じように、「Aでない、かまたはB」という命題が成立しているとき、Aの成立が証明出来ればBの成立を結論することが出来る。

なぜならば、Aが成立するときに、同時に「Aでない」が成立することはない。つまり、「Aでない、かまたはB」が成立しているなら、Aが成立するときは、Bが成立しなければならない。そうでなければ「Aでない、かまたはB」が成立しているとは言えなくなるからだ。

「A→B」と「Aでない、かまたはB」とは、命題論理の形式としては同じものになる。そうすると、命題論理の体系の中でこの整合性を守るためには、両者の真理値も一致しなければならないが、それは、Aが成立しないときは、「Aでない、かまたはB」は、常に正しくなるので、真理値は真であると言わなければならない。形式的にはそうなのだが、直感的にはそれが正しいと言うことはすっきりと気分良く納得は出来ない。

この真理値の法則からは、明らかに間違っていると分かる前提(形式論理ではこれを「矛盾」と呼ぶ)をおけば、どんな結論であろうとも導くことが出来ると言える。偽であることがはっきりしている命題を前件におけば、仮言命題の全体は真になるからである。

これは不思議な印象を与える。明らかに間違っている命題は、それが成立することを決して言えないのだが、その成立を前提にすればあらゆる命題が推論によって導き出されることになる。決して成立しない命題の成立はあり得ないのだが、推論としては仮言命題が正しくなってしまうので論理的には間違っていることが指摘出来なくなる。この場合は、その前件が決して成立しないと言うことを直接証明しなければならないということになる。

いずれにしろ仮言命題というのは、前件の成立と結びつけて考えなければその真理性を見誤ることになるだろう。その前件が決して成立しないことが分かっているときは、その仮言命題には意味がないのだと言えるだろうが、前件が成立する可能性がある場合は、その仮言命題は、前件が成立するときに「領域」を限って考察しろと言うことを語っている。

さて、内田さんが語る「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」という仮言命題は、実は語られていないが、この命題の前提となるような命題が設定されていると僕は解釈している。それは論理的にはあまりにも自明なことなので書かれていないと解釈している。その前提というのは、「子どもが排泄行為をする前に、服を汚さずに処理することが出来る」というものだ。この前提の下に上の仮言命題を考えれば、

  母親にシグナルが読める
    ↓
  子どもの排泄処理をする(可能な場合を考えているのでそれが出来る)
    ↓
  服が汚れる前に排泄の処理が出来る
    ↓
  おむつをする必要がない

という流れで推論が展開していくだろう。「子どもが排泄行為をする前に、服を汚さずに処理することが出来る」という前提を自明なものとして設定してあえて書かなかったというのは、ご都合主義的だという批判があるかも知れないが、この前提を置かなかったら、そもそも論理の展開として「おむつが必要ない」ということが言えなくなってしまう。

「子どもが排泄行為をする前に、服を汚さずに処理することが出来ない」としたら、服が汚れることを防ぐためにおむつが必要だという結論が出ないわけにはいかないだろうと思う。つまり、おむつをわざわざ研究しなくても、論理だけで「おむつが必要だ」という結論が出てしまう。「おむつが必要ない」という主張が、現実の研究なしに否定されてしまうのだ。

まともな研究者がその程度のことに気づかないと言うのは、あまりにも見くびりすぎているのではないだろうか。この程度のことは自明の前提なので書かれていないのだと僕には感じられる。

仮言命題の真理値との関係でもう一つ考えれば、「出来る」という前提の下で考察していると考えれば、「出来ない」場合のことについては関心の外にあると言ってもいいだろう。「出来ない」場合についておむつが必要かどうかは考察していないと言える。あくまでも「出来る」状況にいる母親、「シグナルを読める」母親という前提の下で研究をしようと言うことだろうと思う。この前提が現実には不可能だという、決してあり得ない命題なら、この仮言命題は意味を持たない。しかし、現実に可能性があるのなら、この前提の下で「おむつが必要ない」という結論が出せるかどうかは研究の余地がある。

この研究が「母親」に対してなされることや、「出来る」状況という恵まれた立場にいたり、「シグナルが読める」という能力を持っているという前提は、それに対して反発を感じる人もいるかも知れない。しかし、それは一応仮言命題の真理性とは別の事柄なので、僕はそれを切り離して考えたいと思っている。僕が関心を持つのは、あくまでも論理的な正当性であり、その点に関しては内田さんに間違いはないと思っている。