問題意識と読書


僕はちょっと前に『バックラッシュ』(双風舎)という本を買ったのだが、この中に書かれている多くの言説の中で関心を持っていたのは宮台真司氏のインタビューを綴った「ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道バックラッシュとどう向き合えばいいのか−」というものだけだった。だから宮台氏のこの文章しか読まなかった。そして他の文章にはほとんど関心を引かれなかった。

これは、宮台氏の文章以外が、何か価値が低いとか、僕が反対の見解を持っていると言うことではない。そこに書かれていることは大部分が正しいのだと思う。専門的なことが書かれているので理解することが難しいこともたくさんあるが、それが大部分正しいであろうと言うことは伝わってくる。だが、その正しいだろう文章を、苦労してでも理解したいという意欲がわいてこないのを感じる。

宮台氏が語ることは、ここに含まれた文章の中でもピカイチに難しいものだろうと思われるのに、この文章だけは何度読み返してでもいいから少しでも深く理解したいという熱意がわいてくるのを感じる。この差は、たぶん問題意識の違いから生じるものではないかと僕は感じる。

僕が「バックラッシュ」という現象で語られる事柄に対してもっとも関心を持っているのは、それがいかに間違った言説を語っているかではない。たぶん、この本で批判されている「バックラッシュ」する側の言説の間違いの指摘は、正しい指摘だろうと思う。「バックラッシュ」言説というのは、基本的には単純な間違いの中にあると思う。宮台氏が言うところの感情のロジックに惑わされている言説に対する批判ではないかと思う。それ故に「バックラッシュ」だと理解されているのだろう。

バックラッシュ」言説が間違っていることを理解することはたぶんそれほど難しくないと思う。だから、僕の関心はそこにはあまりない。僕の関心は、そのように間違っていることが分かりやすい「バックラッシュ」言説が、現実にはなぜ大きな力を持って人々を支配しているように見えるのかと言うことだ。間違っていることが分かりやすい言説なら、その間違いを理解した多くの人によって駆逐されるのが、論理的には整合性があるのではないかと感じる。

だが、現実にはそのようになっていないとしたら、これほど不思議なことはない。この不思議さの整合性はどこにあるのか。僕はそれが知りたいと思う。良く理解出来ることは、一度理解してしまえばそれほど問題意識として自分の中には残らない。なぜなのかが分からないことこそが、問題意識として自分の中に深く残るのを感じる。

この問題意識に答えてくれる文章は、『バックラッシュ』という本の中ではほとんど宮台氏の文章だけのように感じた。あとの文章は、確かに「バックラッシュ」言説の間違いを正しく指摘しているのであろうが、自分が感じる不思議さを鮮やかに解明してくれるというような、「目から鱗が落ちる」というような体験を与えてくれるようには感じなかった。

バックラッシュ」言説が間違った言説であるということが証明されてしまうと、多くの論者は、それだけで「バックラッシュ」の問題は解決されたと錯覚してしまうのではないだろうか。間違いが証明された後にもまだ「バックラッシュ」言説を捨てないのであれば、それは間違いを理解しない頭の悪さに問題があるのであって、理解しないやつが悪いのである、としてしまっているのではないか。そこのところを、間違っているにもかかわらず、なぜその言説が多数派を得るかと言うことを宮台氏は正しく分析しているように見える。そこのところが、僕の問題意識に答えてくれるような気がして、宮台氏の言説に大きな関心を抱くことになっているのだろう。

宮台氏が、なぜに答えているのではないかと感じるところは次のような所だ。

「不安こそは、全てのバックラッシュ現象の背後にあるものです。」

文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力や経済権力と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイラーキーの頂点を叩くという図式です。」

ジェンダーフリー論者も「冷酷なハト」もともに、叩く側から「恵まれた連中」に見えている」

「不安をたやすく煽られるタイプの人々が、非常に増えてきたように見えるのです。」

「ディプレッシブ(抑鬱的)な人々が、大規模に生まれてきたようにも見えます。」

「豊かな社会では、人々が何を不安に思うかは共通でありやすいのに対し、何を幸せに思うかが多様に分岐しやすく、「不安のポピュリズム」のコストパフォーマンスが高くなると言うことです。」

「今日では多くの人々が、多様性そのものを、自らを脅かす過剰流動性の帰結だと思いがちだということがあります。」

「多くの人々が、多様性から実りを引き出せるのは恵まれた勝ち組だけだと思いがちだ、ということがあります。」

「多様性の恩恵から排除されがちな人々こそが多様性に反対すると言うことです。」

「「インテリをねたむ亜インテリ(の反動権力へのすりより)」と相似的に、「リベラルをねたむ弱者(の反動権力へのすりより)」が展開しています。」

「プラットフォームへの信頼(を支える抵抗史)が統合シンボルを与えてくれないから、統合シンボルを「社会」にでなく「国家」に要求して、拝外主義的政策や愛国主義的教育を待望する」

相対的剥奪感の大きい人々は、多様性への意欲やリベラリズムを「恵まれた連中のイデオロギー」と見なしがちです。」

「性の多様性が上昇すると、性に不得意な人々がディプレッシブ(抑鬱的)になり、何かというと統治権力を呼び出して統制を求め始めます。」

「そうした者たちを包摂せず、単に批判して排除するだけだと、ルサンチマンやディプレッションを抱えるものが周辺に量産される。」

「この統合シンボルが欠落すると、あれやこれやの代替物が登場し、代替しきれないとアノミー−共通前提不在ゆえの混乱−が生じがちになります。過剰流動性への過剰適応や、過剰流動性ゆえの不安不信から、お門違いの敵を見つけることに象徴されるような様々な問題が起こるようになります。」

バックラッシュ系の人々の背後にあるのは、ルサンチマンだと思います。」


このように語られた抽象的判断が、どのような過程を経て得られているかの理解を通じて、ここに含まれている豊かな内容をもっと深く理解したいものだと思う。また、宮台氏は、これらの「なぜ」に対して問題の解決の方向も示している。これも、そのようにしたときにどうして問題が解決するかという整合性を考えてみたいものだと思う。

この本では、宮台氏の弟子でもある鈴木謙介氏も「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」という文章を寄せている。鈴木氏の言説にも、さすがに宮台氏の弟子だというような、社会の不思議を解明するような問題意識と視点を感じる部分がある。「バックラッシュ」言説そのものの批判ではなく、「バックラッシュ」言説が生まれてくる社会の背景を語る言葉として、次のものはとても参考になるのではないかと思う。

バックラッシュと呼ばれる主張に一定の理解を示す「普通の人々」の存在がなければ、言説に政治的実効性は生まれない。」

バックラッシュや右傾化のような現象に暗黙の承認を与える「普通の人々」の立場に、本来「左」であったはずのものが「右」の方に取り込まれるといったねじれが生じているのである。」

「考えれば即座に分かることだが、これだけの人間が性別役割分業を問題だと考えているなら、とうに性別を巡る差別は解消されているはずだ。だが、現実はそのようになっていない。」

バックラッシュ派が望ましいあり方と見なすような家族の形が維持出来ないのは、多様な生き方を求める人々が自己の権利を過剰に主張するからではなく、「普通の人々」からその可能性が剥奪されているからなのだ。」

ジェンダーフリー・バッシングという疑似問題に固執し、ましてバッシングの当事者を「心が弱い人たち」といった形で属人的に非難して溜飲を下げるだけでは、議論にいかなる実りもない。」


これらの指摘は、「バックラッシュ」言説の理解ではなく、「バックラッシュ」言説が生まれてくる社会背景の方を理解するのに役立つだろうと思う。「バックラッシュ」言説を理解することはそれほど難しくない。それはほとんどが単純な間違いに過ぎない。難しいのは、そのような単純な間違いが、間違いとして正しく、社会的に認識されないと言うことの理解なのだ。

バックラッシュ」言説の間違いは、ある程度正当な論理が使える技術さえ持っていれば、それを理解することが出来る。「バックラッシュ」する側が、そのような技術さえも忘れてしまうほどなのは、彼らが頭が悪いからではない。むしろ、彼らがマトモに頭を使うことを邪魔するほどの感情のロジックが働くことが原因だろうと思う。その感情のロジックの源泉がどこにあるかということを理解することは、「バックラッシュ」言説の間違いを理解するよりもたぶん重要なのではないかと思う。

なおこの本には、精神科医斉藤環氏による内田樹批判が語られていた。他の「バックラッシュ」言説批判はだいたい理解出来たのだが、この批判だけは理解出来なかった。これは、たぶん内田さんに対する評価の違いがあるからだろうと思う。この批判が理解出来ないのは、僕の方が間違っているのか、あるいは斉藤さんの方が間違っているのか、それとも僕の見解も斉藤さんの見解も両立するものとして「見解の相違」という解釈が出来るものなのか。それも考えてみたい興味深いものではある。

いずれにしても、論理的な正しさが必ずしも大衆動員的には効果を持たないと言うことは、僕にとってはけっこう切実な問題として意識されることだ。これは絶望的なことなのか、それとも希望を持って改善の努力を目指していけるものなのか、考えていきたいとは思う。