「仮言命題」には限界があるか?


瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに関する最後の雑感として論理や仮言命題の「限界」あるいは「不完全性」について考えてみようと思う。結論から先に行ってしまうと、「仮言命題」というものを、命題論理・あるいは述語論理の範囲で考えるのならば、その論理世界の中では限界もないし完全なものであると僕は考えている。

限界が生じるのは、論理世界から外に一歩を踏み出して、論理を適用する世界を広げたときに、適用に限界が出てくると言うことが起こる。つまり、適用出来ない対象に「仮言命題」で表現されている論理を適用してしまったという誤謬が生じる可能性があるだろう。

もう一つの不完全性というのは、論理を適用する世界の無限性に関わって、対象の属性の無限性が把握出来ない側面において、論理だけでは結論が出せないような事柄が発見出来て、その部分では真とも偽とも結論出来ないと言う「不完全性」が発見出来ると思う。

このように、論理というものが論理だけの世界を踏み出して、対象世界を広げたときには適用の限界と不完全性が生じる。しかし、論理がその対象が命題であるという属性のみを扱う、他の具体性を全て捨象してしまった世界にとどまるなら、論理はその世界では完結したものになり、完全な存在になると思う。

ゲーデルは算術の公理系(つまり自然数論)においてはそれが不完全であることを証明した。それは、その体系が矛盾を含まなければ、証明が出来ない命題が存在すると言うことだ。公理系においては証明をすることによって真であることが決定出来るから、真であることが決定出来ないと言う「不完全さ」がここにあるということになる。ついでに付け加えておくと、矛盾を含んだ体系においては、全ての命題が証明されてしまうので不完全さはなくなる。だが、どんな命題でも証明されてしまうので、この場合は証明することに意味が無くなってしまう。意味のある体系であるためには矛盾が生じないことが言えなければならない。

矛盾が生じないという無矛盾性に関しても、命題論理・述語論理という論理だけの世界ならそれが証明される。この意味でも、論理だけなら限界はないし完全であると主張することが出来るだろうと思う。

そもそも「限界」と呼ばれるものはどのようなものとして考えられているのだろうか。それはある種の境界を語るものではないのか。その境界を越えて「あちら側」へ行こうとすると失敗するという現象が見えたとき、それを我々は「限界」と呼ぶのではないだろうか。

「あちら側」へ行ったときに失敗をせずにすますことが出来たら、それは「限界」とは呼ばれないだろう。また、今までは失敗を続けていたが、初めて失敗せずに境界を越えることが出来たら「限界を超えた」と言われるのではないだろうか。問題の本質は、境界線とそれを越えるかどうかと言うことにかかっている。

境界線が明確になっている事柄に関しては、その境界線を越えたら必ず「限界」を感じることになるだろう。それは、境界線というものの認識をよく考えれば明らかだ。それを越えたら失敗するところが境界線なのだから、それが明確に分かっているのなら、境界線が「限界」になるのは全く明らかだ。

この境界線が明確になっていないときは、それを越えて「あちら側」に行ってみることは一つの冒険になる。そして、冒険がうまくいったときには、その人は先駆者として尊敬されることにもなるのだろう。逆に無謀な冒険をしている人間は、限界を自覚しない愚か者といわれるかも知れない。

境界線が知られていないときに、境界線を確定するための努力をする人は、認識の進歩に貢献することになるだろう。ウィトゲンシュタインが「思考の限界」を定めようとしたのは、思考の境界線のあちら側を確定しようとしたのだと思う。しかし、思考の境界線のあちら側は、その定義から言えば思考することが出来ない。思考によっては境界線を捉えることが出来ない。限界を知ることが出来ないのだ。

だから、思考は常に限界を超えて、思考によっては捉えきれない失敗をする可能性を持っている。だが、境界線が明確ではないので、それを越えたかどうかは知ることが出来ない。そこで、ウィトゲンシュタインは、思考の際に常に言語が使われていることから、思考の限界と言語の限界が重なると考えて、言語の側の境界線を引こうとした、というのが『論理哲学論考』の問題意識だというのが野矢茂樹さんの指摘だった。

我々が表現出来るものと表現出来ないものとの境界を求めようとした。というのが言語の限界を定めるというものだろう。思考というものは論理と重なる部分が多い。そういう意味では思考の限界と論理の限界は関係があるだろうと思う。だが、思考の対象を論理のみに限れば、それはやはり限界がない、完結した世界と言えるのではないだろうか。それは、境界線が存在しないという意味では、球面のようなイメージではないかと思う。同一方向へどこまで行っても境界線にぶつかることはない。だが、やがては元いた場所と同じ地点に帰ってくる。これが僕がイメージする完結した世界のイメージだ。

球面という2次元の世界ではそこに限界を見つけることが出来ない。一つ次元をあげて3次元の世界に入ったときに、その球面から抜け出られないという限界が生じてくる。思考の対象を、論理の世界から、現実に存在するもの、あるいは抽象化したものであっても具体的な自然数を対象とした世界を取り込むと、今まで見えなかった一つ上の次元の限界が顔をのぞかせてくるのではないだろうか。

「A→(ならば)B」という仮言命題が、現実の事実と整合性を持たないと言うことは、論理の限界ではない。その適用を間違えているだけの話だ。論理の教科書には、次のような推論が良く出てくる。

「1 女性には出産能力がない
   道元は女性である
   それゆえ、道元には出産能力がない

 2 魚は水中を泳ぐ
   イワシは水中を泳ぐ
   それゆえ、イワシは魚である」
(『論理学』野矢茂樹・著)


1で語られている「道元」という名の人物は普通の意味では男と呼ばれている。だから、1の推論における命題は、3つのうち前提の2つは間違っている。だが、「それゆえ」で導かれる結論は正しい。それに対して、2の推論で語っている3つの命題は、2つの前提も結論もともに正しい。

それでは、1の推論が間違っていて、2の推論が正しいのかと言えば、これは全く逆だ。推論としては1が正しくて2が間違えている。推論というのは、論理の形式に対して語るのであって、個々の命題の内容については何も言及しない。個々の命題が正しいかどうかは、推論という論理の対象では捨象されているのだ。

推論において重要なのは、個々の命題が正しいかどうかではない。その前提がもし正しい命題であったなら、正しい推論から導かれた結論は全て正しいと主張出来るものが、論理としての正しさというものなのだ。だから、個々の命題が正しくないと言うものは、論理の限界ではないのだ。それは正しくない命題を用いて推論をしたという適用に問題があったということだ。

だいたいにおいて論理を適用するのは、結論としての命題が直接証明出来ないときに、証明出来る命題の組み合わせで、直接証明出来ないことの真理性を確定しようという意図が働いたときに適用するものだろうと思う。結論が現実との整合性を持たないと言うことが、論理ではなくて事実を照合すれば分かるときには、そこには論理を使う意味がない。

個々の命題に間違いがあるときは、論理の適用の限界が露呈されるが、それは決して論理そのものの限界ではない。論理は、命題が正しいかどうかには関係なく成立する法則として完結しているのである。

  A →(ならば) B

という仮言命題は、このままでは真理であるか無いかは決定出来ない。それは捨象されているので、AやBの命題を具体的に考えて、現実にそれを適用したときは、AやBの真理性によって、この仮言命題の真理値が変わってくる。これは、仮言命題の限界ではない。適用によって、Aが真であるにもかかわらず、Bが偽になればこの仮言命題の全体は偽になる。それは仮言命題の限界ではなく、それこそが仮言命題が意味するところなのだ。

Aが偽になるときは、この仮言命題の全体は真になる。つまり、その時はBが真であるか偽であるかは、この仮言命題からは決定出来ない。しかし、これは限界ではないのだ。単にそのような場合は捨象されていると言うことに過ぎない。

 「母親に子どものシグナルが読める」→「子どもにおむつは要らない」

という仮言命題の真理性に関しては、ある特定の母親については、その母親が常に子どものシグナルを正確に読んで、おむつが無くても服を汚さずに処理していれば、「おむつは要らない」という結論を導いてもいいだろう。つまり、個別の対象に関する仮言命題は、個別の現象を観察することで事実的に証明出来る。

これが100%の完全性が無くても成立すると言うことを主張したいときは論理が必要になってくる。「子どものシグナルが読めない」と言うことがあった場合、いくつかを特殊な場合として設定しておけば、これは特殊な場合だから捨象するという論理が使える。それが特殊な場合であるというのは設定されるものだから、証明することは出来ない。つまりあらかじめこれは正しいという前提で考えるという宣言をするものだ。その時、その正しいと宣言されたものから導かれる結論は正しいと考えることになる。これは論理による正しさだ。

また、個別の母親ではなく、「任意の母親」に対して上の仮言命題を主張したいときは、そこにも論理の適用の問題が生じる。その「任意性」をどう捉えるかをあらかじめ設定して宣言しておかなければならない。そして、この「任意性」は客観的に正しいのだと言うことを証明出来るものではない。そう考えるという前提として設定するものだ。

直接証明出来る問題は論理の問題ではない。直接証明出来ないからこそ公理のように前提として宣言するときに、それは論理の問題になる。そして、将来この公理的な前提が否定されたとしても、それは論理の限界を示すものではない。前提が間違っていても、論理は依然として正しい。論理は、前提の正しさを捨象しているからだ。それは、論理の限界ではなく、論理の適用の間違いであり、論理の適用には限界があるということを示すだけなのだ。