「バカ左翼」と「バカフェミニスト」と「バカ右翼」の関係について


「バカ左翼」「バカフェミニスト」「バカ右翼」という言葉についている「バカ」という言葉は、非常にインパクトの強い響きを持っているので、それだけで反発を感じてしまう人がいるかもしれない。だが、内藤朝雄さんや宮台真司氏が語る意味での「バカ」とは、単純な「愚かさ」を指しているのではないような気がする。つまり、あいつは「バカ」だと言って切って捨ててそれですむような存在として考えているのではないような気がする。

これらの「バカ」という形容詞をつけて呼ばれる存在の一番の問題点は、本人の善意にもかかわらず、それが戦略的に利用されて結果的には敵を利することになるという点にあるのではないかと思う。そして「バカ左翼」と呼ばれる人たちは、決して単純な意味で「愚か」ではないからこそ利用価値があり、敵を利するに効果的に働いてしまうのではないかと思う。

このような意味で「バカ」という言葉の意味を感じたのは、今週配信されたマル激での教育基本法「改正」問題と愛国心問題を聞いたからだ。マスコミの報道や、左翼の運動に関するものでは、教育基本法「改正」の問題は愛国心の問題が一番大きなものとして宣伝されているように見える。ほとんどそれのみが問題ではないかという過剰な反応のようにも見える。

しかし、本当に大事なことはそこにはない、というのがマル激の議論だった。愛国心問題は、むしろ国民の眼を逸らすためのカムフラージュの役割をしているのではないかという指摘をしていた。そして、国民の眼を逸らすために有効に働いてくれている人間たちが、「バカ左翼」であり「バカ右翼」だという風に見ているのではないかと感じた。

これらの人たちが「バカ」と呼ばれているのは、本質を見ないで末梢的なところの方を重視していると言うところに一種の「愚かさ」を見ているのではないかと思う。マル激の議論では、もっと重要な点は教育の地方分権と言うところにあり、今の教育の荒廃や問題を解決するためには、それを正確に把握できない文科省のような大きな組織の権限を減らして、問題の細かいところを把握して考えることの出来る地方単位の小さな組織に権限を移譲することが必要だと言うことを語っていた。これは非常に説得力のある議論だと思った。

これは文科省の権限を減らすことになるので、省益という観点からは文科省は反対してくるだろうと思われる。それに対して、省益というエゴを跳ね返すのは、国民世論という背景で文科省に対抗しなければならない。そして、この本質を知れば、その説得力に国民世論は文科省のエゴを見抜くだろうと思われる。文科省としては、この本質的な問題から眼を逸らすことが省益の一つになる。

そこで愛国心教育の問題になるのだが、文科省としてはこの問題は眼を逸らすためのネタとして出しているだけではないかという解釈が出来る。そもそも愛国心教育などというものは、そんなもので本物の愛国心が育つなどと言うことは、真正右翼ならむしろ反対するようなお粗末な内容を持っている。日の丸に敬礼させて、君が代を歌えば愛国心が育つと言うことを論理的に正しいと理解する人はいないだろう。真の愛国心は、そのような形の問題ではなく、内心の問題なのだ。

愛国心教育に対して、感情的に吹き上がる「バカ右翼」はいるかも知れないが、マトモにものを考えられる人間だったら、そのような愛国心教育のデタラメさの方をこそ理解するだろう。こういうバカげた提案をなぜ文科省は出してくるのか。文科省が頭が悪いからだとする解釈もあるが、そのように捉えると相手を見くびりすぎるのではないかと思う。

文科省が省益しか考えないエゴイストの集まりだとしても、本当に短絡的な愚かさだけしかないのだろうか。実はこれは戦略的に愚かなふりをしているのだと見ることが出来ないか。愛国心教育が本当に成果を上げるなどということは、文科省自身も考えていないのではないだろうか。だから、最終的にはそれが否定されたとしてもそれでいいと思っているのではないだろうか。

むしろ、国民の目がそこに向いている間は、教育の権限の分散という文科省の省益の本体に関わる問題は議論されずにすむという大きな利益が得られると考えているのではないだろうか。国民世論がこの愛国心教育を拒否しなければ、この問題は引き続き戦略的に利用し続けられるし、拒否されたとしても重要な目的は達成されたと考えるのではないだろうか。もしそうであるなら、文科省は頭のいい戦略を考えているものだと思う。

この文科省の戦略に利用される人々は、どれほど善意にあふれていて、頭脳の明晰さを見せようとも「バカ左翼」「バカ右翼」と呼ばれる理由があるのではないだろうか。それは、文科省の頭の良さを見せてしまうという結果に結びついたときは、比較という意味でも「バカ」と呼ばれる理由があるのかも知れない。

このように、愛国心教育の問題が、人々の目をそらせようとする戦略ではないかと感じるのは、それがあまりにもお粗末な愛国心の定義のように感じるからだ。だから、そのようなお粗末さを取り上げて反対するのなら、愛国心教育そのものがいけないという批判ではなく、真の愛国心教育はそういうものではなく、具体的にはこういうものでなければならないというものを提出する必要があるのではないだろうか。

だが「バカ左翼」の対応としては、愛国心教育を叫ぶ「バカ右翼」に対して、愛国心教育がいけないと言うことを対置するだけのように見える。それでは、「愛国心など持たなくてもいいのだ」と主張しているように受け取られてしまう。これは多くの人の賛同を得るような主張にはならないだろう。愛国心は右翼の専売特許だから、そんなものは否定するのが左翼だと単純に考えているなら、やはり「バカ左翼」と呼ばれても仕方がないだろう。

ネタで振ってきた愛国心教育が愚かなものであるなら、真の愛国心教育を対置することこそが正しい批判ではないかと思う。そうでなければ、利害から距離を置いた人々からは、両方ともバカげたことを言っていると見えるだけではないかと思う。

一般の国民に、教育基本法「改正」問題の議論がバカげたものであると映れば、人々はそれに対する関心を失うだろう。そうすると、わずかだけでもその「改正」に賛成する人々が多ければそれは「改正」されてしまうと言うことになってしまう。あるいは、バカげたと思われている部分が「改正」されずに、人々が良かったと胸をなで下ろしていても、本当に改正すべき点がそのままで残されたら、そうしたいと思っていた文科省の意図は達成されたと言うことになるだろう。

文科省が頭のいい戦略的な人間の集まりだと考えるなら、「バカ左翼」と「バカ右翼」は実にありがたい存在だと思うだろう。これは、両方がいてその効果が本当に発揮されるという存在だ。そして、本当の目的が達成された段階では、文科省としては「バカ右翼」とは関係がないという姿勢を見せるために、それを容赦なく切り捨てるということも出てくるだろう。本当の戦略から言うとそのようなことがあって、戦略というものは完成するだろうと思う。宮台氏が『バックラッシュ』(双風舎)の中で次のようにも語っている。

「ちなみに、実際に日本全体が急速に国粋主義化し、軍部へと権力が集中するに連れて、すでに戦前の段階で簑田胸喜は用済みになり、敗戦後は首をくくります。「新しい歴史教科書をつくる会」の顛末も似ているようです。男女雇用機会均等化から援助交際化まで含めて、実社会のリベラル化が進むように見えた中で勃興した「つくる会」は、小泉自民党的な右傾化の中で用済み化し、今や会の中で「田吾作のツバぜり合い」があるに過ぎません。」


権力の中枢の側では、「バカ右翼」は利用できる賞味期限が過ぎれば容赦なく捨てられる運命にある。それは、本格的な右翼化が達成されればもう必要なくなるものなのだ。過渡的に左翼的な力が伸びてきたときにその芽を摘むためにこそ「バカ右翼」は戦略的に必要なのだ。

この「バカ右翼」に短絡的に反応する「バカ左翼」がいたとき、国民世論は急速に左翼的なものから離れていく。内藤さんが指摘するように、「バカ左翼」こそがリベラルの側にとっては諸悪の元凶というものになる。左翼は、「バカ右翼」に短絡的・感情的に反応するのではなく、「それは真の右翼ではない」という批判をして、「真の右翼」とこそ論争をしなければならない。そして、真の右翼が論理的に正しいのであれば、それをどんなに感情的に受け入れがたいと思っても論理に従うべきだと思う。

「バカ右翼」を相手にしていると、とても論理的には受け入れがたいものになってしまうので、それを叩くことしかできなくなる。しかし、たたき合いに反応していたら、どんなに優れた頭脳を持っていても結果的に「バカ左翼」になってしまうかも知れない。

バックラッシュ」というのも、「バカ右翼」による理不尽なバッシングがほとんどだろうと思う。それに対して、同じようにたたき合っていたら、おそらく「バックラッシュ」を利用しようとする本当に頭のいい人間の思うつぼなんだろうと思う。論争が、「どっちもどっち」というたたき合いに見えないようにする工夫をしなければならないと思う。

「バカ左翼」「バカ右翼」を利用して利益を得ようとする人間は、頭のいい人間ではあるに違いないが、自己の利益を最優先するエゴイストであり売国奴であることは間違いないだろう。思想的にはたとえ右と左という対立を持っていても、このようなエゴイスト・売国奴こそが、本当は正しく生きようとする人間の敵ではないのだろうか。右と左、どちらの立場であろうとも、真に深く正しいものを求めると言うことを忘れないようにしたいものだと思う。僕の場合で言えば「バカ左翼」にはならないように、現実を見つめていきたいと思うものだ。

右翼は「バカ右翼」を切り捨てるのにあまりためらいを見せないようにも見える。用済みになったものが捨てられるのをよく見るような感じがする。それに対し、左翼は「バカ左翼」であってもなかなか切り捨てられないところも感じる。それは左翼の優しさでもあるのだろうが、闘争には負ける結果になる。権力を持たない側が、その主張に愚かさを持っていたら、たぶんその闘争は絶対に勝てないだろう。

「バカ右翼」は右翼の側にとって利用価値があるが、「バカ左翼」は、左翼の側にとっては弱点以外にはならない。内藤さんが言うように、この問題は左翼にとって重要なのではないかと僕も感じる。同じように、フェミニストにとって「バカフェミニスト」の問題は重要だと思うのだが、これは「バカ左翼」の問題と同じ構造を持っていないだろうか。