教育基本法「改正」法案成立の社会的背景


教育基本法「改正」案が、自公の賛成多数で可決された。「改正」と括弧付きで表現しているのは、この法案が辞書的な意味で本当に「改正」になっていると思えないので僕は括弧付きで表現している。宮台氏を始めとする多くの知識人が、この法案ではいま教育が抱えている問題は何一つ解決しないと語っている。僕もその評価は正しいと思っている。

この「改正」が、教育を良くするどころか悪くすると感じている人は、この「改正」案の成立に怒りを覚えている人もいる。僕は、怒りという感情よりも違う種類の思いが浮かんでいる。それは、ある程度マトモにものを考えることの出来る人であれば、そこに含まれている欠陥がよく分かる「改正」案であるのに、それがなぜ賛成多数で可決されてしまうのかという、ある意味では論理的な理解が難しい謎を感じるところに関心を抱く。

論理的に考えれば、欠陥のある「改正」案は否決されるのが正しいように思える。それがなぜ否決されずに可決されてしまうのか。それを合理的に理解するにはどうしたらいいのかと言うことが気にかかる。個人の判断と社会の判断が食い違っている原因はどこにあるのか。

もっとも単純な理解をするなら、「改正」案を提出した自公の国会議員が頭が悪いからだという理解がある。しかしこのような考え方は、原因を突き止めたように思い込んでいるだけで、実は原因を他に転嫁しているだけのように感じる。頭が悪ければ、「改正」案の欠陥を理解することが出来なくて、ある種の利害関係だけから賛成すると言うことも起こるだろう。だが、このときは、なぜそのように頭が悪い議員が大量に生まれるのかという謎に答える必要がある。

ある謎の解答が、他の新たな謎を引き起こすなら、その解答は本当の解決にはならない。問題を先送りにしただけだ。頭の悪い議員を生むという解答は、それを選んだ国民も頭が悪いのだという方向へ考えが流れるかも知れない。しかしそうすると、そのように頭が悪い国民を生んだのはなぜかという謎が生まれる。

これは教育が悪いせいだ、ということになる。そうするとそのような悪い教育はどうして生まれたのかという謎がまた生まれてくる。これは教育を司る人間が悪い、ということになるのだろうか。文部科学省の役人が悪いと言うことになるだろうか。それでは、そのような悪い役人が生まれたのはなぜか。というような発想で原因を遡ってもいっこうに謎は解決しない。

この原因を遡る発想は、どこかで原因が分からなくなったり、循環した原因の連鎖が出来上がったりする。原因を遡る発想は、ある意味では犯人探しをするようなものと同じになる。このような発想法はかなり不毛な論理を生み出す感じがするのだが、違う犯人を追いかけている人間は、「改正」法案に賛成することもあり得るのかなとも思える。

今回の教育基本法「改正」案に賛成する政府の保守層の頭の中には、教育が悪くなった原因を遡っていくと、それは日教組(=学校における左翼)が悪いと言うところに落ち着くのではないだろうか。この「改正」は、何よりも日教組主導に行われてきた公教育の流れにピリオドを打ちたいという保守層の意志の表れと受け取った方がいいのではないだろうか。

マル激のゲストで出ていた民主党参議院議員鈴木寛氏は、今回の「改正」案に関して、公明党は本当は「改正」したくなかったのだと語っていた。だから、本質的なところは変えないようにかなり抵抗したと言うことだった。自民党の保守層は根本的に変えたかったようだがそれが中途半端になってしまったため、その中途半端さが欠陥として出てきたようだ。

妥協して前面に押し出されたのが、戦後教育を悪くした日教組を排除できるような「改正」法案なのではないかという感じがする。そのようなことを感じる報道をいくつか拾ってみると、次のようなものがあるのではないだろうか。

「日の丸に向かっての起立、君が代の斉唱。1999年の国旗・国歌法制定後も、拒む教員の処分は続くが、起立や斉唱の強制を憲法違反とする判決も出ている。15日成立した改正教育基本法は、対立が続く現場に影響するのか。関係者は行方を注視する。
 改正法は従来の「教育は不当な支配に服することなく」とうたう条文に、「法律の定めるところより行われる」との文言を加える。」
「日の丸・君が代処分にどう影響?=違憲判決引用の条文修正−教基法改正」

「同法成立に伴い、安倍晋三首相が設置した「教育再生会議」(座長・野依良治理化学研究所理事長)は、教員評価制度や「ゆとり教育の見直し」を来年1月の中間報告に盛り込む方針だ。」
「<改正教育基本法>自公などの賛成多数で可決、成立」

「改正教育基本法は前文と18条で構成。「公共の精神の尊重」や「伝統の継承」の理念が前文に新たに盛り込まれたほか、教育の目的に「伝統と文化の尊重」や「わが国と郷土を愛する態度を養う」「豊かな情操と道徳心と培う」ことなど5項目を明記した。
 焦点だった「愛国心」をめぐる表現については、与党協議の過程で公明党への配慮から「心」が「態度」となった。」
「改正教基法が成立 「国愛する態度」明記 1月9日から防衛省」

「改正教育基本法が成立したことを受け、伊吹文明文科相は15日、改正法で作成が義務づけられている教育振興基本計画を08年度から5カ年計画で策定する方針を示した。同文科相は関連法案の改正作業について「教員免許更新制は最優先課題」と述べ、導入するため教員免許法改正案を通常国会に提出することを明らかにした。」
「<改正教育基本法>教員免許更新制は最優先課題 伊吹文科相」


愛国心」教育を踏み絵にして、「教員免許更新制」で圧力をかけるという構造があれば、組織的な抵抗はかなりつぶせるのではないかと思う。特に公立学校の教員は公務員であるから、法律に反するような行為はたとえ思想・信条に基づくことであろうとも結果的には許されないと判断されることもあり得る。

東京都の日の丸・君が代強制に関しては、「歌わない」「起立しない」という行為が、法律に規定されている事柄に違反するほどのことではないのに重い処分がされたことが、思想・信条の自由を侵したと判断されたと思う。しかし、法律に規定されたことをやらずに、それは思想・信条の自由だと主張することはおそらく出来ないだろう。

公立学校から左翼勢力を排除するという意図が、今回の「改正」案成立への大きな動機の一つであるなら、たとえ欠陥があろうともそれを押し通そうとした自民党保守層の考えは合理的に理解できそうな気はする。マル激でも、自民保守層の「悲願」という言葉で語られていたのは、端的には日教組を潰す最後の一撃と言うことなのではないかと思う。

公教育を悪くした諸悪の根元が、日教組という左翼勢力にあり、それを支えたものが「教育基本法」であるという認識は、認識としては間違いだと思うが、そう錯覚させる要素もあったと思う。保守層がこのような錯覚を持つことは、その立場上ある程度理解できる。左翼的な考え方は、保守層が価値あるものとしている事柄を否定するからだ。左翼的な考え方は、それまで虐げられてきた人々が、そのくびきを跳ね返すことを求めて古いものを破壊することを良しとするところがどうしてもあるあるからだ。そのあたりの価値観は真っ向から対立するだろう。

しかし、抵抗勢力が何もなくなってしまったら、保守層が間違いを犯したときにその歯止めとなるものが何もなくなってしまう。暴走を止めることが出来なくなり、間違いを小さいうちに訂正すると言うことが出来なくなる。もはや取り返しがつかなくなるまで破綻が明らかにならなければ舵を切り替えることが出来ないというところにまで行ってしまう恐れがある。保守勢力にとって抵抗勢力である左翼を全て潰すと言うことはそのような危険がある、ということをもっと頭のいい保守は気づかなければならないだろう。

今回教育基本法「改正」案を通した与党議員は、その欠陥に気づかない頭の悪さを持っていたと言うよりも、もっと頭のいい方向を見失っていると評価した方がいいのではないかと思う。普通の頭の良さで考えれば、「悲願」である左翼勢力の公教育からの排除が達成できると思えるのだろうが、それがこれからの教育にどのようなマイナスの影響を与えるかと言うことを考えるだけの頭の良さはなかったと言えるのではないだろうか。

自分たちにとって当面プラスになることが、長い目で見ればマイナスの要素として働くというのは、一方の立場に立っている人間にはわかりにくいことだ。それが分からないことは頭の悪さではないと思う。よほど頭のいい人間でない限り、そのような対立した面の正しさ(矛盾した面の正しさ)を理解するのは難しい。

左翼は「公(おおやけ)」にとっての害悪を撒き散らす存在であるという認識は、自民党の保守層にとっての常識でもあるだろうが、これからの保守層を背負って立つと考えられているネオリベ勢力にとっても常識になっているのではないだろうか。

マル激で鈴木寛氏は、小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」で育った20代・30代の保守層が、これからの自民党路線の中核を担っていく勢力になるだろうと語っていた。そのことを、小泉前首相とその流れを汲む人々はよく分かっていると言っていた。

彼らは「愛国心」にあふれ、「公」の精神を持ち、非常に真面目な人間が多い。そして、おそらく政治的な活動に積極的に取り組んでいくモチベーションを持っているだろう。政治的な中核を担う素質はかなりあると思われる。その彼らの信条や行動を否定しない、むしろ賛同するような世論が多かったら、教育基本法「改正」の方向の流れは、これからも止むことなく加速していくかも知れない。

昨今の左翼叩きの風潮が、国民世論を代表しているようなら、ネオリベ路線はまだ続くかも知れない。その現れが教育基本法「改正」案の可決に見ることが出来るかも知れない。そう思うと、怒りと言うよりも、今後「自由」が敵視されるようなイヤな時代が来ないかが心配になる。どんなにとんでもないことであっても、「考えるだけなら自由だ」と言うことが否定され、「ケシカランことは考えてもいけない」という暗い時代にならないことを祈る。

左翼的な人であっても、日本人の多くは「ケシカランことは考えてもいけない」という心情を持っている人は多いので、このようなものが世論の中核に据えられたりすると、本当に暗い時代がやってくるなと思う。