マトモな「論争」の落とし穴


仲正昌樹さんの『ネット時代の反論述』では、「論争」を次の3つに分けて論じている。

1 見せかけの論争
 (相手に語りかけるのではなく、ひたすら味方にだけ語りかけ、味方が自分を正しいと思い、相手を間違っていると思えば成功)
2 「相手」をちゃんと見てする論争
 (論理に従って、自分の正しさを証明する論争。これには様々な準備が必要)
3 とにかく相手を潰すための論争
 (自分がむかついた分以上に相手に不快感を与えて、相手がへこむような結果のみを求める。とにかく相手にストレスを与えれば成功)

この中の、マトモに見える「論争」の2について考えてみようと思う。これは、マトモに見える2の「論争」だったら「論争」として実りがあるのではないかと思うのだが、結果的に実りになることは極めて少ないと言うことが見出せると思うからだ。むしろ、この2はよほど注意していないとすぐに1や3の方向に流れてしまう。仲正さんは、1から順番に説明をしているが、2から先に考えた方が、その流れやすさがよく分かるのではないかと思う。

もしマトモな論理能力を持った人が、マトモな「論争」をしたら、どのような展開をするかを想像してみよう。おそらく「論争」のある段階でそれは終わるだろう。なぜなら、マトモな論理能力を持っている人間は、どのような展開が論理的に正しいかがある時点で分かってしまうからだ。

マトモな論理能力を持った人が「論争」のように見える対立した主張をしているときは、たいていがその出発点の前提が食い違っている。だから、前提の食い違いを確認した時点でおそらく「論争」は終わる。相手の前提で論理を展開すれば、相手の結論が出てくると言うことが論理的に理解できれば、反対する理由は何もなくなる。また、自分が前提としていることを相手に理解させることが出来れば、その後の論理展開に間違いがなければ、自分の主張が正しいことは明らかになる。

前提としている事柄は、論理の結果として導かれるものではなく、ある事実を判断したものであったり、数学における公理のような、理論の出発点として合意してもらわなければならなかったりするものだ。それは、視点や立場が違うと食い違う可能性がある。だが、それが一致すれば、その後の論理の展開において食い違いが起こることはほとんど無い。論理とはそういうものだからだ。

マトモな論理能力を持っていれば、相手の前提を一度受け入れて、相手の論理展開の正しさを理解することによって「論争」はなくなる。ただ、これは「論争」はなくなっても、相手の主張に賛成すると言うことを意味しない。相手の前提を、仮言命題の条件として設定すれば理解できるが、その条件が正しいかどうかは、論理としての理解とは関係がないからだ。前提の命題そのものの正しさは、論理とは違うもので賛成・反対が決まる可能性がある。

仲正さんも「一番根本的なところで本当に「答え」が決まっているかというと、怪しい。「社会的な事象に関しては、答がいくらでも出てくるんじゃないか」と言うことになる」と語っている。論理の前提となることの同意はかなり難しい。たとえ論理の展開に賛成はしても、前提そのもので同意できなければ、「論争」にはならないが、「見解の相違」が確認出来るだけのことになる。

仲正さんは、「構築主義」的な例として、「事実」が後から構成されてしまうときの、出発点としての事実の合意の難しさを語っている。具体的には「セクハラ」を例に出して次のような指摘をする。

「たとえば、セクハラの場合、同じことをされてもセクハラだと感じる人と、感じない人がいますね。実際に“セクハラ”された本人がそう意識していなくても、周りの人が、「それはセクハラだ」と指摘することがあります。その影響を受けて、「あれはセクハラだったかも知れない」と本人が思うようになってから、「セクハラを受けた」という事実が構成されると言うことになります。」


「セクハラを受けた」と言うことを前提に置いて、そこから論理を展開していった場合、論理の展開に対しては全て正しいことが確認出来るなら、ここでは論理に関する対立、つまり「論争」はない。「セクハラを受けた」という前提を仮言命題の前件に置いたときの論理に関しては合意できる場合があるだろう。

しかし、この前提が正しいかどうかには合意できないケースもあるのではないか。それが「構築主義」的に、後から無理やり判断されたと感じるようなときはなおさらだろう。ここでは、事実があったか無かったかで対立が起こる。これは「論争」だろうか。僕は、これは「論争」ではないと思う。

「セクハラ」の定義としてはどのようなものがふさわしいかは「論」になる。このようなもので対立するなら、そこには「論争」があるかも知れない。しかし、事実が存在したかどうかは、「論」で判断するものではない。これは「論争」ではないにもかかわらず、対立した見かけから「論争」のように見えてくると、マトモな「論争」ではなく、1や3のごまかしやニセモノの「論争」に流れていく可能性が出てくるのではないかと思う。

マトモな論理能力を持っている人は、とりあえず前提を認めれば、その前提からは何が導かれるかという論理の関係をたどることは出来る。しかし、そのような論理の流れが正しいと確認出来ても、前提の正しさに賛成できなければ、相手の主張そのものには賛成できない。だから、前提の正しさを巡っては対立するのだが、これは「論」の争いではない。

本当の「論争」になるのは、前提の合意が出来たときに、双方がマトモな論理展開だと思っている流れで対立した結論が出てきてしまったときに、どちらの「論」の方が正しいかという争いが起こるのではないかと思う。前提が食い違うときは、結論が食い違っても、それは「論争」ではなく単に両立する二つの主張が述べられているだけだとも言えるのだ。仲正さんは、「慰安婦問題」に関してそのような見解を語っている。

「最初の設定が曖昧だったためにとんでもない方向にそれてしまったのが従軍慰安婦問題でしょう。「強制があった」と言っている側は、「植民地支配の過程の中で、身売りしないといけないような女性が出てきたこと自体が、植民地支配の犯罪だ」という。一方、反対派は、「(文字通りの意味での)強制連行はなかった」ことに拘る。一方は構造を問題にして、他方は、個別のケースで法的に強制と言える行為があったか否かに拘ってるのだから、本当のところマトモな論争になるはずがありません。本来なら「あった」と主張している側は、強制連行の話にあまり拘らないで、植民地支配になると従軍慰安婦のような人たちが出てくるんだと言った方がいいかも知れない。そして、「無かった」と言っている側は、植民地支配の影響に拘る必要はないかも知れない。そもそも同じことを「論争」したがっているのかと言うこと自体疑問です。双方とも何かを主張したいことははっきりしているわけですが、相手方と論点を合わせた上で、「論争」したいかどうか分かりません。」


慰安婦問題」は、単に主張が対立しているだけで、ちっとも「論争」ではないと言うのが仲正さんの見解であり、僕もそう思う。仲正さんは、「私に言わせると、「植民地支配の影響で従軍慰安婦になるような人たちが増えた」という論点と、「強制連行という明確なものは制度的になかった」というのは、別に矛盾しません。十分、両立する議論だと思うのですが……。」と語っている。対立でさえも、実は本当の対立ではないということだろうか。

なお、「従軍慰安婦」に関する「強制連行」の問題は、「(文字通りの意味での)強制連行はなかった」ということは事実として確認されているのではないかと思う。そして、これが宮台氏が語っていた「左翼の嘘」の内容なのではないかと思う。そして、この嘘は、決して歴史の本質に関わる「嘘」(=間違い)なのではなく、かなり末梢的な部分での間違いのようにも感じる。

「強制連行」がなかったからといって、「従軍慰安婦」の問題が無くなるわけではない。ここに間違いがあったとしても、これを必要以上に重要視するのは、逆の方向への行きすぎた間違いになるだろう。ただ、大衆動員という戦術においては、左翼は大きな間違いをしたと反省する必要はあるだろうと思う。

この「従軍慰安婦」問題からの教訓として、仲正さんは「自分の意見を多くの人に向かって「主張」することと、「論争」することは違う」ということをあげている。「論争」は「論」を戦わせるので、間違った「論」の間違いが明らかになり、正しい「論」が真理をもたらしてくれるような感じがする。しかし、「論争」ではないものからは、真理は得られない。「従軍慰安婦」問題の対立からは真理は得られないと思った方がいいのではないかと思う。

このような最初の設定の曖昧さは、解答が出ない「主張」の対立には見られるのではないかと思う。「南京大虐殺」を巡る左右対立などもそのようなものに見える。この場合の設定の曖昧さは、「大虐殺」という言葉に付随するものと、戦闘行為というものに対する判断や、戦時法という法律に関するものもあるのではないかと思う。また、これらは対立している双方が納得するような客観的な定義が出来ないのではないかとも感じる。

憲法9条を巡る「平和」と「安全保障」という対立の言説も、設定の曖昧さが、「論争」ではなく異なった主張の表明を生んでいるだけのような気がする。マトモな「論争」というのは、想像は出来るが、実際にはその可能性はあるのだろうかという気分にもなってくる。

仲正さんは本の中で、一見マトモな「論争」に見えるものが、実は全く「論争」などではないということも論じている。それは、真理を求めるものではないということを語っている。裁判における「論争」や、国会における「論争」、学問を巡る学者同士の「論争」など、これらは一見「論争」のように見える。しかし、本当は違うのだと言うことを仲正さんは分かりやすく説明する。この次は、このことを考えてみようと思う。そして、その結果として「論争」などというものは、やはりやるだけの価値のあるものじゃないという気分を確認することにしようかと思う。