「論争」なのか「主張」の違いなのか


楽天ブログの「実りのない論争」のmsk222さんのコメントの中で、「風力発電の是非」というものが語られていた。これが「是」であるか「非」であるかというのは、一見「論争」のように見える。しかし、これは対立した主張が語られているだけなのではないかと僕には見える。

「論争」と対立した「主張」の違いがどこにあると僕は見ているのか。それは、「論争」の場合は、あくまでも「論」の戦いであり、どちらの「論」が正しいかを巡る対話であるという見方をしている。そして、「論」というのを論理の流れ、すなわち推論の方に僕は見ている。

前提そのものの正しさ、あるいは結論そのものの正しさは、論理の流れである推論には直接の関わりはない。推論では、その前提を一応論理の出発点として認めれば、次の命題がそこから引き出されるかどうかという点にのみ注目する。もし、他の前提を必要とするような推論だったら、必要な前提を追加して、その前提のもとでなら結論が引き出せるかどうかを見るのが「論」の働きだと思っている。そして、そこに間違いがないかを争うことが「論争」であるというふうに僕は見ている。

論理的に導かれた結論は、それの正しさを直接問題にすることはまず無い。なぜなら、正しい論理で導かれた結論は、その前提の正しさが確認出来れば、論理の正しさが結論の正しさも保証するからである。それに、直接正しいことが証明できるのであれば、わざわざ論理の結論として導く必要もないのだ。

現実に見て確認出来ることはあまり論理の対象にならない。もう見ることの出来ない過去の事実や、これから起こる未来の出来事はそれが起こる前に確認することは出来ないから論理の対象になる。このようなものを考察の対象にするとき、論理の威力というものが発揮される。地球上に人類がいなかった時代があったということは誰も見ることが出来ない、つまり直接証明できないにもかかわらず、それを疑う人はほとんど一人もいない。これは論理によって証明されたからだ。

郵政民営化法案に多くの人が賛成したのは、それが未来の出来事であるにもかかわらず、郵貯簡保の持っている問題が解決されると論理的に受け取ったからだ。その論理は間違っていると僕は思うが、それを論理として受け取らなければ、直接証明できない未来のことについて正しいかどうかは判断できるはずがない。

論理にとって、結論の正しさを証明することは必要のないことであるが、それと同じように、前提の正しさも関心の外にあるということはあまり知られていないのではないかと思う。論理にとっての前提というのは、正しいかどうかは分からないが、とりあえず正しいと仮定して推論を進めていこうという、論理の出発点に過ぎない。それは、なぜかと言えば、推論にとって間違いかどうかを決定づけるのは、正しい前提から間違った結論が導かれるかどうかと言うことだからだ。前提が間違っている場合は、推論そのものに対しては何の影響もないのだ。

推論の正しさは、前提が正しい場合のみを考察すればいい。だから、論理にとっては、前提を置いたら、それは正しいものとして論理を進めていくのが論理の正しさを見ることになる。前提が正しいことを直接言うのは、論理と言うよりも「主張」と呼んだ方がふさわしいと僕は思う。

msk222さんが語っている論理は、

  「風力発電を建設する」→「我々の利益になる」

と仮言命題で表現できるのではないだろうか。この推論の流れに正当性があるかどうかという問題が重要ではないかと思う。これは、見ればすぐに分かるという論理の流れではなく、その間に細かい流れを確認しなければ、その正当性を証明することが難しいだろう。細かい流れの命題としては、

  • 風力発電はクリーンなエネルギーだ。
  • 建設工事などが地元への利益になる。

というものが加わって、前提が結論へとつながっていくかどうかが問われる。そして、前提となることを全て認めた場合に、結論が導かれることが説得的に証明されるなら、論理の流れとしては正しいと受け取らざるを得ないだろう。どんなにその結論に反対したくても結論を受け入れなければならない。

問題は前提の正しさということになるのだが、これは論理によっては決定できない。だから、論理の正しさを認めたからと言って、それで前提の正しさも認めなければならないという関係にはないのだ。

たとえば、前提の正しさを否定する要因として、自然の持つ景観を破壊するというものがあった場合、その条件を前提の中に含めるかどうかで、結論にいたる論理の流れが変わってくる。それを含めない論理の流れの正当性を認めたとしても、それを含んだときの論理は認められないと言うことは、論理としては普通に現れる現象で、これは論理を知っていれば誰でも同意できるケースもあり得る。

論理というのは、論理の世界だけでは完結したものだから、その世界の中だけで話している限りではほとんど全てが同意できるものになる。問題は、そこから少しでもはみ出したときは、完結したものではない「視点の違い」「見解の相違」が生じると言うことだ。

「景観を破壊する」かどうかは、無前提の時は論理的に証明することは出来ない。もし、「景観を破壊する」と言うことがどういうことであるかを定義して、そこに当てはまる事象のみを「景観を破壊する」と解釈して、そこに当てはまらない事象は「景観を破壊する」ように見えようとも、「景観を破壊する」と判断しないようにすれば、それは論理によって判断できるものになる。

論理というのは、これが正しいという前提を置いて、それ以外は正しくないものとして排除したときに、論理としての完結性・完全性をもっとも良く発揮する。それが出来なければ、多様な視点を認めて、論理としては両立しうる「見解の相違」であると認めなければならない。

「景観を破壊する」と言うことが、誰にでも賛成できるように客観的に定義できれば、その判断は論理的なものになる。それが出来ないときは、論理の問題にはならない。それが論理の問題に出来ないとき、「景観を破壊する」ということが正しいかどうかで争うのは、論理の問題ではないのだから、僕は「論争」ではないと思う。それは信念あるいはセンス(感覚)の問題になってしまうのではないだろうか。

論理の問題は、論理が分かる人間であれば正しい方向というものに賛同してもらえる。だから、そこにあるのはいかに説得するかという問題だけだ。だが、論理ではない問題は、信念やセンスに訴えなければならないので、いかにして感情に影響を与えるか、宮台氏的に表現すれば、いかにして感情のフックに引っかけるかという問題になってくる。

小泉さん以来の自民党中枢は、そのような技術に非常に長けているように思う。そして、この感情のフックに引っかけることに成功したとき、大衆動員で勝利をする。それは、民主主義社会においては多数を占めることになり、結果的に民主主義で勝利すると言うことになるのだろう。これは、論理的な勝利ではないから、民主的な決定が、必ずしも正しくないと言うことはたくさんあるだろうと思う。

msk222さんが提出した問題も、相手の論理の流れが正しいものであれば、論理としての正しさは認めなければならないだろう。だが、その前提に間違いがあったり、不足があるというのであれば、違う見解を提出すると言うことで反対をすることが出来るだろう。それは論理の流れを否定するのではなく、個別の事実に対して違う「主張」を述べると言うことになる。

結論に対しても、「我々」の中に、地元の人間だけを入れるのではなく、日本全国あるいは世界の人々、もっと抽象的には「人類」という対象にとってという意味での「我々」だという「主張」も出来るだろう。地元の人間にとっての利益になるという結論は正しくても、そのような人々の利益になるかどうかはまた別の話になるからだ。

ただ、最終的には、「風力発電の建設」という具体的な行動は、民主的に決定される。つまり、多数が賛成すれば建設の方向を取るようになるだろう。だから、これに反対する人間にとっては、いかにして多数者の賛同を得るかが問題になる。これは、論理の正しさと必ずしも一致しない。つまらない宣伝が功を奏する場合も十分あり得る。相手の欠点を必要以上にあげつらう卑怯な手が有効だったりもする。

正しくありたいと願う人々にとって、このような大衆動員の手段に自分の手を染めることにためらいを感じるのではないかと思う。厚顔無恥な人間でなければ、なかなかこのような手段をとることが出来ない。しかし、相手がこのような手段を用いて大衆動員に成功しているとき、このような手を使わなければ、民主主義的には負けることは必至だ。

リベラルの側が大衆動員において勝てないのは、このようなことが大きな理由なのではないかと感じる。教育基本法「改正」案を巡る対立に関しても、その法案の不備を突く論理的な批判があまり力を持たず、現在の教育が抱えている問題をセンセーショナルに宣伝をして、「とにかく教育基本法を変えなければ教育は変わらない」という気分を生み出すことに成功すれば、大衆動員的には、その法律の中身にかかわらず「改正」の方向へ世論を導くことが出来る。

世論は「改正」の方向を望んではいないという意見も多く聞くが、「改正」に対して積極的な「反対」をするほどの関心を呼び起こすことが出来なかったのは、リベラルの側の大衆動員の失敗ではないかと思う。この失敗の原因がどこにあるかは論理的に求めた方がいいだろう。相手が強かったからと言うのでは、強い相手には常に負け続けることになるだろう。

言っていることが正しいことは何となく分かるが、言っている奴が気に入らない、というような感情のフックがあったりしないかどうかは重大な問題ではないかと思う。カタカナの「サヨク」が嫌われる風潮があるとき、正しい主張であるにもかかわらず「サヨク」の主張だと見られたら、それだけで感情のロジックで否定される恐れもある。

msk222さんが語る「価値観の違った利点欠点を論じ合うことになった場合」というのは、そもそもの出発点に違いがある場合が多いのではないかと思う。だから、それはその出発点からの論理の流れを争う「論争」ではなく、出発点そのものの正しさを争う「主張」の違い、それは視点・立場の違いを反映したものになるのではないかと思う。そして、これは「論争」ではないので、どちらが正しいかが決定できない場合が多い。信念やセンスの争いになってしまうのではないかと思う。そして、常識的に現在の日本で多数を占める方が民主的には勝利することになるのではないか、と僕は思う。反対者が勝利するには、常識の方を変革していく必要があるだろう。