「論争」に勝つことの意味


仲正昌樹さんは、『ネット時代の反論述』の中で、マトモな「論争」のためにはディベート的なやり方をしなければならないと語っている。これには僕はちょっと違和感を感じている。たぶん、ディベートというものに対するイメージが食い違っているからだろうと思う。

仲正さんが語るディベートというのは、ルールが明確に決まっていて、そのルールに従って正しい裁定がされ、正しい論理にしたがって前提から結論が導かれ、しかも相手よりも説得力があると判断されたときに勝ちが宣言されるというものだ。

相手よりも説得力があるということは、相手の欠点を的確について、相手の論理を崩すと言うことでアピールすることもある。いずれにしてもマトモな論理展開をしている方が勝つというゲームになる。このようなディベートなら、僕も「論争」としては正しいと思う。

しかし、日本で「ディベート」という名で呼ばれているようなやりとりは、必ずしもこのようなイメージを持っていないような気がする。僕が持っているイメージというのは、何らかの結論を言いくるめるような「詭弁術」の訓練をするようなものという感じがしている。正しい論理を使って、自分の主張の正しさを証明するというよりも、いかに相手をくじいて、説得すると言うよりも騙しのテクニックを磨くと言うことが「ディベート」という名で呼ばれているように感じる。

これは、日本には「ディベート」というものの優れた審判がいないということも原因しているのかも知れない。だいたいディベートの勝利は、あくまでもゲームの勝利であって、主張の正しさの証明ではない。そもそもディベートという論理の訓練で争うのは、どちらかが正しいという主張ではなく、どちらが正しいか決定できないような主張を争う。よく見るのは、「死刑制度は是か非か」というようなものだっただろうか。

これは、ディベートが訓練である以上当然のことだと思う。もし、主張する内容として、どちらか正しいものが決定するのなら、ディベートというゲームをする前にすでに勝敗は決していることになる。マトモな論理さえ使えれば、正しい方がディベートで勝つに決まっている。正しい方が負けるのは、どこかで論理的なミスをしたからだと言わなければならないだろう。

ディベートは、どちらが正しいかは原理的に決定できない問題を扱うからこそ、その論理展開の善し悪しを判定することが出来るのだと思う。ディベートで、主張していることの正しさが証明されると受け取るとおかしくなると思う。日本ではどうもそのような勘違いがあるのではないかというのが、僕がディベートに対してあまりいいイメージを持っていない原因だ。

しかし、ディベートをあくまでもルールの厳格な論理の訓練として設定すれば、それは有効なものになるだろうと思う。日本においてそのようなディベートをするのはかなりの困難があるとは思うが。とにかく、ディベートにおいては、結論となる主張の正しさは関心の外にあるということが大事なことだ。それが正しいかどうかは決定できないが、ある前提を置けば、その結論が論理的必然として導かれるということを証明することがディベートの目的だ。そして、ゲームに勝つには、その証明に説得力がなければならない。

仲正さんは、「論争」をディベート的にやらなければならないと語っている。このことの意味は、「論争」においても証明されるのは、主張の正しさではないということだ。「論争」において証明されるのは、ある前提を置いたときに、その前提のもとでなら自分の主張が論理的に引き出せるということだ。しかし、その前提そのものの正しさは「論争」によっては証明されない。

ある前提から結論を導く論理そのものに間違いがあったりしたら問題外だが、その論理が一応マトモなものであれば、「論争」というのは、自分の前提を相手に同意させることが目的になり、自分の勝利となる。

論理というのはいくつかの論理法則に従っている。これを全く配慮せず、自分のセンス(感覚)で、ある意味では好き嫌いで結論を導くような相手とは「論争」にならない。これは、ディベートにおけるルールを無視しているようなものだから、始めからゲームとして成立していないことになる。だから、このような相手と「論争」するのはあきらめた方がいいだろう。

相手が一応論理法則に従っているときは、今度は説得力が問題になるのだが、これは大部分は、自分の前提を認めるための説得力になる。論理法則というのは、ある程度論理を扱う技術があれば、技術を持っている同士で同意するのは容易だ。問題は、前提となる事柄が、自分と同じ立場・観点で正しいと同意してもらえるかどうかということだ。

ディベートというゲームの場合は、建前上は審判は全くニュートラルなどちらの立場にも与しないと言う態度を堅持すると思う。だから、ある意味では客観的な意味での説得力という判断をするだろう。だが、ディベートというゲームではない、実際の「論争」においては、立場や視点が何もないということは考えられない。誰もが、ある特定の立場や視点を持って「論争」に入るのではないかと思われる。

このような場合、前提への同意を取り付けるのは、「論争」当事者にとってはかなり難しい。しかも、客観的な立場の審判もいないときは、「論争」の勝敗を裁定してくれるものもいない。このときに「論争」の勝敗を決定するのは何かといえば、仲正さんが指摘するように「力関係」というものになるのではないだろうか。そして、民主主義社会における「力関係」は、どのくらいの多数者が賛成するかにかかっている。

当然のことながら、少数者の主張は「力関係」によって「論争」に負ける。だがこれは本当の意味での「正しさ」がなかったことを意味するのではない。この負けを必要以上に深刻に受け止めると、絶望とニヒリズムに襲われてしまうが、「論争」の勝ち負けをディベートというゲームの勝ち負けと同程度だと受け止めれば、今は負けたけれど、この次のゲームでは勝てるように実力を上げようという気持ちも生まれてくる。

このような「力関係」で決まった「正しい答え」に関して仲正さんは次のように語っている。

「しかし、その「答え」がずっと“正しい”ままだとは限りません−−単純なヘーゲル主義者やマルクス主義者であれば、一度(見)出された「客観的な答え」は覆らないと信じているかも知れませんが、私は覆らないと言える根拠など無いと思っています。判決文によって「答え」が永久に固定されたわけではなく、一応これがこの場での“正義”だということにしておこうと暫定的に決めるのと同じことです。
 でも、それが分からないナイーブな人がいる。議論の結果、自分たちが社会的正義だと信じていたとおりの「答え」が出ないと、完全に絶望して机を叩き、「日本に正義はない」と言い出したりします。直接の利害関係者であれば、そう叫びたくなるのは分かりますが、必ずしもそうでない立場の人、正義感から論争に加わった人なら、全面的にあきらめてしまう必要はなく、「今度は、私たちの思っている方向に“正義”がシフトするよう頑張ろう」と言っておけばいいような気がするのですが、多くの人は、正義の通じない相手に対して、サヨク的に怒りを撒き散らしているうちに、だんだん動機までもがずれていきます。そして、第2章と第4章で話題にしているパターンに変わっていきます。むろんご当人は、ずれていると自覚しないので、ますます炎上していきます。」


「第2章と第4章で話題にしている」と語っているのは、「味方の方だけを向いてする論争」と「とにかく相手を潰すための論争」のことだ。これは、論争に負けているときに取る戦術としてはまずいやり方になるだろう。論争に負けているということは、「力関係」では相手の方が上だということだ。その時に味方の方だけを向いて訴えても、「力関係」が逆転することはない。また、「相手を潰そう」と無理な論理を使えば、屁理屈を言っているだけだと多数者からは見られて、論争の当事者である個人には精神的な打撃を与えられたとしても、単に溜飲を下げるだけで結果的には論争にますます負けることになるだろう。

このような論争の負け方をしていくと、仮説実験授業研究会の牧衷さんが語っていた「負け癖が付く」ということになるのではないかと思う。客観的な「力関係」が見えなくなって、自分の正義感を通すために、たとえ少数者であろうともとにかく大きな声で論争をしたがるようになる。牧さんは、長く社会運動に携わってきた人だが、運動というものは勝ち目がなければ取り組むものではない、と語っていた。勝てる要素をかぎつけたときが運動に取り組む「時」なのだとよく語っていた。

勝てる要素があるということは、「力関係」が変わって、自分の主張が多数者をしめる可能性があると判断できるときだ。そのような運動を重ねて、「勝ち癖」をつけなければならないとも語っていた。運動は「論争」そのものではないが、「論争」も勝てる「論争」だけをすると考えていればいいのではないかと思う。

「論争」の勝敗を決するのは、自分の持つ前提を相手が認めるかどうかにかかっている。そういう意味では、自分の前提を認めない相手とは「論争」しなければいいということになる。そういう相手には「見解の相違」がある。視点や立場が違うのである。そういう相手と話し合っても本当の「論争」にはならない。

「論争」というのは、仲正さんが語るように、消耗することが多いわりには実りが少ない行為だろうと思う。自分と視点や立場が違うために、自分には気に入らない結論を出している相手にツッコミを入れるよりも、自分と同じ視点を持っている人間の優れた言説に共感する方が実りが多いだろうと思う。それが本当に優れているものなら、やがてはそれが理解されて主流になるだろう、というのは数学系の楽観かも知れないが僕はそのような思いを抱いている。世の中の人間は、その程度の論理性は持っているものだという期待をしている。

教育基本法「改正」案が、「力関係」で通ってしまうような現在の状況を、日本社会の論理性を疑う要素だと感じる人もいるかも知れない。だが、これは何か特殊な状況があるために、そのようなことが起こるのだと僕は思っている。マトモな論理能力があれば通りそうもないものが「力関係」で通ってしまうという状況を作り出す、その「力関係」そのものこそが関心の対象になる。それは何か特殊な事情があるに違いないと思う。それを解明することの方が、「改正」案の欠陥を「論争」するよりも実りがあるのではないかと思う。