「労働」は義務か?


内田樹さんが、「創造的労働者の悲哀」というエントリーで、またまた反発を呼びそうな表現をしている。この反発は、おそらくその表現の内容よりも「書き方」に反応して起こるものだろうと思う。それがどのような文脈で語られているかを読みとらなければならない。しかし、次のような表現を自分の解釈で受け取ると反発を感じるかも知れない。

「労働は憲法に定められた国民の義務だから働け」
「「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まりなのである。」
「「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。
「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」」
ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」


これらの表現は、それだけを取り上げて受け取ると、年寄りの説教のように聞こえる。保守的なオヤジが、現在の社会の矛盾をそのままにして、自分たちの責任を棚上げにして若者を叱咤している説教のように聞こえてしまうかも知れない。

「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」という言い方が、高みから人を見下しているように感じる人もいたようだ。文章を切り取って解釈するという読み方が認められるなら、このような感想も仕方がないと思う。「言い方が悪い」という非難も出来るだろう。しかし、文章はその内容を読みとって評価すべきだという前提を置くと、どうもこの部分的な言葉に反応して感情的に反発するのは、思考があまりにも短絡的すぎるのではないかと思う。

上のような反発を呼びそうな表現に対して、その文脈から内容を理解すれば、僕はその全てに同意し共感することが出来る。それは、僕が内田さんに近いオヤジだから同じ視点・立場を持っているからというだけではない。この主張には、論理的な正当性があると主張できるから同意し共感することが出来るのだ。

まず「義務」ということをどう理解しているかが論理的な理解にとっては大事になる。これを「やらねばならない押しつけられたこと」というようなネガティブなイメージで捉えていれば、「労働は義務だ」と言われると、イヤなことを押しつけてくる説教のように聞こえるだろう。

「義務」というのは人間に生まれつき属している性質ではない。社会の中で生活するという条件の下に、社会の存続のための条件として一般的に語ることが出来るものだ。もし「労働」というものが義務でなかったらどうなるだろうか。それは、自由にやるかどうかを選択してもいいものになる。そして、全ての人が「労働」しないという選択をしたらどうなるか。その時はその社会は存続できなくなるだろう。人間は労働によって生産物を生み出さない限り生活を営んでいくことが出来ないからだ。

社会の存続のために必要不可欠なものが「労働」だ。そうであればそれは社会の中で生きている人間にとっては「義務」になるだろう。この「義務」を免れることが出来るのは、一つには物理的な条件で「労働」が出来ないということがある。たとえば「労働」をするには年をとりすぎたか若すぎるかどちらかであるとか、障害のために同じ種類の「労働」が出来ないとか言うことがあるだろう。もう一つは、「社会」の外に出てしまえば、社会存続のための「労働」の義務はなくなるかも知れない。

「労働は義務だ」と言うことは、社会との関係で抽象的に言えることであって、個別の具体的な「労働」(=仕事)に関して言うことではない。だから、この言葉を、自分ではイヤだと思っている「仕事」を押しつける説教だと受け取るのは、抽象性を読みとらなかった誤読ではないかと僕は思う。これが抽象的・一般的な意味を持っているという判断は、「人間はなぜ労働するのかということの意味それ自体が労働を通じてしか理解されないからである」と言うことを内田さんがヘーゲルを引いて説明していることからそう判断した。

「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」という言い方は、人間の評価は結果を見てするしかないのだという物理的な意味での真理を語っているだけだと思う。可能性だけで人間の評価を正しくすることは出来ないのだという論理を語っているだけだと思う。

僕は学生だった頃、自分が興味・関心を引かれない教科はほとんど勉強したことがなかった。教科書を読むのは学校の授業の時だけで、家に帰ってまで興味・関心のないことをする時間を作ろうとは思わなかった。その時に自分の中にあったのは、

   <勉強さえすれば、それは出来るようにはなる>

という仮言命題だった。今は勉強をしていないから出来ないが、勉強さえすれば出来るようにはなるだろうという、可能性を信じていた。だが、勉強していないので、当然結果的にはその時点では出来ない。だから、評価は出来ないという結果を基にして評価される。この評価に対して僕は不満を持ったことはなかった。実際結果的に出来ないのだから、その結果に対して評価されるのは仕方がないと思ったのだ。

このときに、自分には可能性があるのだから、その可能性を評価してくれという人間がいたら、何を甘いことを言っているのだと思っただろう。本当に評価してもらいたかったら、可能性を語る仮言命題ではなく、その可能性を現実化して結果を出して見ろといわれるのが当然だと思っていた。

「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」という言葉は、そのような評価というものの持つ普遍的原理を語っただけのものであって、相手の「程度」を低く見てバカにしているのではないのである。正しい評価をするためには結果を見なければならないと言う文脈で読むべき言葉なのだ。

ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」という言葉に関しては「末路」という言葉の響きが気になる人がいるのではないだろうか。「末路」と言われると何か悪い結果に結びついて非難されているように感じるかも知れない。

これは、「労働」というものを創造的なものであるとする理解が間違っているので、その間違いの結果として「ニートやフリーター」になるのであれば、「末路」という表現になるという文脈なのだと僕は理解している。

内田さんが語る「労働」は「義務」としての「労働」だ。そして、義務は社会的なものであり、この「労働」も社会的なものとして想定されている。個人にとって、具体的に意味を持ってくる「労働」なのではない。それは社会的な意味での「労働」なのだ。

社会的な意味での「労働」については、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんが、仮説実験授業の発想とともに語っていたことが正しいのではないかと僕は思う。それは、特別に能力のある人が、特別に実践できるものであってはならないと言うことだ。板倉さんは、教育実践の中での「授業」というものを、それまでの名人芸的なものが優れているという発想を書き換えた。

特別に優れた先生が、研鑽に研鑽を重ねてようやく出来る授業ではなく、仮説実験授業の原理を理解した普通の教師が、その原理に則って授業をすれば90%以上の確率で一定水準以上の授業が実現する、というものを作ることを目指した。社会的な職業というのは、特に優れた技術を持った人間だけが集まるのではなく、一定の資格を持った人間が大量に募集される。その最低水準さえクリアしていれば、社会の水準を下げなくて済むような仕事の内容でなければ、社会的な職業とは言えないという発想がある。

普通の教師が、普通に仕事をして、ひどく悪くはならないという水準を保つことが出来るというのが、社会的な職業の条件だ。非常に優れた教師が、日々努力を重ねなければすぐに悪くなってしまうような仕事は、社会的な職業としては成り立たない。普通の教師が普通に仕事をして悪くなるようであれば、それはその職業のシステムに問題があるのである。現在の学校のシステムが改善されなければならないのは、それが社会的な職業としての条件を失っていることを意味すると思う。

「労働」(=社会的な意味での仕事)は、創造的な営みではない。最低レベルの水準をクリアした人間が義務として行うものである。これが創造的な営みと結びついている幸運な人間もいるかも知れないが、それはごくわずかであって、大部分は最低レベルの技術を持っていれば、その職業がこなせるというものでなければならない。最低レベルの水準に達していない人間は、職業を変えた方がいいというだけのものだ。

僕の尊敬する三浦つとむさんは、職業としての「労働」は、鉄筆を握ってガリ切りをするという専門家だった。三浦さんは非常に技術の高い人だったようだ。一日のうちの半分を仕事に費やせば生活するには十分だったという。そして、残りの半分を「創造的な活動」である学問に費やした。三浦さんにとっての学問は仕事ではない。あくまでも自己実現のための創造的な活動だった。

学問を仕事に出来れば一石二鳥だと思う人がいるかもしれないが、これは必ずしもいいとは限らない。仕事という「労働」には、必ず創造的ではない部分が含まれているからだ。面倒なよけいな仕事が必ず入ってくる。このよけいな仕事を効率的にこなす技術を持っていれば、創造的な活動に費やす時間も作れるが、下手をするとよけいな仕事の方に一日の大部分を取られてしまう可能性もある。

板倉さんの専門の科学史では、金と暇があって余暇に好きなことをするというスタイルで研究していた最初の科学者たちはたいへん創造性が高かったという。しかし、大学に雇われるようになった職業的な科学者は、自分が好きな研究をするのではなく、雇われた大学から要求された研究をするようになるので、創造性という点ではかなり落ちてくると言うことを語っていた。板倉さん自身が創造性を発揮できたのも、国立教育研究所の要請と関係なく仮説実験授業の研究をしてきたからだとも言っていたようだ。

「労働」は義務であるから、社会の存続にとって必要なことをすることが第一義になる。自分が好きなことを好きなようにやるという創造性とは相容れない部分がどうしても存在する。だから、「労働」の中で創造性を発揮するのだと思っていたら、それに成功する人間は少ないだろう。内田さんが語るようにそれは「残念ながら、若い人に提供される就職口の中で、そのような条件を満たすものは1%もない」というのが正しいのではないかと思う。それにもかかわらず、「労働」を創造的なものだと思い込めば、「ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」ということになるのではないだろうか。

反発を感じそうな内田さんの言葉は、論理的な整合性を持って理解できる。感情的に反発を感じるのは仕方ない面もあるが、現実の正しい理解のためには、感情を越えて論理的な理解が出来なければならないのではないかと思う。