ポストモダン(後期近代)の理解から成熟社会の理解へ


ポストモダン」という言葉は、思想家によってその意味が微妙に違ってくる言葉なのではないだろうか。それは現代の特徴を指していることは確かなのだが、あまりにも抽象的な表現なので、何を抽象しているのかが分からないと、現実のイメージに引きずられてしまって、自分にとってこれが現実だと思えるものが「ポストモダン」のイメージに重なって理解されると言うことになるのではないだろうか。

またこの言葉は専門用語として流通しているところもあるので、ある種の専門知識なしに理解することが難しくなっている。たとえば「ポスト・モダン、その簡単な定義と提言」によれば、次のように説明されている。

「モダンとは則ち、機械文明下の近代社会における人間性の解体(脱・中世)として出発した思想であり、機能主義的な単純要素によって構成されていたのに対し、ポスト・モダンとは、あらゆる諸要素を複雑に重ね合わせ、過去の諸思想及び、諸作品等から引用することによって構成される、それ故、思想的な面においてはポスト構造主義と対応する思想である。」


この文章を一読して理解できる人は、かなりの専門的素養の持ち主ではないかと思う。ここでは表題では「簡単な定義」と書かれているが、これは決して理解が「簡単」だという意味ではない。説明すれば膨大な量の文章になるのだが、短い文章でまとめたという意味での「簡単」な定義になっている。つまり、この定義は、すでに「ポストモダン」を知っている人間が、その知っている内容を確認するために書かれたメモのようなものなのだ。

初学者にとって理解が困難なのはこのような「簡単さ」だ。上の「簡単な定義」を理解するためには、

「機械文明」「近代社会」「人間性」「解体」「機能主義」「単純要素」「あらゆる諸要素」「複雑に重ね合わせ」「過去の諸思想」「諸作品」「構成」「構造主義

というような言葉の理解を必要とする。これらを辞書的に理解しても上の文章の理解には到達しない。これらの言葉が、具体的に指している対象の具体的イメージが頭の中に浮かんだとき初めて、「簡単」な定義が理解できる。

人間性」というのは、人間が人間であるという本質を抽象したものという一般的・辞書的な理解をするだけでは足りない。近代において考えられていた、その時代に特有の「人間性」というものを知らなければ、上の文章の理解は出来ない。

この文章は、初学者に向けて書かれたものではないから、初学者にとっての難しさを批判しても仕方のないことかも知れない。だが、このようなものが「ポストモダン」の意味の全てだとしたら、それを知ることに何の意味があるだろうかという疑問はわいてくる。現代思想を研究している人間にとっては大事かも知れないが、現代を生きている人間にとっては、少しも理解できない概念だとしたら、それはどの程度の重要性を持っているのだろうか。

ポストモダン」という言葉を直接使ってはいないが、現代社会の特徴を「近代成熟期」と表現して、『世の中のルール』(ちくま文庫)という本で宮台真司氏が説明をしている。「近代成熟期」は「ポストモダン」とイコールではないかも知れないが、ともに現代を語る言葉として重なるところがあるだろう。そして宮台氏が語る「近代成熟期」は、難しい用語の知識を基礎にして説明するのではなく、現在生きている我々の感覚から抽象されるイメージを基礎にして説明されている。

現代社会を理解したいと願っている多くの人にとっては、宮台氏のような説明こそが求められているのだと思う。藤原和博さんと共同で書いたこの本が、「人生の教科書」として中学生を想定して、社会を構成する全ての人のために書かれたということを考えると、宮台氏のこの表現の仕方というものが頷けるものになる。

思想というものが現代社会において力を持たなくなったと言うことを、思想の専門家はもう一度考えた方がいいのではないかと思う。そして、啓蒙思想家としての宮台氏の凄さを、このような説明の仕方に僕は感じる。さらに、啓蒙思想家として宮台氏が分析した「丸山真男問題」のように、宮台氏自身の影響力というものがごくわずかのものにとどまるなら、「丸山真男問題」として提出されたものは、まだ日本では解決されていないのだなと感じる。

さて、宮台氏が語る「近代成熟期」というのは「近代過渡期」を経て実現されるものだが、この両者とも日本は経験しているだけに、自分の経験を抽象すれば理解できるという点が分かりやすい。

「近代過渡期」というのは高度経済成長の時代に相当する。この時代は、物の豊かさを目指して日本人全体が一丸となって働いた時代だった。その当時の現実は豊かさの不足であり、その不足を埋めるために努力するという動機が得られやすかった時代だ。

高度経済成長が達成されて、巷にはものがあふれる時代になると「近代過渡期」は終わりを告げる。そこではもはや、何かが欲しいという動機では人々は努力できなくなる。人々の元に一通りものが行き渡ると、その社会は「飽和した社会」と呼ばれるようになる。「この「飽和した社会」の到来が、近代成熟期の訪れ、すなわち「成熟社会化」の目印になるのです」と宮台氏は説明している。

このことを理解するのに、近代思想に関する予備知識は何も要らない。ものが行き渡った社会の状況や、そのものを買い換えるときの自分の動機などを考えて、それが必要だから買うのではなく、何で買っているのか自分でも分からなくなるという状況を、ガルブレイスが指摘した「人がものを欲しがる動機が当たり前のものでなくなった状況」だと理解すれば、「近代成熟期」が理解できる。

そしてこのことがもっとも大事なのだが、「近代成熟期」が理解できると、「近代成熟期」だからこのような社会現象が起きてくる、ということを論理的に理解できるようになる。抽象的な理論として社会学的な知見を理解することが出来るようになる。それは、自分がそのように感じているというセンスの問題ではなく、論理としてはっきりと確信できるという問題になる。全ての人が「近代成熟期」という概念を理解すれば、現代社会の持つ複雑さを理解する人が増えるのだ。これこそが、啓蒙思想家としての宮台氏の目的なのではないかと思う。

「近代成熟期」という状況から必然的に発生する現代社会の特徴として次のようなものを宮台氏は説明している。

「先進各国は70年前後に「成熟社会化」します。すると物の豊かさという国民目標が消えて、そこから先、何が幸いなのか、何が良きことなのかが、人それぞれに分化するようになります。人々がお互い何を思って生きているのか、よく分からなくなってきます。
 同じように、それまでは、頑張れば、自分も家族も会社も地域も国家も、みんな豊かになると言う「成長神話」が信じられましたが、資源の限界や環境の限界があらわになってくる70年代には、頑張れば報われるという未来の透明さもまた失われることになります。」

「またこの時期以降、コンピュータを使った生産の合理化、続いて流通の合理化や会社事務の合理化によって、人々が労働する時間が、短くなります。分かりやすく言えば、生活の中で「生産」よりも「消費」がしめる時間の割合が、圧倒的に大きくなるのです。
  (中略)
 人生の大半を占める労働時間を、一丸となって規律正しく働いていた時代が終わると、長い消費の時間をどうやって豊かに過ごすかが重要になります。しかし何が豊かさか、何が幸せかは人それぞれだから、個人的に試行錯誤して自分だけの幸せを見つけることが大切になります。」

「成熟社会化は、学校教育や家族にも大きな変化をもたらします。質の良い都市労働者を大量生産するために、集団規律と協調性を重視していた学校教育は、これ以降、自力で試行錯誤して幸せを見つける力を持つ人を送り出すことが目標になります。
 成熟社会化以降、重化学工業に加えてサービス産業が著しく発達するので、たとえばコンビニに象徴されるように、専業主婦が払ってきた家事育児の負担が軽くなると同時に、自分の人生を求めて、母親であっても職業を持ち続ける人たちが増えてきます。」


これらの現代社会の特徴が、「近代成熟期」という概念で全てが結びついて構造的に理解できるようになる。これは素晴らしいことだと思う。これらの現代社会の特徴は、それまでの伝統が壊れ、社会の秩序がなくなったように見えるので、宮台氏が言う「アノミー」を生む可能性がある。あまりにも急激な時代の変化についていけなくなった人々が、その変化を不安に思い、冷静な受け止めが出来なくなる。

だが、「近代成熟期」という概念を使えば、それらの変化を整合的に理解することが出来る。「アノミー」を起こさずに、変化に対する冷静な受け止めが行える「免疫」がつけられるという可能性を感じる。

宮台氏のこの文章は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という表題がつけられている章に書かれている。宮台氏は、この「なぜ」に答は無いという。つまり、「人を殺してはいけない」という正当な理由は無いというのだ。こんなことを言われると「アノミー」に陥りそうな人がいると思うが、今までの時代では、そんな理由を問うと言うことはなかったから誰も「アノミー」に陥らずにすんだという。だが、「近代成熟期」は、そのような問いが発せられる時代なのだ。

そして「「みんな仲良し」は殺し合いを勧めるメッセージだ」という判断にいたっては、それが理解できなければ、ますます「アノミー」に陥るのではないだろうか。「みんな仲良し」こそは、今までの日本社会でもっとも価値を持ってきたものではないかとも思えるからだ。それが否定されるのが「近代成熟期」なのである。

「成熟社会」と教育との関係について言えば、今まで教育の中で良しとされてきたものが否定されることが多い。「成熟社会」の理解なしに急激な教育現場の変化に対して「アノミー」を感じないですますことは難しいだろう。「成熟社会」の理解を経て、「アノミー」に対する免疫性をつけたいものだと思う。「成熟社会」にふさわしい教育の姿とはどういうものか、それをもっと深く考えたい。