「論争」の勝ち方


「論争」もどきではなく、一応マトモな「論争」の勝ち方のテクニックとして仲正さんは『ネット時代の反論述』の中でいくつか語っている。これはマトモな「論争」であるから、そこで使われる論理もマトモなものでなければならない。ということは、ある程度論理というものが分かっている人間にとっては、そこで使われている論理に一応は間違いが無いという確認があっての「論争」になる。

かなり複雑な論理になると、その論理展開で間違えるという可能性がないわけではないが、そういうものはふつうは「論争」にはならないのではないかと思う。それだけ複雑な論理展開を巡る「論争」は、よほどの専門家同士でなければ関心を持たない。だから、「論争」のように見えるやりとりが起こるのは、たいていが前提の違いや結論の違いから、意見の相違として「論争」の発端になるのではないかと思う。

このような「論争」においては、マトモな論理を使っている側は、自分の前提の基に論理を展開すれば、自分が提出している結論が出てくることを説得しようとする。そして、これは客観的な論理というものが理解できれば、誰もが同意するはずだと思っている。前提に同意できなくても、その前提を仮定した論理の流れは客観的に正しいことを示すことが出来ると思っている。

つまり、マトモな論理を使っている側からすると、どこが「論争」に値するかは分からないのだ。相手が間違って受け取っている、つまり前提が絶対に正しいという主張ではないということを示すだけで、その「論争」は終わりだと思っている。視点が違うために前提に同意できないのであれば仕方がないが、前提に同意できれば誰でも結論にも同意するだろうと言うことが「論」なのだ。

マトモな論理を使う人間は、「論争」においてはあくまでも論理の流れが正しいかどうかにしか関心がない。その時に、前提としての事実が間違っているとか、結論が間違っているとか言う指摘は、「論争」とは違う次元の指摘として受け取っている。このような問題は、視点・立場の問題、言葉の定義の問題などで一致するかどうかと言うことが重要になってくる。論理の流れとは関係のないいくつかの問題を検討しなければならない。

以上のようなことを考えると、マトモな論理を使っている人間にとっての「論争」の勝ち方というのは、相手の勘違いの部分を正すことが目的になる。もしうっかり自分の方の「論」に間違いがあることを発見したら、マトモな論理を使う人間は、これは「論争」をしてはならないだろう。それは自分が間違えているのだから、本当の「論争」をすれば負けるはずだからだ。負けるはずの「論争」を無理やり勝ちに引っ張るには、マトモな論理ではなく詭弁をうまく使わなければならない。これは論理が分かる人間には見破られてしまう。マトモな論理が使えるのだと自負している人間は、このような自殺行為はするべきではないと思う。

さて勘違いする相手はたいていがマトモな論理を使っていない。そういう人間は本当は「論争」の相手にしない方がいいのだが、どうしても相手にしなければならないとなったら、相手に無理な詭弁を使わせないような工夫をしなければならない。そのような詭弁の方の声が大きくなって、マトモな論理が押し殺されないようにしなければならない。「無理が通れば道理が引っ込む」というような状況を作らない工夫をしなければならないわけだ。

これに対しては、仲正さんは「土俵を選んで「論争」しろ」とアドバイスする。特に、素人がブログで「論争」するときは次のようなことに注意した方がいいという。

「ブログの場合は、誰でも参加できるし、テレビや雑誌に出ている著名人の方が必ずしも有利だとは限らないので、民主的だ、対等だと思われがちですが、実はまったく違います。誰のブログ上で“論争”するかがまず問題です。普段から当該のブログを見ている人の数にも影響されますし、オフライン上でつきあっている人たちを動員してこられたら、たまったものじゃありません。一対一の対決のつもりでやっているのに、外野がいろいろ書き込んできたりすることもあるからです。
 ブログでなくても、周りに第三者がたくさんいると、ずいぶん心理的に違ってきます。観衆が頷くだけでも、論争の行方が変わってしまうかも知れません。ですから、なるべくだったら、お互いに納得できるような中立的な土俵で、外野の数をなるべく制限することが必要でしょう。」


外野の数を制限した中立的な土俵でなければ「論争」などするものではないというアドバイスだ。相手の土俵でやったりすれば、詭弁で押しまくられて、声の大きさで勝ちが決まるような状況になったりもする。部外者の無責任な声がマトモな論理を駆逐するのは2チャンネルなどを見ているとよく分かる。中立的な土俵が見つかるときは「論争」をすることにも意味があるが、ほとんどは見つからないので「論争」はしない方がいいというのが仲正さんの真意ではないかと思う。

マトモな論理が使える人間は、そのマトモな論理の範囲では「論争」の余地はないと思った方がいいだろう。相手の勘違いを正すことが出来る土俵があれば「論争」らしきものをしてもいいが、感情のロジックで勘違いしている相手はたいていがそれを理解しない。だからほとんどは「論争」などしない方が賢明な選択だと言うことになると思う。

このほか仲正さんは「論点はなるべく自分の有利になるように設定する」と言うことも「論争」の勝ち方のテクニックとしてあげている。これは当然のことであって、少しも卑怯なことではない。何しろ、マトモな「論争」においては、自分の論点であれば(つまり自分が設定する前提であれば)自分が引き出した結論が正しいと言うことを説得することが目的だ。自分の前提でないこと、あるいは自分の前提が間違っているときのことは何の主張もしていないのだ。

論点を自分の有利になるように設定すると言うことは、自分の前提が正しいと仮定して、論理の流れを確かめるという「論争」をするということだ。そうでないような「論争」はしないということだ。前提そのものの正しさを証明するのは「論争」ではなく、ある視点からの「主張」というものになるだろう。だから、そういうものは、視点の違いを確認して、「見解の相違」だと言うことが確認出来れば「論争」にはならない。

また、相手の論理展開に自分が疑問を持っていたとしても、その論理展開の正しさが、客観的に判断できるものなら、これもわざわざ「論争」することはない。それは分かる人間には分かるから、わざわざ指摘して説得する必要はない。また、対立する相手にそれを分からせるのはかなり難しい。自分が説得するよりも、冷静になった相手が自らそれに気づくのを待った方がいいだろう。それほどの論理能力が期待できないときは、説得も無駄になる。論理が分かる人間は、他人の論理の間違いを指摘して、それに答えてもらうことには関心を持たないのではないかと思う。

著名な影響力のある人間が論理の間違いをしているときは、相手が答えるか答えないかなどには関係なく、それを指摘することに社会的な意味があると思えば「批判」を展開することはあるだろう。しかし、それは「批判」であって相手に答えてもらうことを期待しているのではない。「論争」をしたいのではないのである。

また、視点の違いから違う主張をするのは、厳密な意味で言えば「批判」ではないと思う。思考の方向として新たな選択肢を一つ提供したという感じになるのではないかと思う。

政府が提出した教育基本法「改正」案に対して、これが、現実の教育問題を解決する方向に働くと言うことが論理的な帰結として得られると主張するのなら、それに対して論理の流れとして間違っていると指摘するのは「批判」になるだろう。だが、この法案が、現実の教育問題には何の関心もなく、政府が教育において大事だと思っている理念を表明しただけのものだと受け取るなら、その理念とは違うものの方が大事だという違う視点を提出するのは、「批判」ではなくて、違う主張だと言うことになるだろう。

政府与党の方は、政治家として優れていると思われる河野太郎氏や加藤紘一氏でさえこの法案に対する関心が低いという。だから、現実の教育問題を解決するために出した法案ではないということは、政府与党内でさえもそう思っているのではないかと思う。だから、どれほど「批判」をしても聞く耳を持たないのだろう。ある意味では、この法案が通ることだけにしか与党は関心がないとも言われている。単に理念を提出しただけのものに過ぎないのではないかという感じだ。

この理念が多数による決定で民主的に成立したと言うことは、この理念に反対の人間もそれに縛られると言うことを意味する。これは困ったことではあるが、民主主義の欠陥として自覚しておく必要があるだろう。そして違う理念が多数の賛同を得るような努力をしていかなければならないと思う。

このほか仲正さんは「相手に先に答えさせる」などということもテクニックの一つとして紹介している。これは、論理としての正しさは自分の方にあると確信しているので、相手がどこを勘違いしているかを知るには、相手に答えさせてそれで判断した方がいいということだろうと思う。

自分が先に答えると、その答の末梢的な部分を拾われて論点がずれていくことがある。だが、相手に先に答えさせておけば、相手がずらそうとした論点を修正しながら、自分が論じていることの本質が何かと言うことを示すことが出来る。そして、マトモな論理が使える人間にとって、この種の「論争」で示したいことは、自分が何を論じているかというその本質を示すことだけなのだ。その正しさは、この本質を示した時点でほとんど終わっていると言ってもいい。

前提そのもの、あるいは結論そのものが違うという指摘は「論争」でない。それは視点が違うだけなのだ。それを論じるのが「論争」だと思っている人間は、「論争」に対する勘違いがある。「論争」というのは、実はその勝ち負けはほとんど客観的に決まっている。論理の流れがマトモであればそこには「論争」の余地はないのだ。

論理の前提の正しさに対する主張の違い、それが正しいか間違っているかという見解は、視点の違いを理解すれば「論争」することではないことも理解できる。その視点が妥当であるかどうかの判断は、教養の深さによって決まってくるだろう。深い教養の持ち主の、多様な視点を参考にして考えることが出来れば、その妥当性が間違いなく判断できるのではないかと思う。誰が深い教養を持っているのか、という判断が大事だ。宮台真司氏や内田樹さんは、深い教養を持っていると僕は思っている。その視点や判断を信頼している。だから、それを参考にして様々な現実的な対象の判断をしようとしている。そして、それを前提にして論理を展開しようとしているのだ。

いずれにしろ「論争」には実りがない。それが仲正さんの本当の主張であり、僕も同意するところだ。たとえ勝ったとしてもほとんど実りはない。