現行制度から利益を得るステイクホルダー(利害関係者)


現行制度に何らかの問題があって、それが原因で不都合が起きているとき、その不都合を解決するには制度そのものを変えなければならないと言うことが起きてくる。これは、不都合と言うことを感じなければ問題解決の動機も生まれてこない。まずは、どんな不都合があるかと言うことの認識が大切になる。そして不都合が確認されたとき、それを解決するための行動に出ると、大きな障害として立ちはだかるのが表題にあるような「現行制度から利益を得るステイクホルダー(利害関係者)」というものだ。

このステイクホルダーの例として分かりやすいものとして、マル激で神保哲生氏が語っていたのは、記者クラブという制度における大手メディアというものだった。記者クラブという制度が原因で起こる不都合というのは、公的な情報が独占されてしまうことだという。そのステイク・ホルダーにとって都合が悪い情報が流れてこないという問題が起きる。

公式発表では語られなかった政治家の言葉が、オフレコという形で記者クラブのメンバーだけには語られることがある。そして、それがどれほど重要な情報であっても、オフレコであれば記者クラブのメンバーである大手メディアが報道することはない。

もし記者クラブという制度がなければ、ジャーナリストとしてのセンスに優れている人間が、ある情報が見過ごされているが重要だと発見したら、それを多くの人に知らせるように努力するだろう。そして、それが本当に重要な情報であれば、多くの人から評価され歓迎されることにもなるだろう。

記者クラブという制度のステイク・ホルダーは、情報の独占という利益を崩された場合、本当のジャーナリスト・センスでの競争にさらされることになる。公式発表を垂れ流していればすんだ記者クラブのメンバーは、その中で安住していればジャーナリスト・センスが低レベルにとどまるのは必然ではないかと思う。そのような競争にさらされるというのも、大きな利害問題になるだろう。ステイクホルダーとしては利益が無くなるだけではなく、大きな損害も生じる恐れがある。

宮台氏に言わせれば、ジャーナリスト・センスのないジャーナリストなどは形容矛盾なのだから、退場してもらって他の仕事をした方がいいと言うことになる。僕も、社会的な職業として、最低レベルの技術を持たない人間は、その仕事には向いていないのだから他の仕事を探した方がいいと思う。記者クラブに疑問を持たず、権力が流す公的情報を垂れ流すだけのメディアなど、ジャーナリズムの仕事をしていると思わない方がいいと思う。

記者クラブという制度の問題は、ジャーナリストにとって困ると言うだけではなく、本来のジャーナリズムからの報道ではない情報があふれるという現実が、一般の我々にとっても問題だと感じるセンスも必要だろう。長野県において記者クラブ制度を廃止した田中康夫さんの先見の明を評価しなければならないだろう。

記者クラブ制度におけるステイクホルダーの問題は、第三者的に見ることが出来るので僕にとっても分かりやすい。しかし、現行教育制度におけるステイクホルダーとしての教員組合という問題は、自分がその中にいるだけに客観的な理解が出来るかどうかが心配だ。

マル激のゲストの鈴木寛氏によれば、今の教育の問題のもっとも大きなものは、「たらい回し現象」が見られて、どこも責任を取るところがないということだという。ある人が、学校の中でいじめが行われているとか、教師が変だ(体罰をしているとか、偏向教育をしているとか)と思ったときに、どこかに訴えても、それを受け止める責任を持つ人間がどこにもいなくなると言う。

それは問題が深刻であればあるほど、訴えた相手に判断をするだけの権限が与えられていないことが多いという。まずは一番身近の子どもの担任に訴えても、問題によっては担任の判断だけでは処理できない場合がある。その時は、問題によって、学年主任・教頭・校長へと進み、ここでも責任が取れない場合は、地方教育委員会から最後は文部科学省へと進む。しかし、最後の文部科学省が、「それは地方にまかせている」と答えると、訴えはそこで循環して最終到着地点が無くなってしまう。誰も責任を取らなくなる。

鈴木氏に言わせると、私立学校では最終責任は校長で止まるという。校長が問題の解決が出来るかどうかは、その問題によるが、責任の所在は最終的には校長にあり、校長がどこかよそに責任を回すことは出来ないと言う。しかし、公立学校では責任がたらい回しにされて、結果的に誰も責任を取らなくなるという。

問題の責任を取らなくてすむというのは、ある意味では制度から得られる利益だと言ってもいいだろう。この問題の解決には、制度そのものの変革が必要だと言うことで、鈴木氏はコミュニティ・スクールの構想などを提出してきたそうだ。責任の最終到着点を地方の教育機関に持っていこうという発想だ。居住地域の狭い範囲の学校理事会というものを設定することを提案していたようだ。そこが、具体的な学校の問題を判断する責任を負うと言うことだ。

ある学校が、いじめや暴力の問題などで特にたいへんだと言うことが地域で理解されれば、そこの学校に教員を多く配置したりとか、特にそのような問題に優れた実績を持った教員を配置するとか、人事に関わる決定も理事会が要求できるようにしようと言うものだった。今は狭い地域には人事の決定権はない。都道府県という大きな単位の教育委員会が人事権を持っている。

鈴木氏が変革しようとしている制度を支えているのは、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」と言う法律らしい。鈴木氏は、この法律の改正こそが現実の教育問題の解決に結びつくものだと語っていた。教育基本法を「改正」しても、現実の問題の解決にはならないが、この法律を変えれば大きな意味があるという。教育基本法の改正も、この法律の変革につながるような改正ならば意味があるという。

この法律に支えられる制度に関してステイクホルダーとなっているのは、まず一番大きな所は文部科学省という行政権力であって、この利権を手放したくない文部科学省は強い抵抗をしているそうだ。この法律の改革につながらないように、教育基本法「改正」も「愛国心」の問題が一番重要だと装ったのではないかということも神保氏などが語っていた。

鈴木氏に言わせると、この教育制度の下では、教員組合もステイクホルダーの一部をなすという。表面的には対立しているように見える、行政権力の側の文部科学省と教員組合が、ステイクホルダーとして利益を守るためにある種の談合をしている55年体制が教育制度の下では未だに続いているという。これの意味を当事者としての僕が正確に把握するのはかなり難しい。

僕は組合員個人には信頼を置いているが、組合という組織そのものにはあまり信頼を置いていない。それは、以前に養護学校にいたときに、生徒への体罰を一掃するという方針に大いに共感して質問をしたときの落胆が原因している。体罰というのは、普通は教育的効果を持ったものとして受け止められている。そして確かにそのようなときもごくわずかだがある。

だが、大部分の体罰というのは、教員の恣意的な判断で行われる暴力に過ぎない。そこには深い教育的配慮などは存在しない。ごくわずかな教育的な「体罰」があるために、大部分の単なる暴力が見過ごされるのは問題だと感じていた。ごくわずかの効果ある体罰を制限してでも、大部分の暴力を防ぐべきだと感じていた。

だから、組合の定期大会で、どのような方法で体罰の一掃をするのかを質問した。しかし、僕の質問には全く答がなかった。その時に感じたのは、「体罰の一掃」というのは、言葉だけのスローガンだったのだなと言うことだ。それは当時話題になった「体罰の害」に応えるにはちょうどいいスローガンだったが、どうやって一掃したらいいのか、具体的な方針はなかったのだろうと思う。

先日聞いたマル激では、宮台氏が、犯罪的な暴力には生徒・教師の違いにかかわらず警察権力を介入させるべきだと語っていた。もしそのようなことをしていたら、犯罪的な暴力である体罰は一掃されていただろうと思う。組合というのは、個人は具体的な活動を見ているので大きな信頼感を持てるが、組織は単にスローガンだけの見せかけの活動しかしないときもあるので僕は信用していない。

さて、その組織としての組合を考えると、これが現行教育制度においてステイクホルダーになっているというのは、どのような制度で利益を得ているのだろうか。鈴木氏が指摘する、責任を取らない体制というのは大きなものではないかと思う。教育というのは難しい活動である。時には、何もしないことの方がいい結果を生んだりする。何かをしてもそれが必ずいいことになるとは限らない。

自分の活動にどれだけ責任を負うかというのは、簡単に結論を出せる問題ではない。しかし、この責任を自覚しなければ、教育活動の技術は向上しないと言うことがあるので正確な判断が大切になる。だが、現行制度の下では、上から指令されたことに一応したがっていれば、教師個人には責任がないことになる。だが、これは教師であれば誰でも適用できるので、特に組合という組織についての利害関係ではなくなる。

組合という組織は、とりあえずは経済的利益を守ることを目的としている。その関係で、教員個人の身分その他を守ることも目的としている。このあたりに、ステイクホルダーとしての利害が大きく絡んでくるのだろうか。

鈴木氏は、教育予算に関して、それが日本で低い比率であることを問題にしていた。そして、現行教育制度においては教育予算の枠を広げないような談合が行われていて、それによって道路予算のような公共事業の予算が削られない仕組みが出来ているという。ここには大きな利害関係があって、ステイクホルダーとしての談合が行われているという。

だが、教育予算というのは、それが増えた方が文部科学省にとっても教員組合にとってもいいのではないかとも思える。それを抑えてでも、現行制度を維持する方が利益が大きいという判断があるのだろうか。このあたりのことはまだよく分からない。記者クラブ制度というものが、そのステイク・ホルダーである大手メディアにとって利益であり、一般国民にとっては不利益であることは分かりやすい。制度の問題がはっきりと出ているように感じる。しかし、現行教育制度と、教員組合がステイクホルダーであるという関係はわかりにくい。それが良く理解できるような材料を探し求めたいと思う。