成熟社会にふさわしい教育とは


宮台真司氏によれば、現在の日本は近代成熟期になった成熟社会だという。近代成熟期に入る前は、近代過渡期と呼ばれ、ここでは「急激な重化学工業化と都市化の時代」が特徴で、「国民はみな仲間だ」という国民意識が支配していたという社会構造を持っていた。この近代過渡期が終わり、近代成熟期を迎えたと言うことは、社会の構造が変わったと言うことを意味し、その構造に合わせて意識を変え、教育を変えていかなければ社会の秩序というものが保てなくなると言う恐れが出てくる。

自民党が提出した教育基本法「改正」案の背景には、戦後の民主主義教育が教育を荒廃させ、日本社会を悪くさせたという思いがあるようだ。そして、それを支えた諸悪の根元が日教組であり、日教組の支えになったのが教育基本法であると言うことで、これを変えることが自民党保守層の悲願であったと言われている。

しかし、何かが悪くて教育が荒廃したと言うよりも、近代過渡期から近代成熟期へ向かった社会の変化に対して、教育の方がその変化に付いていけなかったことが結果的に荒廃を招いたと理解する方が正しいのではないかと思う。なぜなら、近代過渡期における日本の経済成長などを見ると、その時代においては日本の教育は時代に合った人材を生み出しており、少しも荒廃を生んでいないように見えるからだ。

近代過渡期にふさわしかった教育がどのようなものであり、それがどの点で近代成熟期にはふさわしくなくなったのかを、『世の中のルール』(ちくま文庫)という本の中の宮台氏の「なぜ人を殺してはいけないのか」という文章から学び取りたいと思う。そして、その理解を元に、近代成熟期という成熟社会にふさわしい教育というものを考えたい。

近代学校教育のモデルは軍隊と監獄にあると宮台氏は語る。つまり、近代過渡期にふさわしかった教育は、本質的に軍隊と監獄と共通点を持っていると言うことだ。これは、かつてその教育を受けた自分の感覚とも良く一致する。僕は、軍隊と監獄を基礎にした教育は嫌いだったが、近代過渡期を支える人材を輩出するという点で、これを第三者的に眺めてみれば、個人的な嫌悪感があるにもかかわらず、それが存在したという合理性は理解できる。この教育は、近代過渡期にはまさにふさわしかったものだったのだ。

近代過渡期の教育の目的の第一のものは「都市労働者を養成する」ことにあると宮台氏は指摘する。都市労働者というのは、「伝統社会と違って雨が降ろうが槍が降ろうが時間通り出社し、規律正しい集団行動で安価な良質品を大量に生産する競争に加わる」という人々を指す。このような特徴を持った人々を養成するには、まさに軍隊と監獄の特徴を利用することが有効だと言うことは合理的だ。

軍隊と監獄のイメージを良く実感させるのに学校教育における体育の授業がある。宮台氏は次のように書いている。

「学校の準備体操では整列!気を付け!前へ倣え!休め!とやる。これは準備体操にとって必要はありません。では何のためか?号令一下、規律正しく集合的に行動する習慣をつけるためです。むろん軍事教練からの借り物で、体育実技の大半は軍事教練ルーツです。」


これは、学校教育というものを研究している人間にとっての常識ではないかと思う。だから、軍国主義教育に本当に反対するなら、学校における体育の内容に反対する必要があったのだが、日教組の活動でもそのようなものがあったというのを聞かない。それは、この時代にあってはそのような教育が時代の要請に合ったものだったからだろうと思う。今は、それが時代の要請に合わなくなってきて、軍国主義教育であることが見えやすくなってきたのだが、時代にふさわしいものの欠点を見て、それに反対することは難しかったのだろうと思う。

このような教育で、都市労働者にふさわしい資質を作られた人々は、教育の第二の目的である「人材の選別と動機付け」によって、その能力にふさわしい仕事に就くようになる。「人材の選別と動機付け」に道徳的な感情を持つと、その客観的な存在の意味を取り違える恐れがあるが、これは社会的な教育の機能として、これからは時代を超えて存在するものではないかとも感じる。「選別」が気に入らないと言う感情を持っても、それなしには社会的な職業が成立しなくなるだろうから、この機能を全て否定することは出来ないだろう。

近代過渡期以前の時代には、人々は生まれながらにその人生が決まっていることが多かっただろう。教育も、親の世代を受け継ぐためのものだっただろうと思う。それが、時代の要請によって多くの人材を集中させなければならない職業が生まれ、その職業にふさわしい技能を持った人間を養成し、動機づけるために「教育」という社会的な機能が生まれたと考えることが合理的だ。

軍隊と監獄には自由がないので、自由を希望する人間にとってはつらい教育になる。僕にとって学校教育があまりいいイメージがないのは、僕が青春時代を生きた1970年代というのは、自由が肥大して価値を持った時代だったからではないかと思う。自由の観念は社会にあふれていたのに、社会はまだ自由を享受するほどの成熟を見せていなかった。だから、自由を熱望するほど現実には自由がなかったので、学校教育はまさに軍隊と監獄のイメージと重なったのだと思う。

自由をあまり意識しなかった人は、この時代の教育でも、元々つらさを感じる原因を知らなかったので耐えることがたやすかったと言うことがあるだろう。それに加えて、この「伝統社会にない苦役」を耐えさせたのは、「近代過渡期独特の「社会の透明さ」と「未来の輝き」です」と宮台氏は語る。「頑張れば自分も家族も会社も地域も国家も、全部豊かになり、みな幸せになる」という意識が、この時代の教育を荒廃させなかったと解釈しているようだ。

実際に、日本の高度経済成長というものを見てみると、この意識通りに「自分も家族も会社も地域も国家も、全部豊かに」なったように思う。そしてそのことを誰もが幸せだと感じていた。結果として、自由を奪う強い押しつけの教育であっても、その時代にはふさわしいものとして受け入れられていたのだと思う。

先駆的な意識を持った人間は、この時代にあってもそのような教育を強く拒否していたのではないかと思う。内申書裁判で有名になった、衆議院議員保坂展人さんなどはそのような先駆者ではないかと思う。そして保坂さんが先駆者であったと言うことは、このような教育がやがて時代にそぐわなくなり、むしろ時代に逆行する、それを無理に押し進めようとすればその矛盾が抑えきれなくなるような教育になってきたと解釈できるのではないかと思う。

近代成熟期にはいると、物が豊かになり、長時間労働をしなくてもすむようになる。労働だけが生き甲斐だという意識を持たずに、余暇を自由に楽しむと言うことが重要になってくる。つまり、「自由」という意識が非常に大切なものになってくる。そうなれば、旧態依然とした軍隊と監獄を手本にした学校教育は、耐えられない「苦役」と感じられる方が当たり前になるのではないだろうか。

さらに、近代成熟期には、国民的な目的が消失し、なにが幸せなのかが分化して人それぞれになると言う。努力が報われると言うことが信じられなくなり、「苦役」に耐えるという動機が失われる。かつては時代にふさわしかった教育が、時代の変化に付いていけなくなり、全く時代にそぐわない教育になっていくと言うことが読みとれるのではないかと思う。

これに加えて、教育が荒廃する要素として、学習という行為が持つ本質からそのような現象が導き出されるように感じる。次の宮台氏の指摘は実に鋭い点をついているように感じる。

「教育とは知識や価値の「伝達」だと考えられがちですが、伝達という事態は理論的には存在しません。子どもは一個の人格システムとして環境から「学習」するだけです。環境には知識や価値を伝達したがる大人も、口でうまいことを言って抜け駆けする大人もいます。
 昔のように知識や価値の「伝達」を試みても、環境が変われば、当然うまく行かなくなります。子どもは自分の生存に好都合なことを、環境の全体を見渡して学習するからです。子どもたちの置かれる周辺の環境の中には、子ども同士の関係も、メディアを通じて得られる情報も、含まれます。」


現代の大人たちが、昔の価値を守って生きていても、そのような人々の方がむしろ「負け組」になり、「抜け駆けする」大人の方が「勝ち組」になるとすれば、子どもはどのような学習をする方が合理的だと考えられるか。教育の荒廃を嘆く前に、大人が環境を荒廃させた方を反省する方が先ではないかとも思える。

現代日本社会は、市民社会の原則を持たず、経済的な利益になることが優先されるという社会になっている。全ての価値が金儲けに還元されるというのが、今の子どもが生きている社会環境ではないかと思う。ジャーナリズムは、市民にとって重要な事実を報道するのではなく、俗情に媚びるようなセンセーショナルな「面白い」ニュースの方が金になるという基準で報道される。そのような毎日を過ごす子どもたちがどのような学習をしているかを考えなければならないだろう。

普通の子どもたちの多くが学校教育を拒否したくなっているというのは、今の教育が今の時代に全くそぐわないと言うことを意味しているのだろうと思う。だから、教育の荒廃を本当に解決するには、教育の仕組みそのものを変えるという、制度改革が必要になる。

宮台氏はその内容として、「「知識や価値の伝達」から「承認を通じた試行錯誤への動機づけ」への目標変更」と「「一斉カリキュラム制」から「個人カリキュラム制」への手段変項」という二つをあげている。これは、今のところいずれも実現していない。まだまだ教育の荒廃という現象は変わらないように見えるので、今の改革では末梢的な部分の改善しかできていないと言えるのではないかと思う。このような根本的な改革に踏み込めるかどうかは、優れた政治家の決断によるか、市民社会の成長によって我々がこれを要請するしかない。

いずれにしても、今までの教育の大枠を変えずに、末梢的な部分の改善では教育の荒廃は止まらないと思う。それは、教員の資質の向上や、親の教育への関与を増やすというような意識変更のような個人的な努力では解決できない問題だ。社会という大きな単位の問題として考えなければこの解決は得られないだろう。宮台氏の抽象的な提起を具体化させる方向にはどのようなものがあるか、鈴木寛氏の話などからそれを考えていきたいと思う。