言葉の定義とそれを基にした思考


「2006年12月24日 バックラッシュの奥に潜むものと丸山真男」というエントリーのコメント欄に pantheran-onca さんという方から

「はじめまして。参考までに。谷沢永一氏の著書によると、丸山眞男は50歳前後からほとんど仕事をしなくなったそうです。その原因は、初期の業績において、丸山が戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定したことにより、取り返しがつかなくなってしまったことにあるとしています。

ドイツやイタリアは民主的選挙によって選ばれた権力者に対し、議会が全権を委任してしまいました。しかし、日本の場合は翼賛選挙とは言うものの、非翼賛議員も何人も当選しており、しかも、首相が何人も入れ替わっています。ヒトラームッソリーニのような独裁者を日本にもそのまま当てはめたことで、彼の業績は致命傷を得たということらしいです。」


と言うコメントをもらった。僕は丸山眞男についてはあまり詳しくないのだが、このコメントで語られているような発想は、論理的に考えると面白い面を持っていると思った。以下それを考察したいと思う。

論理の展開というのは、ある前提を置いたときに、その前提から推論によって導かれるものを鎖のようにつなげていく。そして、その鎖のつながり方が、論理的に正当性を持っていれば、結論が導かれることの正当性も得られる。結果として、前提の正しさを認めるならば結論の正しさも認められるという論理の展開が見つかる。

その前提の一つになるのが言葉の定義になる。現実に関する主張が正しいことを示す場合、その出発点となる前提は一つの事実である場合が多いが、その判断を考えるときにもやはり言葉の定義というものが深く関わってくる。言葉の定義を間違えていても論理的には正しいと言うことはいくらでもあり得る。その場合は、間違えた言葉の定義を、新たな定義として公理的に扱えば論理的には何も問題はない。言葉の定義から感じられる常識という感覚に違和感が生じるだけのことだ。

逆に言えば、言葉の定義を正しく設定しても、論理的な推論において間違えていれば、それは結論の正しさを少しも保証しなくなる。結論が正しいか正しくないかは、その論証ではどちらとも言えなくなってしまう。言葉の定義が常識的に見て妥当だと思われると言うだけで、その言説が正しいと信じるわけにはいかない。詭弁である場合も多いだろうと思う。

三浦つとむさんは、言語というものを人間が行うコミュニケーションの伝達の場面で見られる物理的現象として捉えた。外見的には、音声であったり、文字であったり、何らかの物理的実体を持っている。そして、それが物理的実体だけではなく「意味」という特殊な属性を持っている「表現」であると言うことを本質として定義した。言語の背後には必ずその言語を「表現」した人間の認識があって、それが「意味」を支えていると考えた。

三浦さんのこの定義によれば、物理的実体としての表現が少しもないソシュール的な「内言」というものは言語ではないという言い方が正しくなる。これは、三浦さんが定義する前提から導かれる論理的な帰結だ。しかし三浦さんのような定義を前提にしていなければ、「内言」という判断が間違っているとは主張できなくなる。これは、ソシュール的な言語の定義をすれば、それが言語であるという主張の方こそが正しい結論になってくるだろう。

どちらの定義が妥当かという問題があって、シカゴ・ブルースさんの一連の「ソシュール言語学とは何か」というエントリーは、そのあたりを考察したもののように感じる。これに対しては、三浦さんの言語の定義を基礎にした考察としては、僕は全く異論はない。だが、ソシュール的な言語の定義も、一つの視点として成立しうるのではないかという相対的なものの見方をするのが、僕の論理としての観点と言うことになるだろうか。

論理としては、ソシュール的な定義を前提としても整合的に展開することが出来ると僕は考えている。そして、多くの人がそのような論理を受け入れて現実を考察したと言うことは、ソシュールが現実の構造の一面を鋭く・正確に捉えていたと言うことを意味しているのではないかと感じている。それは、三浦さんの視点からは抜け落ちてしまう一面ではないかと思う。三浦さんの理論がいくら優れていても、現実の全ての面を捉えることは不可能だ。抜け落ちているところはあるはずで、そこを正しく捉えている理論があったとしてもおかしくない。

言葉の定義に拘って理論の全体像を見ないのは、その意義を間違って受け取るのではないかと思うところもある。それで、僕はソシュールに対する関心としては、ソシュールがいったい何を解明しようとしたのか、現実の言語の側面としてどのような構造を把握しようとしたのか、またどのように正しく把握したのかと言うことを知りたいと思っている。正しく把握したからこそ多くの人がそれを支持したのだと思うからだ。

後に批判されるようになったのは、正しく把握した面を、限界を超えて展開しすぎたからではないかとも感じる。真理は、その条件の限界を超えれば誤謬に転化するというのは、三浦さんが多くの先駆者(ディーツゲン、マルクスエンゲルスなど)から引き継いだ優れた知見だと思う。

ソシュールや三浦さんのように優れた知性の持ち主であっても、論理の出発点である定義が違えばまったく違う主張を展開することになる。ましてや、普通の知性の持ち主である我々は、定義の違いに気づかずに違う論理を展開していることはたくさんあるだろう。自分の方に、論理の流れである推論そのものには妥当性があることが確かめられると、対立した主張が両立しうると言うことに気づかずに、相手の主張が間違いのように見えてくる。

pantheran-onca さんがコメントで語っていることも、僕には「ファシズム」という言葉の定義を巡る問題を整理しないと、正しさがどこにあるかを勘違いするのではないかと思えた。「丸山が戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定した」と言うことを、丸山が定義した「ファシズム」という意味で理解しているであろうか。

ファシズム」という言葉は、考察を進める人間によって微妙に定義・概念が違ってきているように感じる。これを、丸山が考えたように、丸山の頭の中にあるイメージと概念を正確に把握して、その上で丸山の主張を受け取っているかと言うことが重要だ。これが、もしも自分が抱いている「ファシズム」と違うものであれば、「戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定」するという結論が違うものになる可能性がある。そして、それはその前提から考えれば、論理的には整合性を持って反対の結論を導くことも出来るのだ。

丸山がどのような意味で「ファシズム」という言葉を使っているのか、詳しいことは僕には分からない。これから調べてみようかという興味はわいている。そして、普通に使われている「ファシズム」という言葉の意味についても調べてみようかという関心も高くなった。何かを勉強しようという動機や意欲は、こういうきっかけから生まれるものかも知れない。いわゆる問題意識というものだ。どこかに問題があることを発見すると、その問題を解決するための学習の動機が生まれてくる。

丸山が使う「ファシズム」という言葉の定義が、それまでの常識に反したもので「非常識」だという批判はあまり建設的なものにはならないだろう。丸山が考察した視点が、それまでに見つけられていなかった全く新しいものであれば、古い言葉の定義ではそれを正しく表現できないと思われるからだ。その時は、何か新しい言葉で語らなければならない。全く新しい言葉を作り出すか、それまでの言葉に新しい意味を与えるしかなくなる。

問題は、丸山が与えた言葉の定義によって、現実の日本社会を分析したときに、それが深いところまで本質を語ることが出来ているかではないかと思う。もしそれが出来ているならば、丸山は優れた仕事をしたのであり、尊敬するに値する知識人の一人だったと評価できるのだと思う。問題は、丸山が、正しく現実を捉えてそれを理論化していたかどうかと言うことだ。それは言葉の定義が違うと言うこととは違う問題になる。

ヒトラームッソリーニのような独裁者を日本にもそのまま当てはめた」と言うことは、言葉の定義ではなくて、分析の内容として評価できることになるだろう。もしこのことが正しければ、丸山は批判されても仕方がないかも知れない。だが、当時の最高の知識人であった丸山が、このようにすぐに欠陥が分かるような単純な間違いをしていたと言うことは、どうも僕には信じられない。そのような人間が、どうして当時最高の知識人として尊敬されるだろうか。当時の人間はみんなバカだったと考えた方がいいと言うことになるのだろうか。

古い時代の人間を、現在の視点から眺めた場合に、新しく発見された真理を知らなかったという面が見えてきて、その点でひどく劣った存在のように見えることがある。三浦さんは、アンデルセンが好きで、現在の視点からアンデルセンの差別的な面を見るのは、あまりにも厳しすぎるので大目に見て欲しいというようなことをどこかで書いていた。当時の常識からすれば、知らなかったことがあって当然で、それをもってアンデルセンの芸術家としての優れた面を否定することは出来ないと言うことだ。

板倉さんは、科学史の上で創造性の優れた科学者を多く紹介しているが、それは、当時の限られた知識の中で斬新な発想で科学を切り開いたという面を高く評価している。今の視点から、丸山に批判されるべき点が見つけられたとしても、それをもって当時の社会状況の中で丸山が考察した斬新で創造的な理論の価値が落ちることはないと思う。丸山評価としては、どこが間違っていたかよりも、当時としてはどこが新しい視点だったのかという面を僕は見たいと思う。宮台真司氏が評価する面もそのようなところではないかと思う。

丸山にも間違いはあるだろう。人間である以上一般的な意味での誤謬からは逃れられない。だからそれはあまり大した問題ではないと思う。問題は、丸山が前提としたことから、丸山が引き出した結論は、論理的に整合性を持ったものであるのか、当時の常識の中ではなかなか発見できない斬新な創造性豊かなものであったのかということを知ることだ。これが否定的に評価されるものであれば、丸山は過去の遺物として忘れられても仕方がないだろう。だがそうでなければ、丸山に対するリスペクト(尊敬)は、歴史上の偉人として持ち続けたいと思う。特に、宮台氏が肯定的に高く評価する人物だけに、その本当に優れた面を発見したいものだと思う。