誰が真の「愛国者」なのか


「改正」された教育基本法では、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」「態度を養う」という文言が入っており、これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られている。この法案反対の気分としては、「愛国心」そのものに反対するのではなく、その「押しつけ」に反対するというものの方が大きいのではないかと思う。

愛国心」という概念そのものが嫌いだという人もいるかも知れないが、それは、その概念の中に不当なものが入り込んでいる「愛国心」のイメージではないかと思う。たいていの人は、「愛国心」そのものは必要だと思っているが、それを押しつけてくることは間違いだと感じているのではないだろうか。

それは、何が「愛国心」かという判断について、客観的な基準が設定できないからではないかと思う。それを国家が恣意的に決めることに反対する人が多いのだろう。これは、国家が決める「愛国心」が間違っていると言うことではなく、何が「愛国心」かと言うことは原理的に正しい答を提出することが出来ないのだと思う。

マル激での、極右と言われる一水会顧問の鈴木邦生さんとの議論では、「日本がいい国だから愛する」という「愛国心」に関しては、宮台氏が「愚かです」の一言で一蹴していた。これは全くその通りだと思う。宮台氏が語っていたように、何か理由があって愛するような「愛国心」は、その理由が無くなれば愛さなくなるようなものだから、自分の存在の基礎としての「愛国心」というものにはふさわしくないと言える。

愛国心」というものをそのような崇高なものではないと定義すれば、このようなプラグマティックなものとして教えてもいいのかも知れないが、そのようなものを教育基本法で明記するほどの価値のあるものだとは感じないので、「愛国心」をそのように定義するなら、全く教育する必要はないだろうと思う。

愛国心」というのは、自分が日本人であるという存在の基礎を与えてくれる、いわば日本人としてのアイデンティティーの基礎になるものだ。自分が日本人であるという事実を否定できないのなら、日本という国がそこにあると言うことだけでわいてくるような気持ちが「愛国心」でなければならない。

愛国心」をこのように定義すれば、そもそも「愛国心」を教育するなどということは不可能であることが論理的な帰結として導かれるのではないかと思う。「愛国心」というのは、日本人として生まれたという運命的な事実を受け入れるところからわいてくる気持ちだ。つまり、自分が日本人だと自覚したときにすでに持っていなければならない感情の一つでもある。それなのにそれを教育するということは、そもそもそのような感情を持っていないという前提で教育を考えていることになる。

運命的に持っていなければならない「愛国心」という感情を、それを持っていないがゆえに教育するということは、本物ではない見せかけの「愛国心」を持てと教育する以外になくなる。「改正」教育基本法で「態度を養う」と書かれているのは、まさに「愛国心」という心を教育することは出来ないので、せめて見せかけの「態度」を身につけさせる教育なのだと語っているように感じる。

もし「愛国心」の教育として、嘘でない教育をするのなら、日本人としての自覚をさせるという教育しかないだろう。そして日本人としての自覚をしても「愛国心」がわいてこないなら、そのような日本になってしまったと言うことを憂う「憂国」の情を教えることが必要なのではないかと思う。鈴木邦生さんが『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)で語っていたのもそのようなことではないかと思う。

マル激での議論でも鈴木さんは、「愛国」というのは現状を肯定して、今の日本がいい国であることを認めることだと語っていた。それに対して「憂国」というのは、今の日本がこれでいいのかと、批判的に眺めることを意味すると語っていた。これは、日本を本当に愛するがゆえに、もっと素晴らしい国であって欲しいという感情から生まれてくるものだと言っていた。

鈴木さんは、三島由紀夫は「愛国」という言葉が嫌いだったと本で書いている。「愛」という言葉には、「愛玩」というような、自分の都合でペットを愛するような嫌らしい響きがあると感じていたようだ。

鈴木さんも現状肯定的な「愛国」よりも、時にはクーデターにつながるような、激しい「憂国」の気持ちの方が真に国を思う気持ちが感じられると考えているようだ。そして「憂国」の士にこそ強い共感を感じているようだ。鈴木さんの本から次の部分を引用しよう。

「ここでもう一度整理したい。愛国は現状維持的で、憂国は変革的だ。憂国は、このままの日本でいいのかと、破壊的、否定的な情念になる。「反日」と変わらないところまでゆく。
 西郷隆盛明治維新に満足せず「第二維新」を目指し、西南戦争を起こしたが敗れた。その第二維新、永続維新を継承しようと全国各地で自由民権運動が起きた。時には過激な暴発にもなった。この流れの中で頭山満玄洋社も生まれ、右翼の運動も始まる。西郷の憂国を継承しようとしたのだ。
 さらに昭和初期。血盟団事件、5.15事件、2.26事件と流血の昭和維新運動が起きる。これも憂国の連鎖だ。「先を越された」「俺たちも続かなくては」という焦りもある。同士が決起したのに自分はこのままでいいのか、と言う「負い目」「やましさ」もある。だから、「負い目の連鎖」でもある。」


鈴木さん自身も、三島由紀夫の「憂国」ゆえの自決と、ともに自決した森田必勝氏に対する「負い目の連鎖」で一水会の運動でそれに続いたのだという。このような人々を真の「愛国者」だと考えるなら、現状肯定をする「愛政府」が、本物の「愛国心」であるはずがないと思うだろう。

右翼の方からは極左であると思われている本多勝一氏なども、自分ほど日本のことを憂いている人間はいないと言うことを根拠に、自分こそが本当の「愛国者」だと語るような文章を書いていた。極右と極左が一致すると言うことは弁証法的にあり得ることだろうと思う。鈴木さんは、連合赤軍や東アジア反日戦線<狼>との親交も深い。反権力・反政府の極左の姿にもっとも深い「憂国」の情を見ることが出来たのだろうと思う。そして、それこそが本物の「愛国心」なのだと感じているのではないだろうか。

誰が真の「愛国者」であるかと言うことは客観的に決められることではない。だから、そのようなものを教えることが教育の内容としてふさわしいとは思えない。では、「愛国心」を教育するとしたら、どのようなものが出来るのだろうか。それは、「愛国心」の恐ろしさ・誤謬への転落の危険を教えることしかないのではないだろうか。鈴木さんが指摘する次のような内容こそが、もし「愛国心」を教えるとしたらその内容としてふさわしいものになるのではないかと思う。

「こう見てくると憂国は暴発的な決起に結びつき、危険な連鎖のように見える。愛国は現状維持的で平和なように映る。しかし、一概にそうは言えない。憂国は、時に暴力的になり、暴発し、連鎖する。しかし、あくまでも個々人の自発的な意志に任されている。言うなればちょっと荒っぽいボランティアだ。
 その点、愛国は一見平和的だが、暴発すれば国民全体を巻き込む。有無を言わせない。テロやクーデターは憂国から起きるが、局部的なものだし、瞬間的なものだ。愛国は<戦争>に突き進み、全国民を強制する。それも長い年月、強制する。
 憂国は部分的で短期的だが、愛国は全体的で長期的だ。「憂国の士」はそれほどいない。しかし、「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。戦争の時は特に顕著だ。その全体の流れに対し消極的な人間は、「非国民!」「売国奴!」と言って袋だたきにされる。つまり、愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。これは危険なことだ。「憂国」よりも「愛国」の方が何百倍も凶暴だし、残忍だ。」


鈴木さんが語ることこそが、日本人が先の戦争から学ぶべきもっとも大きな教訓ではないかと思う。「愛国心」が全体主義に通じること、しかも、そうやって他者を迫害して追い込む人間が、自分こそが正義だと勘違いして、そのような残忍で凶暴なことをするのが間違いだと言うことに気づかないことがもっとも問題だと理解しなければならない。

鈴木さんは、マル激の議論でも、学校で「愛国心」が教えられるようになったときに次のような事態が起こることを危惧している。たとえば、ある先生の発言が、表面的には「反日」「反政府」のように見えたときに、それを「愛国心」という正義を振りかざして糾弾するような生徒が出てきたとき、それが本当に「愛国心」の教育の成果だと言って喜んでいられるだろうかと言うことだ。自分に絶対の正義があって、その正義の元に他者を叩いて平気でいられるような人間に育てたことが間違いだったと自覚しなければならないのではないかという指摘は、全く正当なものだと思った。そういうものが「愛国心」だと理解されることに鈴木さんは大いなる疑問を語っていた。

鈴木さんは

愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えばニセモノになってしまう。そして他人をそしる言葉になる。僕はそう思う。」


と書いている。全くその通りだと思う。鈴木さんは極右と言われている。だが、極右だからこそ、「愛国心」に対して正しい認識を語れるのではないかと感じる。たとえ極右の思想家であっても、「愛国心」に関して鈴木さんが語ることは正しいと僕は思う。

「改正」教育基本法で「愛国心」を教えたがっている保守政治家は、残念ながら「真正保守」の「真正右翼」ではないようだ。鈴木さんのような極右思想家に、真の「愛国心」について教えてもらった方がいいのではないかと思う。そして、鈴木さんが語る「愛国心」こそが、本当に教えるに値するものだと理解しなければならないだろう。「愛国心」教育が不要になるような努力こそが、真の「愛国心」の発露なのだ。