歴史とは何か


なみふくくんから「亜インテリ論にまつわる様々な抜粋・覚え書き」というトラックバックをもらった。僕は、亜インテリが悪いというような道徳的な主張をしているのではなく、亜インテリが権力に近づき、権力を握って真のインテリを追い出すという構造に問題があると思っている。

亜インテリと真のインテリに対して、大衆が妥当な判断をしていれば、亜インテリが簡単に権力を手にするということはなくなるだろう。またインテリ予備軍が、真のインテリに対するリスペクト(尊敬)の方向へ行き、代替的な権力志向を持つような亜インテリにならなければ、問題のかなりの部分が解決できるだろうと思っている。

このような方向への解決は大部分が教育の力に依存するものだろう。暗記量の多さのみが高い学力として評価されるような教育制度の下では、亜インテリと真のインテリの区別をつける力を養うのは難しい。亜インテリの方が、むしろいまの学校教育制度の下での優等生が多く、記憶量では真のインテリをしのぐ可能性さえあるからだ。

宮台氏はその博覧強記の記憶量の膨大さと、緻密な論理展開の能力の高さとで、両方の能力を高いレベルで保っているというまれな学者だと思う。まさに真のインテリの一人だろうと思う。亜インテリ論に対しては、ナチスに集結したインテリたちのことなどを調べたり、現代アメリカの体制派内インテリと反体制インテリ、あるいは旧ソビエトの体制派内インテリと反体制インテリなどについて資料を求めて、日本だけに特有の現象なのか、国家という組織においては避けられない問題として存在するのかなどと言うことを考えてみたいと思う。

さて、なみふくくんのエントリーに関しては他にも言及したいことがいくつかあるが、まず目にとまったのは養老孟司氏の次の文章だ。

『 そもそも「歴史(history)」とは「イストワール」「ヒズ・ストーリー」つまりは「物語」であって、極めて個人的な営みであろう。そこには主観しかなく、客観などありはしない。中国、韓国が主張する「正しい歴史認識」などあるはずがない。人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。それをマルクスが「歴史科学の法則は客観的だ、一つの正しい歴史があるのだ」云々と、背筋が寒くなるようなインチキを言ったあたりからおかしなことになったのである。』


僕はこれに不可知論の匂いを嗅ぎ取ったので気になった。「歴史」という言葉の意味を語源的に考えることには一定の意味はあるだろうが、それは科学としての「歴史」を考えることとは全く別物だろうと思う。むしろ上の養老氏の文章は、「歴史」は科学ではないということを主張しているようなものだと思う。

確かに、歴史はそれぞれの立場によって全く正反対の主張をするときもある。どこかに正しい歴史があるなどという、「歴史」を科学的に捉える(「科学」は相対的真理を語るものだから、科学的に捉えればそこにはある種の「真理」があると捉えることになる)ならば、そんなものは幻想に過ぎないと感じる人もいるだろう。

確かに、物語としての感覚的に捉えた「歴史」も存在する。だが、「歴史」は全てそういうものだと考えるのは、「真理」は捉えることが出来ないと考える不可知論ではないかと僕は思う。相対的真理にいつもどこかに誤謬がこびりついているという「可能性」があることのみで、「歴史」における真理性を否定しているとしたら、それは不可知論にしか過ぎないだろう。科学を仮説に解消することに反対するのと同じロジックで、僕は「歴史」の全てを物語に解消しようとするこのロジックには反対だ。

「歴史」を科学として捉えるには、そこに「仮説実験の論理」の適用が出来なければならない。たとえば板倉さんが発見した歴史法則には、「道徳的命題を法律にして強制すれば、それは多くの弊害を生み出し、結果的に目的と正反対の効果をもたらす」というものがある。板倉さんは、これを<生類憐れみの令>と<アメリカにおける禁酒法>に適用して、未知なる事実を発見したときにいつでもこの法則が成り立つかどうかを確かめた。

「歴史」における科学法則は、具体的な条件に多様性があるので、その表現はかなり抽象度の高いものになる。時には法則に反するようなグレーゾーンが存在することもある。これを、ある種の解釈によって「誤差」として処理することが要求される。このあたりの解釈はおそらく異論が存在することだろう。道徳的命題を法律化してもうまくいっている例があるということを探し出してくる人がいるかもしれない。それが、実は何らかの特殊な条件の下でのみ成り立つ「例外」であるかどうかは、科学法則の証明とは別の問題として考察する必要があるだろうと思う。

板倉さんが提出した科学法則において重要なロジックは、道徳的命題というのは主体的にそれを守ることに意義があるということだ。それを法律で強制すると言うことは、過ちに対して公的に罰すると言うことを意味するが、これは道徳的感性は過ちを通じて育っていくと言うことと矛盾してしまう。

法律で禁止されてしまうと、道徳的感性を育てる前に、その意志が強固にならないのに規則だからやらないでおくという状態になる。それは、なぜそのことをしてはいけないのかということを考える主体性を弱めることになる。このことは様々な悪影響を生み出すだろうと予想できる。

もし、ある行為に対して重すぎる罰を受けたと感じるなら、その罰に対して恨みがたまるだろう。また、現実というのは実に多様性を持っているものだから、新しい事態に対して対処するには試行錯誤と言うことが必要だ。しかし失敗を許さない法律化された規則は、新しい事態は避けることが正しいという認識を生む。

<生類憐れみの令>は、その目的としては、生き物を大事にする社会的な意識を確立しようとするものだ。これは本来は教育の力によって達成することがふさわしい目的なのだが、正義の人だった綱吉は、法律によってこの目的を達成しようとしたようだ。その結果どのような現象が現れたかといえば、重すぎる罰を受けたと感じた人たちは、生き物、特に犬を恨むようになったという。自然のままにしていれば犬に恨みを抱く人ではなかった人たちに大きな恨みを残した。

さらに、法律に規定されている違反をしないように、犬を避ける人が増えたそうだ。犬と関わりを持たなければ法律に違反することが無くなるからだ。生き物を愛し、生き物を大切にさせようとした法律は、生き物を避け・生き物を恨むような結果を招いて、人々がこの法律にどうしようもなく嫌気がさした時点で廃止された。

禁酒法>というのも、酒を飲んで酔っぱらったり、それで仕事が出来なくなったりすることは道徳的に悪いことだという感じがする。酒が飲めないようにしてしまえば、人々は道徳的に正しい生活に戻るのではないかと単純に考えると、これがまったく違う結果を招くことになる。

人々は隠れて酒を飲むようになり、合法的に手に入らない酒はギャングの資金源としておいしいものになる。道徳的に正しくなるどころか犯罪が横行するという結果を招くだろう。人々が酒を飲んで道徳的に堕落するのは、実は酒でも飲んで憂さを晴らさなければ生きていけないという社会の方に問題があるのであって、社会に希望が持てるような改革をして問題を解決しなければならない。そうすれば、結果的に道徳も保たれるようになるのだ。

板倉さんが発見した法則はロジックとしても整合性を持っている。そのロジックが現実に良く合致するかは、未知なる事実を求めて「任意性」を証明する「仮説実験の論理」で確かめていく。そのいい材料が最近日本でも法律化されているのではないかと思う。「改正」教育基本法では、「愛国心」という道徳的な問題を法律化しているように見える。板倉さんの法則が科学的なものであれば、この法律は、「愛国心」を育てるという当初の目的とはまったく違う方向で弊害を生み出し、「愛国心」を育てることに失敗するだろう。具体的にどうなるかは分からない。この法則が抽象的なものだからだ。だが、「愛国心」の法律化が、特殊例外的なものでない限り板倉さんの法則が成立するだろうと思う。この弊害が大きなものであれば、<生類憐れみの令>と同じように、人々がどうしようもなく嫌気がさしてから廃棄されることになるだろう。弊害が大きなものにならなければ、やがては人々から忘れられるのではないかと思う。いずれにしろこの法律は当初の目的は達成できないと思う。

「歴史」というのを、事実を羅列してその解釈をするものだと受け止めていると、それは「物語」だと言うことになってくるだろう。「歴史」の中に抽象化という視点を持ち込んで、法則を求めるという見方をすれば「歴史」は科学になる。僕は若い頃歴史学者羽仁五郎さんが好きでよく読んでいた。その羽仁さんの次の言葉は、今一度噛みしめて味わう価値のあるものだと思う。

「歴史を学ぶことによってわれわれは軽信という病気にかからないようにすることができる。」
「軽信ということは人類を不幸にするもっとも恐るべき病気のひとつである。」
から
「われわれが流通観念によって見とおしをたてるとわれわれはかならずあやまる。」
「懐疑は理論の母である。」
「懐疑的精神はあらゆる過去を否定し、未来を信じる。猜疑的精神は、あらゆる過去を信じ、未来を否定する。」
「歴史」(『羽仁五郎歴史論著作集』第一巻 青木書店 一九六七年)
「歴史学を考える」よりコピー)


「歴史」における法則性を学ぶというのは、宮台氏が言う失敗学を学ぶと言うことでもある。羽仁さんは「過去を否定し」と語っているが、過去が否定されるのは、そこに必ず失敗が含まれているからである。人間は本質的に失敗するものだと三浦つとむさんも語っている。だからこそ失敗学が大事であり、その失敗に学ぶことこそが「歴史」なのだと考えることが出来る。そして、「過去の否定」の上に立てられた失敗学が「未来への希望」となっていくことが正しい歴史認識なのだと思う。過去を賛美して、過去の物語で気分を良くすることが「歴史」の効果なのではない。

歴史科学における真理が、自分にとって都合の悪いもの・気分を悪くするものであっても、それを直視しなければならない。事実の解釈が多様性を持っているからと言って、そこには客観的な真理はないのだという不可知論に陥ってしまえば、小さな失敗の時に修正すると言うことは出来なくなるだろう。取り返しのつかない状況になってからしか舵を変えられないと言う、戦争における失敗を繰り返すような「歴史」になってしまうだろう。失敗を研究することを「自虐的」だというような感性では、「歴史」を科学にすることは出来ないだろうと思う。それはたぶん不可知論の誤謬から来ているものだろう。