不可知論と物自体


「不可知論」というものを、認識には限界があることを主張するものだと定義している人がいるかもしれない。「〝学習通信〟040710 ◎「ほんとうのことは分からない」……。」には次のように書かれている。

「不可知論の考え方
 「私たちの知識に原理的に限界がある」という考え方は、哲学では「不可知論」という言葉で呼ばれます。この言葉を文字どおりに読めば、「知ることができない」論です。私たちはたしかにさまざまなことを知ることができるが、私たちの理性にはこれ以上超えることのできない境目があって、そこから先は、どうあがいても、人類史がどんなにすすんでも、人間の英知がどれほど発達しても、越えることはできないのだ、というのがその考え方です。」


「不可知論」というものが、上の定義にとどまる限りでは間違ったことは語っていない。現実の多様性の全てを把握することは出来ない、実無限を完全に理解することは出来ないのだという点で、我々の認識には限界があるというのは同意できる。しかし「不可知論」の主張はここにとどまってはいない。この限界が存在すると言うことから次のような論理を展開させると間違いに陥る。上のページにはこのように書かれている。

「不可知論の考え方は、「私たちの認識能力には原理的に限界があるのだ。その限界の先には私たちの知ることのできない世界が広がっているのだ」というものでした。つまり、私たちは私たちを取り巻く客観的世界を原理的に知ることができない、というのです。そうだとすれば、私たちの現在もっている知識が真理であるかどうかを判定(検証)する客観的基準はまったくないということになります。」


我々が知り得ない世界・限界の先の世界というのは、知り得ないのだからそれについては何一つ語ることが出来ないはずだ。何かを語ることが出来るのなら、それは知り得ない世界ではなく何かを知っている世界と言うことになってしまう。このような世界については何も語ってはいけない。沈黙しなければならないのだ。

それなのに、「その限界の先には私たちの知ることのできない世界が広がっている」と断定してしまうのは、そこには認識不可能な物自体が存在していると語ることになる。実際には、限界の先のことなどは何一つ分かるはず無いのだから、そこに物自体があるかどうかも不明だと言うしかないはずだ。「不可知論」は、知り得ないことを知ってしまうと言う論理矛盾を犯している。ここに「不可知論」の本質的な間違いがあると僕は思う。

実際に正しい言い方をするなら、限界の先については我々は何も知り得ないが、限界の中の世界に関しては、世界内の存在を正しく認識できるし真理をつかむことが出来ると言えばいいのだと思う。

カント的な「物自体」に関しては、三浦つとむさんが語ったように、それは「存在する」という属性以外の全ての具体的な属性を捨象した抽象概念だと捉えるのが正しいと思う。この世に存在する物体は、全て「存在する」という属性を持っているが、具体的属性を認識しなければその区別をつけることが出来ない。それを全て捨象してしまえば、その対象はものとしての実体を何も持たない抽象概念になってしまう。属性が何一つつかめない(それは捨象したためにつかめなくなってしまったのだが)ので、それはものとしての認識が不可能になってしまっただけなのだと思う。

このようなイメージはエンゲルスも次のように語っていると思われる。

「しかし次に新カント派の不可知論者がやってきて言う。われわれは物の諸性質を正しく知覚するかもしれないが、しかしわれわれはどんな感覚過程または思考過程によっても物そのものをとらえることはできない。この『物自体』はわれわれの認識のかなたにある、と。これにたいしてヘーゲルは、とっくの昔にこう答えている。もし諸君がある物のすべての性質を知るならば、諸君はまた物そのものをも知るのである。そうすると残るのは、この物がわれわれの外に存在するという事実だけである。そして諸君の感官が諸君にこの事実を知らせるとき、諸君はこの物の最後の残りものを、すなわちカントの物自体をとらえたのである、と。」
「〔弁・抜〕物自体――『フォイエルバッハ論』から」よりコピー)


知り得ない「物自体」というのは、認識の中にある「存在」という抽象概念だけを考えている限りでは、その抽象概念の具体像は知り得ないと言うことに過ぎない。現実に存在する具体的な対象に関しては、それが知られている限りでの全体像をつかんでいれば十分なのである。もし新たな属性が発見されたら、その対象に対する認識が深まったと評価すればいいことだ。それが知られていなかったときに、その属性を持った「物自体」がどこかにあったのだと考える必要はないのだ。

ただ、「物自体」が「存在」という抽象概念だと言うことであれば、「存在」という抽象概念を全面的に否定する必要がないことから、「物自体」もフィクショナルな実体であると言うことを意識して使えば便利な道具になるかも知れない。カントのように哲学史の巨人といわれるすぐれた人物が、単純な間違いを犯すとは思えない。エンゲルスも、上のような考え方は「新カント派」という主語で語っている。「物自体」という考え方の中に、何かそれを利用するとよく分かるような事柄があるのではないかと思う。

フィクショナルな実体としてもっとも有名なものは数学における虚数ではないかと思う。2乗すると−1になる数というのは実数(現実に存在する数=real number)の中にはない。だから、現実にはない数として「虚」の数として虚数(imaginary number)を設定する。これは始めから「虚」であると自覚しているのでフィクショナルな実体と考えられる。実際にはないのだが、あえて実在するかのように取り扱ってみようとするわけだ。

虚数の威力は3次方程式を解くときに発揮される。2次方程式までは、まだ虚数が無くても解けるものもあるし、虚数の解は現実には存在しないからと言うことで捨てることが出来る。しかし、3次方程式を解くときは、たとえ解が実数であっても、解を求める過程でどうしても虚数が必要になってくる。虚数という存在をフィクショナルに設定することで、一般的な世界を広げることが出来、その世界の中で問題を解くことによって、現実的な解も求められるという有効性を持つ。虚数は世界を広げる効果を持ち、その広い世界の方が数学的には実りが多いという結果を出してくれる。

「物自体」にも、世界を広げる有効性というようなものが見られるだろうか。「物自体 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」によれば

「超越論的自由とは「物自体」として要請されたものである。というのも、「行為」の結果は知ることができるが、その行為を起こした「自由意志」は現象界に属するものではない。しかし、因果律によって存在が証明できない、この「自由意志」が要請されることによって、その行為に対する道徳的責任を問うことができる。ゆえに「自由」の存在は正当化されるのである。」


と書かれている。カントが語る「物自体」というのは、認識の限界から導かれてきたのではなく、「自由意志」の存在の根拠として要請されたものではないかとも感じる。これなしに「自由意志」の存在を言うことが困難だったのではないだろうか。「物自体」を設定すれば、とりあえず「自由意志」の存在も正当化できるという意味でのフィクショナルな実体ではないかとも感じる。

自由意志というのは、宮台氏が語ったように「選択の自由」として理解することが正しいだろう。いくつかの選択肢が存在するとき、そのどれを選ぶかは、選択する主体の自由に任されていると考える考え方だ。このときなぜ「物自体」が要請されるかと言えば、認識され得ない「物自体」がなければ、全ての存在の間には必然的な関係が設定されていることになってしまうと考えたのではないだろうか。「物自体」がなければ存在の間の必然性は全て求められてしまうというふうに考えたのではないだろうか。

ある時に選択を間違えて何らかの責任を引き起こすような行為をしたとしても、その選択の間違いでさえも必然的に起こるものだとしたら、いったい責任というものを問えるだろうかという問題が出てくる。責任を問うならば、その選択をした主体が、どれでも自由に選べるのだという前提がなければならない。そのためには「認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない」という「物自体」を設定する必要があったのではないか。

何らかの犯罪を裁くという責任を問う問題があったとき、我々は動機というものを求める。それは、犯罪の原因をたどる因果律を求めることになるだろう。この因果律において、どこかで主体的な自由な選択で犯罪をすることを選んだと言うことがなければ、罪を問うことが出来なくなるだろう。

「物自体」が存在せず、全ての属性をつかんだとしたらどうなるだろうか。それはこれから起こる事態を確実に予想することが出来るようになるだろう。そうなるとそこにはある行為を選ぶときの選択の自由というものは無くなる。どれを選ぶかは、つかんだ属性の認識によって必然的に決まってしまうからだ。しかし、この必然性の洞察は、三浦さんによればヘーゲルによって究極の「自由」として語られているものになる。全く選択の自由がないのに、それが究極の自由になるというパラドックスはまさに弁証法的だと思うが、対象を完全につかんで、自分の思いのままに利用できるという点ではまさに完全な自由という感じはする。

意志の自由から要請される「物自体」は、フィクショナルな実体として有効性を持っているのではないかと思う。それは、フィクショナルな「物自体」が消えた状態こそが完全な自由になるというパラドックスとともに理解される。それに対し、不可知論から要請される「物自体」は、「不自然な神の視点」から語られる「可能性」のみを根拠にした主張になっているのではないかと思う。この二つの「物自体」をもっと深く考えることで、不可知論の問題性をもっと深く捉えることが出来るのではないかと思う。