民主党提案の「日本国教育基本法」案 考察3


民主党の「日本国教育基本法」の考察を続けたいと思う。「日本国教育基本法案 解説書」に書かれている第四条(学校教育)から見ていきたいと思う。

ここで目に付くのは、「日本に居住する外国人」という記述があることだ。教育の現場にあまり詳しくない人は、いまの学校教育において外国人生徒の問題がかなり深刻なものになっていることを知らない人が多いかも知れない。

国際結婚が増えていく中で、母親の再婚によって呼び寄せられる子どもたちの数が増えてきたことが、小・中学校において外国籍生徒が増えてきた原因だろうと思われる。国際結婚によって日本で生まれ育った子どもたちは、家族にとっては様々な問題がまだあるだろうが、学校にとっては少なくとも日本語の問題は生じない。だが、呼び寄せられた子どもたちは、全く日本語を知らずにいきなり学校に入ってくるので、日本語の問題が非常に深刻なものとして生じてくる。

習慣の違う外国で、全く日本語を知らない状態で孤立している子どもたちは、学習の支援はもちろんのこと、そのような不安な心のケアも重要なものになる。しかし、今の小・中学校においては、彼らに対して十分な支援が行われているとは言い難い。財政難の問題もあり、東京都の区によっては、いままで彼らのために日本語の支援を行っていた日本語学級を縮小しようという反対方向に行政がシフトする場合さえある。

小・中学校の対象になる子どもたちはまだ学習の場が与えられるが、15歳を過ぎた子どもたちの場合はもっと深刻だ。彼らはいきなり高校に入ることは出来ない。日本語も出来ないし、日本の高校で必要とされる、日本の学校教育における知識(社会科など)を持っていないからだ。彼らは教育を保障されず、家庭がそれほど裕福でなければ、放っておかれるだけの無為の日々を過ごすことになる。

東京都の場合は、15歳以上の学齢を越えた子どもの場合は、夜間中学というものが受け入れ場所になって何とか学習の場だけは確保できる。ここ数年、僕が勤める学校でも16歳から18歳くらいまでの外国籍生徒が圧倒的多数を占めるようになった。中国籍の生徒が最も多く、フィリピン・タイなどの生徒が多い。だが、夜間中学は東京でさえも8校しかなく、それがない都道府県などでは教育を保障されない10代の子どもたちが、子どもの権利条約で保障されなければならない教育の権利が捨て置かれているのを感じる。

この外国人生徒の問題は、現代日本の学校教育の問題として非常に深刻なものだが、60年前に出来た前の教育基本法ではもちろん予想もされていなかったので記述はない。「改正」された政府案にもその記述はない。前の基本法では<学校の設置><教員>に関する記述が書かれていて、政府案の方では、同じく<学校の設置>と、新たに<教育の内容>が記述されている。

<教育の内容>においては「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めること」などと言う記述が見られ、これは道徳的な内容を法律として記述しているようにも感じる。いまの学校における規律の乱れが気になるのだろうと思うが、法律に記載したからと言ってそれが確立されるわけではない。これは、板倉さんが発見した社会の法則を適用すると、その弊害が大きくなり結果的には目的と正反対のものがもたらされることになるのではないかと思う。

以前に宮台氏が語ったことで、軍国主義下で育った愛国的な日本軍人が、捕虜になって人間的な扱いを受けると、極秘情報とも思えるものを進んで語り出すと言うことが印象に残っている。軍国主義下で、暴力的な押しつけで育てられた愛国心は、従順な心情を育てることには役立ったが、本当に愛国的な行為である、国益を守ると言うことには役立たなかったと言うことを意味しているのではないかと思った。法律によって規律の重視を命じられた学校において、似たような結果が起こるのではないかと僕は感じる。

学校教育における法律の比較においては、この外国人に対する記述一つだけでも、僕には民主党案の方が3つの比較では優れているのではないかと感じる。また民主党案には、

「3 学校教育においては、学校の自主性及び自律性が十分に発揮されなければならない。」


と言う、他のものには見られない新たな記述が含まれている。これは、教育行政における中央集権的な支配構造を崩そうとするもので大きな意義を持っている記述ではないかと思う。教育というのは、全国一律で同じものを一定のレベルで行うという発想はもう過去のものではないかと感じる。

明治維新によって近代国家へのスタートを切った当初は、その近代国家を支える「国民」を育てるためには、一定レベルの教育を、詰め込んででも一律に行う必要があったと、当時の権力の側にいた人間は考えただろう。そうでなければ日本という国の存立さえ危うくなるという発想があったものだと思う。だから、その当時は、教育というのは国家のためにあるものであって、決して国民一人一人のためにあるものではなかっただろう。

だが、曲がりなりにも民主主義国家として歩み、独立した個人が国家を支えると言うことが可能になるくらい豊かになった今の日本では、個の独立のために地域の独立や自主性が確保されなければならなくなっただろう。教育は全国一律に同じものをするのではなく、その地域あるいは個人にふさわしい内容を持ったものとして考えられなければならない。そのために、「学校の自主性及び自律性」というものが大事になるという発想は、極めて今日的なもので現実認識を元にしたものだろうと感じる。

さらに、この方向を修正していく機能を持たせるために

「4 法律に定める学校は、その行う教育活動に関し、幼児、児童、生徒及び学生の個人情報の保護に留意しつつ、必要な情報を本人及び保護者等の関係者に提供し、かつ、多角的な観点から点検及び評価に努めなければならない。
5 国及び地方公共団体は、前項の学校が行う情報の提供並びに点検及び評価の円滑な実施を支援しなければならない。」


と言うことが付け加えられている。学校の評価を、学校内部の利害関係者(ステイクホルダー)だけで行えば、それの直接的な受益者である幼児、児童、生徒及び保護者にとっては逆に不利益になることが生じる恐れがある。正しい修正が出来なくなる恐れがある。それを防ぐためにこの条項を付け加えてあるように思う。

この学校教育に関する条文の比較を見る限りでは、民主党案が最も優れているように僕には思える。この教育基本法の議論は果たしてどのようにされたのだろうか。マスコミ報道では「愛国心」問題ばかりが大きく取り上げられていたが、政府案が全く修正されずに可決されていたと言うことはあまり大きく語られなかった。

マル激で鈴木氏が語っていたが、政府案は、一言一句そのままで、文言の修正は全く受け付けなかったそうだ。おそらく公明党が拒否したのだろうと語っていた。公明党は、政府案に対してはトップの承認を受けていたが、文言を修正された場合にそれを受け入れるかどうかはすぐには判断できないらしい。もし民主党案を取り入れて、文言を修正していたら、国会会期中に可決が出来なくなる恐れがあったのではないだろうか。

実際には、安倍総理が「十分ご審議願いたい」というようなことを語ったので、審議だけはあったようだ。だが文言の修正はなかったらしい。このような議論の内容はもっと報道されるべきだと思う。そして、民主党案に含まれている優れた面が、どうして「改正」教育基本法では取り上げられずに、欠陥があると思われる政府案がそのまま可決されてしまったのかを考える材料を提供してもらいたいものだと思う。

鈴木氏も宮台氏も、今回の「改正」は、とにかく「改正」したという事実を作ることが目的であって、その内容云々よりも、戦後初めて教育基本法を改正した総理として安倍晋三の名前を残すことが目的だったのだと語っていた。その意味を考える材料を、報道にジャーナリズム精神が残っているなら知らせるべきだっただろうと思う。自民党内リベラル派の河野太郎氏や加藤紘一氏が、この教育基本法の「改正」には大きな関心を持っていなかったというのも、これは政治的には通すことだけが目的だったのではないかというのを信じさせる一つの要因になると思う。

鈴木氏は、教育改革の本丸は「地方教育行政法」の改革の方だと語っていた。民主党の「改正」案も、これにつなげるための「改正」が主目的だと言えるかも知れない。鈴木氏の考える改革は、「地方教育行政法」の改正によって、文部科学省の権限を小さくすることによって実現される。これに対する文部科学省の抵抗はたいへんなものだと鈴木氏は語っていた。

愛国心」問題は、「改正」教育基本法から派生する問題の一つかも知れないが、政治的なセンスを持っている人間なら、これをあまりに強く押しつけすぎれば弊害の方が大きくなることを直感的に嗅ぎ取っているのではないだろうか。だから、適当に押しつけはするが、あまりに強くなりすぎるとブレーキをかける勢力も働くようになるのではないかと思う。そうなると矛盾が薄められ、本当の本丸である教育改革が鈍る恐れもある。文部科学省は権限を温存して、既得権益者としてあり続けるかも知れない。

そのようなものが現実化してくることが見えてくると、神保哲生氏が「愛国心問題はかませ犬ではないか」と語ったことが本当になるかも知れない。国民の目がそこに向いているときに、文部科学省は自らの権益を守ることに成功するのではないか。文部科学省の官僚は、その程度には頭のいい人間がそろっているのだと警戒心を持っていた方がいいのではないだろうか。

文部科学省の官僚は確かに頭はいいだろうと思う。だが、どんなに頭が良くても、全国の教育問題を処理できるほどの能力は、もはや今の時代では、誰にも持てないのだと思った方がいいのではないか。たとえ頭の良さでは、個々の国民は文部官僚にはかなわなくても、教育の現場で起こっている問題のとらえ方においては、現場にいるという分だけ文部官僚よりも正しく捉えられるのだと思う。教育の問題は、中央集権的に処理するのではなく、地方分権的に処理する方が現在の問題としての対処は正しいと思う。