丸山真男の見事な弁証法論理の展開


僕は丸山真男という人の文章を詳しく読んだことがなかった。何となく時代の違いを感じていたことと、古典と呼ぶほどの存在にも感じなかったので、より問題意識が重なる現代的な宮台真司氏などの文章に親しんでいた。丸山真男に関しては、宮台氏が高く評価している人物なので、あまりよくは知らないが、宮台氏に対する信頼感から、一流の学者であることは確かだろうというイメージだけは抱いていた。

しかし、丸山真男を低く評価する人もけっこういるらしいことに気が付いた。たとえば「日本には「ファシズム」はなかった」などというページを見ると、

「ただ明治以来何とも正体の知れない「右翼」という「暗黒な勢力」があった。それは一度も政権を奪取することなく、しかも軍部を動かし軍部と結んで「満州事変」と「日支事変」をおこし、ついに大東亜戦争を開始した。「この点ファシズムに似ているようで似ていないが、似ていないようで似ている」という、わかったみたいでわからない論証が丸山学説である。」


と言うような記述が見られる。また、丸山の亜インテリ論については、大衆蔑視のエリート主義だという批判もあるようだ。「ファシズム論」に関しては、どうも上のような批判は、「ファシズム」の概念が違っているところから出てくるような感じがする。これはもう少し「ファシズム」に関して調べてからよく考えてみたいと思う。

このほか丸山批判を語る文章をいくつか目にしたのだが、いずれもどこが具体的に間違っていたかと言うことの指摘に乏しいような感じがしている。説得力を感じないのだ。批判が的はずれのような感じがしている。これは、丸山が本当に批判に値する過去の遺物なのか、それともやはり一流の学者であって、現在にも通じる問題意識の下に鋭い論理の展開をしているのかというのを、丸山自身の文章から考えてみる必要があるのではないかと思った。

宮台氏に対する信頼感からいえば、僕の中には、丸山が一流の学者であろうという先入観がある。そこで丸山の文章の中から、一流の匂いを感じる部分を拾い出してこようと思った。選んだのは『日本の思想』(岩波新書)に収められている「「である」ことと「する」こと」という文章だ。

この文章は講演を起こした平易な文章になっている。専門的な内容ではなかなか評価が難しいが、一般的な読者を想定して語った、ある意味では通俗的な内容に、本質を語るような鋭い部分があれば、それが一流の学者の証明になるのではないかと思う。

平易な文章というのは、現象を表面的に捉えて、俗情に媚びる(気分的にすっきりすることを目的にする)ならば、常識的で簡単に思いつくような内容になるだろう。そんなものはすでに分かり切っている、あるいはもう克服されているというようなものになるだろう。しかし、難しい問題を本質的に捉えているのなら、それは時代を超えて今に重なる問題意識を教えてくれる。

そのような内容は普通は難しい表現になる。だが分かりやすい平易な表現でありながら、しかも本質を捉えていると思えるなら、それは一流の学者であることの証拠になるだろう。三浦つとむさんはまさにそう言う文章を書く人だった。丸山もそのような優れた学者だろうか。多分そうだろうと思うが、その根拠を「「である」ことと「する」こと」の中に探してみよう。

「「である」こと」というのは、存在を実体的に捉えて、その属性を固定的・静的に見ることを本質とする。丸山は、「自由」あるいは「権利」というものから話を始めているが、これらが「憲法に記載されている」という属性で捉えて日本社会には「自由」や「権利」が存在すると考えると、「「である」こと」の観点からの理解ということになる。

これに対し、「自由」や「権利」を、それを行使するという行為とともに理解するとき、それは「「する」こと」の視点で理解していると言える。「「する」こと」というのは、物事を変化の視点で捉えることであり、「である」が名詞的なら、「する」は動詞的だと言ってもいいかも知れない。哲学的な表現では、「である」が形而上学的な見方で、「する」が弁証法的な見方だと言えるだろう。

丸山は、「である」という判断が限定的・一時的なものであると捉えているようだ。それは「時効」ということの説明とともに語られていることにそれを感じる。ある権利を獲得したとき、たとえば金を貸して、それを取り立てる権利を持っているとき、その権利をずっと行使しないままでいると「時効」によって権利を失うという。これは、ある時点では存在した「である」としての権利が、「する」ということがなかった場合に失われるということを意味する。

これは、現実に存在する物事は本質的に「する」というとらえ方をすることが正しい場合が多いということになるだろうか。ある時点という短いスパンで考えるときにのみ「である」という判断が妥当になるという解釈が出来る。これは三浦つとむさんが語った弁証法的な見方と全く同じことを言っているように感じる。

この見方は実に広い応用が出来る有効性を持っているが、正しく現実に適用するのはけっこう難しい。これを丸山が見事に行っているところに、僕は丸山の一流性を見る感じがする。いくつか文章を引用しよう。

「自由は置物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、言い換えれば日々自由になろうとすることによって、初めて自由であり得るということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とか言うものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などは人に預けてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷やっかいな代物だと言えましょう。」

「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化−−物神化−−を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうるのです。それは民主主義という名の制度自体について何より当てはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によってかろうじて民主主義であり得るような、そうした性格を本質的に持っています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」


ここで語られていることが、すでに常識であり、今さらいわれなくても分かっているということなら、丸山は過去に偉大だった人として記憶されるだけでいいだろう。しかし、「自由」や「民主主義」は、今の日本社会で果たして上のように理解されているだろうか。

言論の自由表現の自由憲法で保障されているが、それは果たして実現されているだろうか。「改正」教育基本法が、多くの異論があるにもかかわらず、文言の修正もなく政府案だけが可決されることが「民主的」なのだろうか。多数が賛成したからそれは「民主的」だと言えるのだろうか。日本は、制度としては「民主主義」が実現されている。「である」という観点からの「民主主義」は存在する。しかしそれは本当に「民主主義」が実現している「する」という観点でも評価できるものなのか。

丸山の指摘は現在にも通じているものだ。しかも、それは本質を捉えた指摘だからこそ、今でも全く輝きを失わない指摘になっている。このような現実を深く捉えている学者が、言葉の定義によって反駁されるような単純な主張をしているだろうか。どうも丸山批判の方が僕には疑問を感じるところが大きい。

「「である」こと」の観点は、固定的な見方になるので、物事を単純に捉える。社会そのものが単純であった時代にはそれも正しかったかも知れないが、複雑化した現代社会を捉えるにはそれは間違えることだろう。丸山は、

「歌舞伎の芝居や八犬伝などの読本に出てくる人物を見てみますと、善人はたいてい100%善事を行い、悪人はまたほとんど悪事だけを行っている。つまり、善人の中身から善事が必然的に流れ出し、悪人からは悪事が流れ出す。これはいわゆる勧善懲悪のイデオロギーなのですが、必ずしもそういう意識的な「主義」の産物とだけは言い切れない。それはつまり、そういう作品を生んだ社会が隅々まで「である」原理に基づいて組織化されているからこそ、こういう思考様式が支配的になったわけなのです。」


と語っている。勧善懲悪を好むということは、「である」の思考になる。水戸黄門に拍手喝采するメンタリティーは単純明快な「である」思考を好むものだろう。水戸黄門の人気が下がってきたとはいえ、凶悪犯罪をする人間は、とにかく凶悪な奴だと思ってしまうメンタリティーは、同じようなものではないかと思う。マスコミの報道を見ていると、日本社会はまだ「である」思考が強い社会だと感じる。

だが、今は単純明快な封建時代ではない。丸山が語る次の言葉は良く噛みしめる価値があるだろう。

「社会関係が複雑化し、同一の人間が様々な側面と役割で関係し合うようになるにしたがって、具体的状況での具体的な行動を見ないと、良い人とか悪い人とかは単純に言えなくなります。と言うより、良い人、悪い人という基準に代わって、良い行動と悪い行動という基準がますます重要になってくるといった方がいいでしょう。」


丸山の指摘は非常に鋭く深いものだと思う。一流性を十分感じるものだ。見事な弁証法の展開だと思う。現実社会の変化という本質を捉えていると思う。すでに十分長い文章になっているのでこれ以上の考察を語れないが、最後にもう一つだけ引用して終わりにしておこうと思う。これも素晴らしい内容だ。

「だとすれば果たして現在いろいろな形で潜在もしくは顕在している議会政治に対する批判を、たとえそれがどんなに型破り、あるいは非良識と思われる議論であっても広く国民の前に表明させ、それとのオープンな対決と競争を通じて、議会政治の合理的な根拠を国民が納得していくという道を進むほかに、どうして議会政治が日本で発展し、根付く方向を期待できるでしょうか。本当に「恐れ」なければならないのは、議会否認の風潮ではなくて、議会政治がちょうどかつての日本の「國体」のように、否定論によって鍛えられないで、頭から神聖触るるべからずとして、その信奉が強要されることなのです。およそタブーによって民主主義を「護持」しようとするほど滑稽な倒錯はありません。タブーによって秩序を維持するのは、古来あらゆる部族社会−−「である」社会の原型−−の本質的な特徴に他ならないのです。」