組織のタコツボ化の問題とイメージの一人歩きの問題


丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)には「思想のあり方について」という文章がある。これも講演記録を起こしたような文章で、平易な語り口で書かれたものだ。そこでは最後に、当エントリーの表題に書かれたような「二つの問題に焦点を置いてお話をした」と語られている。この二つの問題の語り方からも、僕は丸山真男の一流性を感じ取ることが出来る。

丸山は、この文章をイメージの問題からまず語り始めている。それは、人間の思考が実像よりもイメージを基に展開されているという指摘から始まる。これは思考というものの本質を捉えたものではないかと感じる。実像を直接捉えるものは感覚と呼ばれているものだと思うが、この感覚が行動に直結するのが、刺激を反応に短絡させる動物的な判断ではないかと思う。それに対して、感覚をいったんイメージとして蓄積し、そのイメージを加工してそこから論理的な結論を引き出すのが、人間的な判断の仕方ではないかと思われる。

丸山は、イメージというものは「人間が自分の環境に対して適応するために作る潤滑油の一種だろう」と言っている。人間は環境を受け取るだけではなく、そこに働きかけて利用することが出来る。そこに思考という働きかけがあるのだが、その思考の基になるのがイメージであり、それは「他の人間あるいは非人格的な組織の動き方に対する我々の期待と予測」につながっていく。「期待と予測」は感覚から直接もたらされることはなく、思考を経て論理的な帰結としてもたらされる。

このイメージというのを別の角度から見るならば「抽象」(=捨象)というものになるのではないかと思う。感覚というのは、物事の一面を直接知ることになる。他面に関しては見えていない。だからそれは、ある意味では存在しないのと同じものになっている。感覚というのは、感じるか感じないかのどちらかしかない。知っているか知らないかのどちらかだ。

しかし、イメージというのは、ある種の感覚で捉えられるものから一面を取り出して他面を捨てると言うことから作り出される。それが、何らかの表現で伝えられると、取り出した面つまり抽象が強調され、捨てられた面(捨象)はますます忘れられる。これは、知らないのではなく忘れると表現した方がふさわしいのではないかと思う。

凶悪犯罪を犯したというイメージで報道される犯人を見たとき、その犯人が実は普通の他面をたくさん持っている人間だと言うことを忘れずにいられる人はどれくらいいるだろうか。むしろ、凶悪犯の強いイメージから、何から何まで特別な存在として極悪人のように見えてくるのではないだろうか。普通の面があるのが当たり前のはずなのに、それは忘れられるのではないだろうか。それは、感覚として認識されない・知られていないと言うよりは、忘れられているのではないだろうか。

このようなイメージの持つ性質は、思考を展開するための道具として「潤滑油」だったものが、「本物から離れて一人歩きする」ことによってその有効性を失い、真理を遮断する壁として立ちはだかることにもなる。だがイメージなしにすますには、現代社会というのはますますとらえどころのない複雑さを増してきて、思考の上では困難を来す。丸山は次のように語る。

「ところが、我々の日常生活の視野に入る世界の範囲が、現代のようにだんだん広くなるに連れて、我々の環境はますます多様になり、それだけに直接手の届かない問題について判断し、直接接触しない人間や集団の動き方、行動様式に対して、我々が予測あるいは期待を下しながら、行動せざるを得なくなってくる。つまりそれだけ我々がイメージに頼りながら行動せざるを得なくなってくる。しかもその際我々を取り巻く環境がますます複雑になり、ますます多様になり、ますます世界的な広がりを持ってくると言うことになると、イメージと現実がどこまで食い違っているか、どこまで合ってるかと言うことを、我々が自分で感覚的に確かめることが出来ない。つまり、自分で現物と比較することの出来ないようなイメージを頼りにして、我々は毎日行動しあるいは発言せざるを得なくなる、こういう事態になっているんじゃないかと思います。言い換えれば我々が適応しなければならない環境が複雑になるにしたがって、我々と現実の環境との間には介在するイメージの層が厚くなってくる。潤滑油だったものがだんだん固形化して厚い壁を作ってしまうわけであります。」


実に的確な問題の指摘ではないだろうか。これは、今でもまだ解決されていない、現代的で本質的な問題を指摘しているのではないかと思う。イメージが狂うと言うことは、抽象の方向を間違えると言うことでもある。抽象の方向を間違えれば、それは現実をよく反映した抽象ではなくなる。そこから帰結された論理的な判断は、現実の反映ではなく妄想的・幻覚的な判断になってしまうだろう。その正しさは必ずしも保証されず、時にはひどい間違った結論を導くかも知れない。

イメージの一人歩きの問題は、ある意味では人間の思考に共通する普遍性を持っている。これに注意をしなければ、どの人間でも間違いに陥る可能性があるものだ。これに対し、もう一つの「タコツボ化」の問題は、かなり日本社会に特有の問題のようにも感じる。これは、広い視野を持って考えることが必要な場合にも、狭い一面的な見方にとらわれて判断を誤るという考え方のことを指す。

これは、日本に入ってきた欧米の知識が、特殊な入り方をしたことに原因があるように思える。丸山もそのような説明をしているようだ。欧米で発達した様々の知識は、彼らが新たに切り開いて発見してきたものだ。それを自ら獲得した人間は、その知識がどのような背景を持ち、どのような世界で通用するものかというのを試行錯誤の上で捉えている。しかし、その結果だけを早く受け入れようとしてきた日本では、その知識が成立する狭い範囲の世界と、それを包含する広い世界の位置づけが十分理解できなかったのではないかと思われる。

出来上がった知識を受け入れてきた日本社会では、その知識が固定化された形而上学的なものになったのではないかと思う。それを、本来は、それが正しくなる条件とともに思考をするという弁証法的なとらえ方をしなければならなかったのではないかと思う。

この「タコツボ化」が特に組織とともに語られる場合、その組織が代表する特殊利害という立場からのみ考える「タコツボ化」が問題にされるのではないかと思う。本来なら社会全体の視野から判断しなければならない問題を、組織の利害という要素が判断の一番大きい要素になってしまうことがあるのではないだろうか。ある場合には、組織にとっては短期的には不利益であっても、社会全体にとって利益になるのであれば、組織としてあえて不利益を選ぶという判断が必要なのではないかと思う。そのような判断が「タコツボ化」によって阻害される。

マル激のゲストで出ていた山崎養世さんは、銀行への公的資金投入は、本来責任を取るべき人間の責任を尻ぬぐいするような感じがするかも知れないが、結果的には必要なものだと語っていた。これは、社会全体の利益という面から見てそう判断できるのだろうと思った。国民の税金が、銀行の失敗を埋めるために使われるという我々の不利益は、銀行が破綻したときに被る不利益よりも、より耐えやすい不利益だという判断が出来るのだろうと思う。

これと同じような観点で考えれば、夕張のように破綻した自治体に対しても、銀行へ公的資金を投入して救済したように、社会的な利益としては税金を投入して救うのが正しいと山崎さんは語っていた。これも、自治体財政を破綻させた直接の責任者の尻ぬぐいをしているようにも見える。

これが、破綻した自治体が例外的な存在であり大部分の自治体は健全だというなら、確かにそこでは破綻させた個人の失敗が責任を負うべきだという自己責任原則が正しいだろうと思われる。だが、日本全国で破綻する自治体だらけだったら、破綻することの連鎖で日本社会そのものが危機に陥るのではないかと思う。銀行に自己責任原則が適用できなかったのも、ほとんど全ての銀行が破綻することが見えていたからではなかっただろうか。

山崎さんによれば、大部分の自治体は夕張と同じように破綻するという。夕張がたまたま一番最初だったために窮地に追い込まれているだけだという。やがては誰もが破綻に気づき始めれば、いつかは税金を投入せざるを得なくなるだろうと語っていた。その時、どうしようもなくなってから税金を投入すれば、その時の負担は計り知れないという。10年遅れれば20兆円よけいにかかるという。それは消費税2年分だという。社会全体を見通して、そのような未来が見えている政治家なら、今すぐ税金の投入を考えなければならないと言う。だが、「タコツボ化」している判断をするなら、税金投入をためらうようになり、いつか消費税の大幅アップをしてそれを埋めるしかなくなる時代が来るかも知れない。

山崎さんが語っていたことが本当かどうかは、これから公共サービスのメルトダウンが始まるという山崎さんの予想が正しいかどうかに注目すればいいのではないかと思う。もし自治体が破綻せずに、必要なところには必要なお金を回すことが出来るという健全さを保てるなら、公共サービスの質が落ちることはないだろう。しかし、お金がなければ、どんなに必要だと思われているところにも金は出せなくなる。それは、誰かが利権をかすめ取るために弱者を切り捨てるというような「悪意」ではないだろう。どんなに「善意」があろうとも、切り捨てざるを得ない事態が生じたら、山崎さんが言うように自治体の破綻は近いのだと思う。毎年縮小される学校予算の実態を見ていると、山崎さんの予想が正しいことを実感としても感じるところだ。

学校組織の中にいると、学校予算が縮小されると言うことは不利益以外の何ものでもなくなる。だが、社会的な総予算が本当に少ないのなら、応分の縮小を負担して、決定的な破綻を避けるという判断もしなければならなくなるだろう。教育は大切な社会的使命を負っているのだから、必要な金はつぎ込むべきだという論理だけで利益を要求するのは「タコツボ化」の危険を持っている。組織の状況と、それを含む広い社会の状況とを正しく捉えて判断しなければならない。だが、それを正しく捉えると言うことは非常に難しい。

丸山は、これの解決の方向として「モンタージュ写真を作成するような操作」という比喩で方法を語っている。「タコツボ化」の問題は、現在の日本社会でもまだ解決されていないように僕は感じる。特に硬直化した組織の問題として「タコツボ化」はますますひどくなっているようにも感じる。それぞれの「タコツボ化」した判断を総合して、全体とのバランスで判断するシステムが必要だろう。これは難しいことだろうが、丸山が語る「モンタージュ写真を作成するような操作」というのは、今の時代でも有効性を持っている考えではないかとも感じる。やはり丸山は、過去の遺物ではなく、現在にも通じる優れた一流の学者だろうと思う。