宮台真司氏の『権力の予期理論』(勁草書房)を読む 2


宮台氏の権力の定義は非常に抽象的なものである。それは、現実の権力のイメージに引きずられると、その正しい概念を持つのに失敗する。数学における定義に近いものを感じる。

数学では自然数といえば、物を数えるときに使われる数のことを指す。自然数という概念を抽象するきっかけとして、現実の具体的な物と、それを数えるという行為から具体性が捨象されて抽象されていったことだろうと思う。自然数をはじめて学ぶ子供たちは、このような歴史的な発展の過程を追うことでゼロから概念を作り出すという経験を基にその概念を獲得していくだろうと思う。

しかし、数学の理論としての自然数の概念は、ペアノの公理系に見られるように、ある種の条件に当てはまるものを自然数と呼ぶようになる。これは、理論においては、現実の具体性に引きずられて偶然的で例外的なものが入り込まないようにするためである。理論というのは、論理的な整合性を持った対象の間に成立する、抽象的な法則性を求めていくものだ。明確に捉えられる対象以外は排除する必要がある。そうでなければ法則性がつかめないからだ。

このように言うと、理論においてはその定義は恣意的に都合よく決められているように感じるかもしれない。それは確かに、理論の整合性や統一性という目的から、都合よく定義されるものではあるが、現実をまったく無視するという恣意性を伴っているものではない。それまでに知られている現実の姿にはよく整合するように配慮され、なおかつ理論としての統一に役立つように工夫されるのが理論における定義なのである。

ペアノの公理系における定義では、普通自然数の性質として知られている定理はすべて証明できるように配慮されている。現実に反するようには設定されていない。これが理論として強力なものであれば、今までは偶然の発見に任されていた自然数の世界というものを、世界全体を把握するきっかけを理論が与えてくれると考えることが出来るだろう。それは、自然数の世界というものが、ペアノの公理系でほぼ埋め尽くされるような論理の結びつきを持っていると考えるからだ。

宮台氏の権力の定義も、現実に存在する権力の持つ性質と齟齬を起こすことなく、それをよく説明するものになっているだろう。そして、それは権力というものの偶然性・例外性を排除して捨象し、法則性をつかみやすい対象を単純化して、現実の複雑な存在をそのまま考えていては得られなかった知見をもたらすことが出来るようになるだろう。それが「権力の予期理論」の理論としての有効性をあらわすものだと思う。

宮台氏は、権力を定義するのに、権力による圧力を感じる(宮台氏は「体験」すると表現する)存在iと、権力を持って圧力をかける(宮台氏は「行為」すると表現する)存在jをまず設定する。このi、jは人間存在が抽象されたもので、両者がどのような行為を選択するかということで、選択した行為の組を「社会状態」という言葉で呼んでいる。「社会状態」という言葉を、そのような行為の組として定義していると理解すればいいだろう。

この行為の選択において、権力を持っている側は自らの行為のどれを選択しても自由だと考えられる。しかし、権力による圧力を受けるほうは、自分が最も望む行為を自由に選択することが出来ない。圧力を受けて制限を感じる。そこに「権力」というものが存在すると考えられる。自由に選べない・主体性を持たない行為は、宮台氏によれば「体験」という受動的な意味として捉えられている。

具体的で単純な例として、宮台氏は強盗jに脅されている市民iというものを設定して考えている。これは抽象的に考えている対象なので、それぞれの行為の選択肢も二つから選ぶものとして考える。それは、ある種の<イエス、ノー>の二者択一の選択肢と考えられている。その選択肢の組み合わせで、4つの「社会状態」が考えられる。それをマトリックス(行列)として捉えると、次のような感じになるだろうか。

               (金を)出す      (金を)出さない
撃たない(撃たれない) x=(出す、撃たれない) y=(出さない、撃たれない)
撃つ(撃たれる)    w=(出す、撃たれる)  z=(出さない、撃たれる)


選択肢を二つしか考えないというのは、現実にはありえない単純化である。しかし、このように他の選択肢を捨象して、二者択一の選択肢として抽象することで理論的にはすっきりする。この後の論理展開の方向が見やすくなる。もし、現実に則して多用な選択肢を認めてしまえば、その選択肢の多さによる場合わけは、理論としての統一性を失わせる恐れもある。

宮台氏は、この4つの「社会状態」をiが選ぶときに、「選好構造」と「予期構造」というものを設定する。「選好構造」というのは、iが何を最も望むか・最も好むかという基準で選ばれる選択肢になる。それはyで表現されている、(金を出さない、撃たれない)というものになるだろう。他の選択肢は、どれもこれよりは劣るものだと考えられるからだ。選好に順位をつけるとすれば次のようになるだろう。

  y>x>z
  y>w

宮台氏は、本の中では上の不等式しか提出していない。「x>w」「y>z」という不等式は、「撃たれる」よりは「撃たれない」方がいいのであるから、自明なものとして除かれているのだろうか。どちらを選ぶか、ということを考えるときには上の不等式が意味を持ってくると考えているのかもしれない。

いずれにしても、iの選好として、自由に選ばれるのならyが選ばれるのが当然であろう。だがここに、iがjの行為を予期するという予期構造を入れて考えると、iの選択はyを選ぶとは限らなくなる。「撃たれない」「撃たれる」というのは、iの体験からくる表現だが、これを「撃つ」「撃たない」というjの立場からの選択を考えると、これが予期構造を与える。すると、「金を出さない」という行為の場合は、jが「撃つ」という行為が続くという可能性が高いと考えられる。この場合の予期構造を示す不等式は次のようになる。

  z>y
  x>w

「撃たれる」というiにとっては避けなければならない状態が、「金を出さない」という行為からはそれが引き出されると予期される。そこで、もっとも望ましい選好であるyは選ぶことが出来なくなる。そこで、「金を出す」という選択の場合に、「撃たれない」という予期のほうが大きくなるxを選択するということになる。結局は、強盗に襲われたiの立場としてはxという「金を出す」という行為が選ばれることになる。

もっとも望ましい選択であるyをあきらめて、その次には最善の選択であるxを選ばざるを得ないということに「権力」の体験を見るというのが宮台氏の抽象だ。宮台氏の文章による定義は次のようになる。

「行為者iが、自分の選択に後続するjの最適選択を予期したときに現実に実現可能だと想定する社会状態の中で、最適選好するものを「現実的最適状態」(x)という。
 行為者iの了解内で論理的な可能性を構成されたすべての社会状態の中に、

  • 1 iが、現実的最適状態(x)よりも上位で選好し、かつ、
  • 2 現実的最適状態(x)を開示するiの選択・とは別のiの選択で開示される、

という2条件を満たす社会状態(y)が、少なくとも一つ存在するとき、「iはjからの権力を体験する」あるいは「jからiへの権力が存在する」という。」


非常に抽象的な言い方で、最初からこの文章だけで宮台氏の「権力」概念を理解しようとすると、まったく分からなくなるだろうと思う。要するに、本当は選択したい行為があるのだけれど、それを選ぶことを断念して、2番目以降の選択肢を選ばざるを得ない体験をしたとき、その体験には「権力」というものが含まれているのだと考えるのだ。この「体験」に含まれている「権力」を抽象すれば、上のような宮台氏の定義になるということだ。

これは、一般に「権力」と感じられるものの対象は、必ずこのような性質が発見できるのではないかと思う。他者との関係で、自分が我慢させられていると感じるときは、そこに何らかの「権力」が発見できるだろう。

この「権力」概念で重要になるのは、予期構造が選好構造の選択に影響を与えて、自分が望まなくても次善の策だと思うものを選ばせるということだ。つまり、「権力」を実現しようとする権力者にとって重要なのは、支配する相手の予期構造を操縦することになる。「権力の予期理論」を悪用しようとすれば、この面でかなりの悪用の有効性があるように感じる。支配されるであろう側の人間は、予期構造のコントロールで、不当な選択をさせられないように気をつけなければならない。

また、悪用ではなく、予期構造をコントロールすることで高い価値のほうを向かせる権力を考えることも出来るだろう。三浦つとむさんは、規範というものを考えるときに、たとえば禁煙のように自分に利益をもたらす規範を考えて、自分を規制することの正当性を論じていた。欲望に任せて選好構造を作ってしまうと、自分にとって損害をもたらす選択をしてしまうかもしれないが、ここに予期構造でその選択をさせないようなものを設定すれば、結果的に損害を防ぐことが出来る。

たとえば、他者を自分の思い通りに行動させたいと思っても、そんなことをすれば嫌われるという予期が構成され、嫌われることのマイナス価値が高まれば、相手の同意を得て自分の希望を実現させるという選択肢のほうにシフトしていくだろう。古い家父長的な権力に慣れている人は、自分が権力をもっていると思うと、相手の同意に関係なく自分の希望を押し付けることが多いが、これも、相手に嫌われるという要素が逆の意味での権力として働くようになれば、強引な思いの押し付けに規制をかけられるかもしれない。

「権力の予期理論」は、メカニズムとしての真理を語る科学ではないかと思う。それは、そのままでは道徳的にはどっちにも転ぶものだ。悪用するのも、正当に有効性を発揮するのも、使い方によっているといえるだろう。民主主義を支える人間なら、それを社会の安定のために利用するという方向を考えるべきではないかと思う。この定義から展開される論理が、どのように実るあることを教えてくれるかを、かなり難しい文章ではあるが『権力の予期理論』という本から学んでいきたいと思う。