宮台真司氏の『権力の予期理論』(勁草書房)を読む 1


宮台氏の最新刊『宮代真司ダイアローグズ』(イプシロン出版企画)に、田原総一郎氏との対談が収められている。田原氏は、ジャーナリストとしては時に疑問符を感じることがあるのだが、ここで語られている宮台氏への観察眼は鋭いものがあるのを感じる。田原氏は次のように語っていた。

「宮台さんの文章を読みますと、まるでロシア語をフランス語で通訳してもらってるみたいで、もう一度通訳がないと分からない(笑)。」


宮台氏の文章の難しさのニュアンスがよく伝わってくるような表現だ。宮台氏の文章が難しいという感覚は、僕だけのものでなく、田原氏ほどの優れた頭脳の持ち主でもやはり難しいのだということがわかると少し安心する。

田原氏が語るように、宮台氏の文章というのは、最初読んだときには、日本語として辞書的な解釈は出来るもののそれは何かの翻訳文のように意味を書き写しただけの外国語のような感じがしてさっぱり分からないという感じがする。だが、そこに書かれていることに何か宝が隠れていることは感じるので、最初は理解が難しくても、何度もそこに帰ってきて何とか理解しようという動機は失うことはない。

『権力の予期理論』も博士論文ということでかなりの難しさがある文章だ。最初読んだときは本当にまったく分からなかったといっていい。しかし何度か読み返し、宮台氏のほかの文章における「権力」概念を学ぶことによってようやく分かる部分が出てきた。それは不思議なことだが、宮台氏がこの文章で解明しようとしたことの全体像がぼんやりと分かってきたという感じがする。

理論の全体像と細部にわたるディテールの理解とはどちらが先というよりも、並行していくような感じがしているが、僕の場合はまずはぼんやりと全体像が分かることをきっかけにして細部の理解が進むという感じがしている。これは、数学によって抽象化に慣れていることが、まずは抽象的な全体像を捉える理解の方向を向いているのではないかと思う。細部を理解しなければ全体像がつかめないと感じる人もいるかもしれないが、進化して専門化した学問は、細部をつかむにはどれだけ膨大な知識が必要か分からない。本質だけを抽象して、末梢的な知識を捨象できれば、むしろ全体像をつかむほうが容易になるのが今の学問の姿ではないかとも感じる。

さて宮台氏は、この本の序章「社会理論が権力概念を要求する理由」でこの理論の全体像の本質を語っている。それがようやくつかめるようになった。それは次の文章に書かれているように思うので、ちょっと長いが引用しよう。

「ここではしばしば素朴な社会学者が考えているような、自由と、それを制約する規範、という単純な二項対立は問題ではない。ホッブスの場合でさえ、社会契約は、個体が自由を発揮するためにこそ要請された。ヒュームは、個人が自由に振舞うときにはすでに黙約が前提になっている、という思考である。先に「その次元では自由にならない基礎」としての制度、という但し書きを付した理由もそこにあった。
 しかしいずれの立場にせよ、社会の存続は(それが合意に基づくか否かにかかわらず)制度や規範を要請する、という思考はどんな立場にも共通である。私はもちろん、この共通の思考伝統に異議を唱えるわけではない。しかし、社会の存続に関する問題が、それで片付いたと考えるとすれば、きわめて問題的である。実際に、従来の社会秩序論は、いつもこの点で問題を抱えてきた。今回はその問題点について考察してみたい。結論を先取すると、その問題とは、社会における「権力」の概念を、適切に基礎付けることが出来ないために、人間の自由と社会の存続とをうまく調停できない、ということである。」


宮台氏は社会学入門講座の「連載第一回:「社会」とは何か」の中で「契約の前契約的な前提、権力の前権力的な前提、宗教の前宗教的な前提──「前◯◯的」とは◯◯の中では不透明だという意味──を徹底的に考察することが、社会学の目的だということになります」とも語っている。これが「その次元では自由にならない基礎」としての制度に当たるものになるのだろう。

自由を保障するような「契約」があるとしても、その「契約」の前提として「その次元では自由にならない基礎」としての制度がなければならない。それは、実際の「契約」においては不透明でなかなか見えてこないものだ。それを考察して解明することが社会学の目的であるとするなら、「契約の前契約的な前提」としての「権力」を徹底的に考察したのが、『権力の予期理論』だということになるのではないか。

このような「契約の前契約的な前提」を徹底的に考察することが社会学の伝統であるなら、そのようなものが存在するという確認をするだけでは徹底しているとは言えないであろう。もしここで終わってしまえば「それで片付いたと考えるとすれば、きわめて問題的である」ということになるのだろう。存在を確認するだけでは単純すぎるのである。それがどのように機能するかというメカニズムをこそ求めなければ、徹底的な考察とは言えないだろう。

「権力」が自由の契約においての基礎になっているということを解明するというのが『権力の予期理論』の抽象的な意味での全体像ではないかと思われる。そして、その際に最も重要な概念として「予期」というものが中心になるのでこれが「予期理論」と呼ばれているのではないかと思う。「予期」というものが、権力というメカニズムにおいてどのように具体的に機能しているかは、理論の細部を理解しなければならないが、おそらくそのような方向で理論が展開していくのではないかと受け取るのは、細部の理解の助けになるのではないかと思う。

「人間の自由」と「社会の存続」というのは、実際にはしばしば対立するものとして現れてくる。自由が行き過ぎると社会の秩序が乱れ、社会の存続が危ぶまれるという恐れが抱かれる。うまく調停できないという問題が現れる。この問題は、自由の基礎として「権力」があるのだということだけからでは調停する整合的な方向を見出せないのではないかと思う。

自由というのは、望ましい自由と望ましくない自由があるだろうと思う。望ましい自由は制限せず、望ましくない自由は「権力」によって制限するということをすれば、自由の基礎としての「権力」が存在するという命題にしたがっているような感じはする。しかし、これはいつでもうまくいくとは限らない。あるときはさらに深刻な問題を引き起こすという弊害さえ生まれる。

かつて学校に校内暴力が吹き荒れたとき、それを上回る教員の暴力という「権力」によって、望ましくない自由を弾圧して治めたときがあった。これは、一見すると自由と秩序の問題をうまく調停したようにも見えた。しかし、この結果として陰湿ないじめが学校に蔓延するようになったというのは、多くの人が指摘した正しい指摘だったのではないかと思う。この権力の使い方は、どこかが間違っていたのではないかと感じる。うまく調停が出来なかったのではないだろうか。

宮台氏の理論によれば、「権力」の要素として最も重要なものは「予期」であり、「予期」のコントロールによって「権力」を実現するというメカニズムを語っている。暴力という実体的な「権力」の機能を使うのは、緊急対策的なやむをえない処置ということになるのではないだろうか。「権力」で安定的な秩序を生み出し、それを基礎にして自由を実現することを考えるなら、制度的な「権力」で「予期」をコントロールするという方向こそが正しいのではないかと感じる。そのメカニズムを「権力の予期理論」が教えてくれるのではないだろうか。

「予期」をコントロールする権力というのは、社会の安定にはかなり役立つものだと思うが、諸刃の剣にあたる危険性もある。世の中に現実に存在するものは、100%いいものだけをもたらすのではなく、そこには誤謬や悪に転化するものが必ず含まれている。宮台氏がよく指摘するのは、一部のエリートだけがその構造を知っていて、大多数の大衆がそれを知らないという社会構造だ。これにはどのような問題があるだろうか。

権力のメカニズムがうまく回っているときは、われわれはそこに権力の存在を感じることが出来なくなる。われわれは自由意志で自分の行動を選んでいると思い込んでいるが、実はある種の社会構造を設定することで、ほとんどの人がある行為のほうを選択するように働きかけることが出来る。それを知っているのはごくわずかのエリートだけでも、社会がうまく回っていれば、あとの人は知らなくても幸せだからいいじゃないかといえるだろうか。

世の中を動かしているエリートたちが、いつでも100%信頼できる優れた人々であるなら、心配はあまりないであろう。しかし、人間の歴史は、どれほど優れたエリートであろうとも間違いを犯すということを教えているのではないだろうか。エリートにすべてをゆだねて大衆が何も知らずに安心しているという図式は危険ではないだろうか。大衆自身も、社会が安定しているのは、権力のメカニズムがうまく動いているからだということを理解しておく必要があるのではないだろうか。大衆社会と呼ばれる民主主義社会、特に近代成熟期における民主主義社会では特にそれが必要なのではないかと感じる。

このように考えると、「権力の予期理論」という抽象論は、それが抽象的な理論である限りでは、それが善であるとも悪であるとも言えない、単なる真理を語った命題に過ぎないといえる。その真理が、どのような方向で適用されて利用されるかによって、それが現実に善なる効果を生み出すか、悪として働くかが生じるのではないだろうか。

科学というのはそういうものだろう。それが真理であることは確かだが、使い方によって善にもなり悪にもなる。大衆が科学をよく知らなければ、科学はエリートの使いたい方向で使われることになる。それが、大衆にとっても常に善である方向で使われていればよいのだが、かつての公害における科学の使われ方などを思い出すと、必ずしもそうなっていないようにも感じる。

「権力の予期理論」は、それを応用したときの影響の大きさは計り知れないものがあると思う。それはかなり難しいので、まだエリーでさえも十分に利用し尽くしていないようにも感じる。だが、これがかなり有効であることに気づけば、エリート層は利用してくることだろう。そのときに、自分が分からないうちに権力にコントロールされるという、悪用の面にだまされないためにも、「権力の予期理論」について知っておきたいと思う。大衆的な利益のためにこの理論が応用されるように、監視できるくらいの理解をしたいと思うものだ。