歴史観という先入観(価値観を伴った思い込み)


戦争の記憶を語るときに、日本政府の見解が中国や韓国から批判されることがある。これは、被害を受けた人々の見方は、加害の立場での見方とは違うということを物語っているのだが、その際に「歴史認識」とか「歴史観」という言葉で語られている内容はよく考えると難しいものだと思う。

歴史というのは、もともとが過去の出来事をどう解釈するかということがその内容になる。つまり、解釈という点においてはさまざまな解釈が可能になる。正しい歴史解釈などというものは、究極的にはありえない。だから歴史は物語に過ぎないという理解も出てくるのだが、一方では、それぞれが勝手に思い込んだ歴史ではなく、大多数の人が賛成する客観性の程度の高い歴史解釈もある。

事実を確定することの難しさは、裁判などで物的証拠が見つからないという難しい場面で想像することが出来る。しかし、一方ではそのような難しい裁判はごくわずかで、たいていの裁判は簡単に結論付けられた事実によって判断される。裁判における事実の確認は、ごく短い間の歴史を確認していると考えれば、歴史においても確定が難しい事実と、確定が比較的容易に出来る事実とがあると考えたほうがいいのではないか。

確定の難しい事実に関しては、それは仮言命題的に語っておいたほうがいいのではないだろうか。もしこのようなことが起こったならばこうなったはずだと言えるような、仮言命題的な言い方をしておいたほうがいいのではないだろうか。

そして歴史を社会科学として考えようとするなら、比較的容易に事実が確定できる事柄を中心に考察していくことがよいのではないかと思う。その際には、歴史観を一つの先入観として自覚して考えることが重要になるのではないだろうか。歴史を解釈するときには、その解釈の前提になるようなある種の先入観がどうしてもある。われわれは言語を用いて思考を進めるが、言語の意味というのも一つの先入観になりうる。そういう意味では、われわれはものを考えるときに先入観から逃れることは出来ないといえるだろう。逃れることが出来ないなら、これを自覚的に捉えないと、気づかないうちに間違いに陥る可能性があると思う。

南京虐殺は「おこった」のか』(クリストファ・バーナード・著、筑摩書房)という本がある。これは、高校歴史教科書に書かれた「南京虐殺」事件の記述を、言語学的に批判して、そこに隠された歴史観を抽出しようとしたものだ。その文章が事実を表現したものであっても、表現の仕方に歴史観が読み取れるということを語っている本だ。違う先入観を持っていると、同じ事実を表現してもどのようになるのかが違ってくる。これは歴史観という先入観を反省するには参考になる本だと思った。

この本では、実際に教科書に載せられている表現の例として次のようなものを挙げている。

「ドイツは突然、ポーランドに侵入した」
日本海軍は真珠湾奇襲攻撃を行った」


この二つの文章で語られている事柄が事実でないと主張する人はほとんどいないだろう。事実の確定が容易な事柄ではないかと思う。それが容易なのは、細部を語らず、大きな観点からの出来事を捉えているので、末梢的な部分での間違いを見なくてすむからだろう。

さてこの二つの文章は事実を語ったものであるが、その表現からある種の先入観を読み取ることが出来る。まずは両方の主語の違いに注目をする。「ドイツ」は国家であるが、「日本海軍」は国家の一部であり、重要ではあるとはいえ、ここからは日本の戦争は突出した軍部が主導したのであって、国家=国民がそれを望んだのではないというようなニュアンスが感じられる。

また戦争を仕掛けた対象として、「ポーランド」と「真珠湾」というものを比べてみると、ドイツは国家を蹂躙していて、そこに大きな野望を感じるが、日本が起こしたものはある地域の事件であるかのような印象を受ける。このあたりのニュアンスを、上の本では次のように指摘している。

「たとえば、最初の文章では「国」に付いて書いてあるのに、第二の文章では「海軍」と「場所」なのはなぜなのか。こうした例はここだけではなく、教科書のどこにでも見られるパターンの見本なのである。実際、88点の教科書のどれ一つとして1941年に日本が他の「国」を攻撃したとは書いていない。しかし、ドイツがポーランドを攻撃しているとは、全88点のうち83点が書いている。
 攻撃がどのように行われたかも調べてみたい。ドイツの場合、攻撃のやり方は文章でかなり明らかだといえる。ドイツについての文章では攻撃のやり方(「突然」)ははっきり述べられている。しかし、日本の場合は、「どうやって」がほとんど触れられていない。事実、「奇襲攻撃」という言葉の中にほぼ消えてしまったのである。つまり「突然」という副詞が「奇襲」という名詞に変わっている。さらに「行為」についてはどうだろう。最初の文章ではかなり明らかである(「浸入した」)。しかし、二番目の文章は「行った」とあるのみで、これはさしたる意味を持たない動詞である。名詞(「奇襲攻撃」)を見て具体的行為を組み立てなおすしかない。実際にはどういう行為があったかを知るために動詞ではなく名詞を見るしかないということは、時としてその文章がメッセージの主要部分を軽視していることだ。」


ここで批判されている教科書は1995年度のものなので、その後批判された個所は修正されているかもしれないが、歴史観という先入観を反省する材料としては、ここでの指摘は参考になるだろうと思う。特に「浸入した」という動詞には「不法性」「不当性」というニュアンスがこめられているが、「奇襲」という名詞にはそのようなものがないというのは、先入観を考える上では重要だろう。「奇襲」というのは、単なる戦術の一つであって、うまくやるのなら賞讃されることでもあったりする。

誤解してほしくないのは、このような先入観が何か道徳的に正しくないとか間違っていると僕が主張しているのではないことだ。道徳的な価値判断というのは絶対性がないので、それを非難しても仕方がない。むしろ、道徳的な価値観が入り込むニュアンスを持った先入観は、よく自覚しておかなければならないという主張をしたいのだ。

人間は先入観から逃れることは出来ない。それならば、どのような先入観を持って対象に切り込んだほうが効果的なのかを考えたほうがいいのではないかと思う。板倉さんは、「よい先入観」「悪い先入観」というような言い方をしていたように思う。これは、道徳的な善悪に対応した「よい」「悪い」ではない。対象の本質をクローズアップして見やすくするような先入観が「よい先入観」であり、末梢的な部分に流れて本質から遠ざかっていくような先入観が「悪い先入観」というものだ。

真珠湾奇襲攻撃」が戦争の歴史において大きな意味を持たない事件であれば、このような呼び方でかまわないだろう。それは一地域で起こった事件に過ぎないのだ。そういう先入観で眺めていることになる。しかし、これが日本の戦争の全体で重たい位置を占めるものであるのなら、それをよく反映する言葉を選んで表現したほうがいいだろう。そうすることで「よい先入観」に結び付けていけるのだと思う。

「よい先入観」を身につけるには、何が本質であるかという、本質を見抜くセンスを磨かなければならないだろう。それは、はじめのうちは失敗が多いと思われる。失敗を繰り返すことで、自分の先入観に対する自覚を高め、反省を繰り返すことでセンスが磨かれていくだろう。

自分がどのような言葉を使い、どのような言い方が対象にぴったりすると感じるかは、自分の先入観というセンスを教えてくれるものになる。たとえば、僕は「南京大虐殺」という言い方にだんだんと違和感を感じるようになった。これは説明が難しいところもあるのだが、「大虐殺」ということが、客観的に証明できない事柄なので、そのように呼ぶことで何らかの間違いに陥らないかが気になるのである。

「大虐殺」という言い方はかなり情緒的・感情的な言い方で、人によってそうだと判断する基準に違いが出てくる。あまりにセンセーショナルな言葉遣いは、それがプロパガンダだと言われたときに反論が難しいのではないかと思う。しかしこれを「南京事件」と呼んでしまうと、そこに含まれている不当性のニュアンスが薄れる。なかなかぴったりくる言葉が見つからないというのが今の状況ではないだろうか。それだけに、あちこちからいつまでも論じられる難しい問題になっているのだろう。

僕自身は、南京での出来事は不当性をはらんでおり、日本軍の行動を象徴的に示すものではあると思うが、特にひどいものだったかは疑問に思っている。むしろ、日本軍というのは、前近代的なその組織形態が、日常的にひどい状況を作っていたために、南京での戦闘をきっかけにしてその日常のひどさが溢れ出したと理解したほうがいいのではないかとも思っている。本質は、日常的なひどさのほうにあるのではないだろうか。

日本の軍隊の中には、今の学校のいじめよりももっとひどいいじめが日常的にあったらしいし、鬱積した不満をさらに弱い立場の人間たちにかぶせたというのも日常的だったのではないだろうか。こちらのほうが、日本軍の問題としては本質的であり深刻なものだったのではないかと僕は感じる。「南京事件」はセンセーショナルで衝撃的ではあるけれども、本質を外れるという点では「事件」と呼んでもいいのかもしれないと感じている。

ある事柄をどのように呼ぶかはそれをどのように認識しているかを示すというのは、現在の事柄についても当てはまるだろう。「週刊ミヤダイ」では、相手をしているアナウンサーが「ホワイトカラー・エグゼンプション」のことを「残業代ゼロ法案」と呼んでいた。この呼び方から、その人がこの法律をどう捉えているかが分かるだろう。宮台氏によると、推進派はこの次には「休日確保法」という名前にするかもしれないと言っていた。

「通信傍受法」と「盗聴法」との間にも、それをどう見るかという先入観の違いが現れているだろう。どちらの先入観のほうが本質に近づいていけるのか。言葉の意味と表現に敏感になるというのは、現代社会を正しく把握するのに役立つことだろう。