ナショナリズムの一般的意味と日本における特殊性


宮台真司氏が「宮台真司 週刊ミヤダイ」というインターネット・ラジオの放送でナショナリズムについても語っていた。暮れの最後の放送で語っていたのだが、これも「目から鱗が落ちる」という体験をさせてくれるもので、それまで持っていた先入観に揺さぶりをかけて、もっと役に立つ「よい先入観」を与えてくれるものに感じた。

ナショナリズムは一般論として考えれば、それは必ずしも悪いものではなく、むしろ良いものとして受け止められるものだと宮台氏は語る。それはよく考えてみればそのとおりだということが分かる。ナショナリズム愛国心とつながるものだが、自分が生まれた国というのは自分で選ぶことが出来ない。それは自分の親を自分で選べないのと同じだ。

自分が誰の子供として生まれるかは生まれてみないと分からない。そうであれば、親を愛するというのは、自分を生んでくれたという事実からそのような感情が生まれると理解しなければ、何か他の理由で親を愛するなどということでは理解できなくなる。なぜなら、自分がその親から生まれたというのは否定しようがないが、何か他の理由のほうは、それがなかったら親を愛せないのかという否定が考えられるからだ。

自分の出自に対して、それが愛するに値するものでなければ、自分が立っている基盤そのものが不安定になってしまうだろう。親を愛するというのは、自分の存在が安定するための条件でもある。親を愛することが出来ればこそ、自分がこの世に生まれたことに大きな意味を与えることが出来る。だから、自分がよき人生を生きているという実感は、親への愛が支えているといってもいいだろう。

国へ対する思いも、このような気持ちを抱くことが出来るならば、その国で生きていくことに対して安定した気分を作ることが出来るだろう。自分がそこで生まれたという運命を受け入れて、その国にいるからこそ幸せだと思えれば人生は充実したものになるだろう。だから、普通にはナショナリズムは自分を幸せにしてくれるものとなる。

ナショナリズム一般を考えればこのように理解できるのに、日本ではナショナリズムが戦争の記憶に結びついているために、このような一般論が成立しないと宮台氏は指摘する。そのため非常にゆがんだナショナリズムが蔓延しているという。それはゆがんだ愛国心にも結びついているという。

宮台氏が考えている愛国心とは、パトリオットと呼ばれる人々が持つ「愛郷心」に近いもののようだ。仲間との連帯を基礎にしたわれわれを支える郷土というものを愛する気持ちだろうか。この感情は具体的なものと結びついた実践的なものとなる。これが基本になって、幻想の共同体である国家への愛国心へと結びついていくのが、本来の愛国心だということになる。この愛国心は草の根の愛国心だといえるだろう。

この草の根の愛国心は本来の右翼思想にも結びつくという。真性右翼は、草の根の愛国心を基礎にしているので、この愛国心と国家の動静が矛盾するような場面に遭遇したら、パトリを壊すような国家を否定し、それに抵抗することこそが正しいという判断をする。真性右翼にとっては、国家に対する態度は無条件の愛ではなく、本来のパトリのために行動しているか、間違った道を歩んでいないかを注視するという「憂国」の態度になる。宮台氏のこれまでの主張と整合性のある統一されたものになるわけだ。

明治維新前までの日本は、それぞれの藩が国家のようなものだった。だからそこでは草の根の愛国心に近いものがあっただろう。その基礎を持ったまま日本という大きな国家が出来上がれば、われわれはゆがんだナショナリズムを持たずにすんだだろう。しかし日本の歴史はそのような道を歩まなかった。

日本は遅れた近代化の道を歩んだために、国民一人一人がパトリオットとしての愛国心を育てて国家を構成することが出来なかったと宮台氏は言う。それは、当時の日本という国家を主導するエリートたちが、無理やり注入しようとした国家意識だったという。これはその当時としては必要不可欠なやむをえない面もあったようだ。小さな藩が国家のように振舞っていたら、進んだ西欧列強の前に日本はひとたまりもなく植民地化されてしまっただろう。それを防ぐために急いで近代化をして国家のまとまりを作らなければならなかったという。

そのために明治政府が取った方法は、国民一人一人を教育して自覚を高めて国家を構成するという方法ではなかった。そのようなことをしていたら間に合わないと思ったのだろう。明治政府は、国家としてまとめるために、その邪魔になるような「愛郷心」をつぶして、自分の存在の基盤を失わせたあとに、幻想の共同体としての国家こそが自分の尊厳を支えるものだという意識を植え付けたという。

西郷隆盛などがこのような方向に反対をしたのは、西郷が真のパトリオットだったということなのではないかと理解できる。しかし、結果的には明治政府の方向が成功し、日本国民としての意識を持った日本は驚くほどの速さで近代化をし、アジアの国では唯一植民地化されなかったという結果になった。

だが草の根の愛国心を破壊して作り上げた愛国心は、国家に対する「憂国」の念を抑えるようなゆがんだ愛国心になったようだ。草の根で自分を支えるものを失った人間は、国家が提出する崇高なものという柱にすがるような「さびしい輩」になると宮台氏は指摘する。柱がなくなってすがるものがなくなってしまえば、自分自身の尊厳も失われてしまうので、柱としての国家を守ることが愛国心であるということになるだろう。

このような愛国心では国家を批判することは出来なくなる。国家を操縦するエリートたちが腐敗したときも、それを正して修正するということが出来なくなる。間違った道にはまったらそれを転げ落ちて、もはや取り返しのつかないところまで行くしか止めることは出来なくなる。それが軍国主義から敗戦までの道のりだったのではないだろうか。

戦争の歴史は、ゆがんだナショナリズムが引き起こした失敗だった。この失敗と結びついたナショナリズムだからこそ、日本ではナショナリズム一般が悪いもののようにイメージされてしまったようだ。

実は、敗戦を機にこのナショナリズムのゆがみを直す方向も日本国民には選べたという。しかし、それはアメリカの統治政策が望まなかったと宮台氏は語る。アメリカが天皇の戦争責任を追及せずに、それを統治の手段として利用したという。天皇という崇高な存在の柱にすがる心性を残しておいたほうが、天皇が望んでいるという形でメッセージを送ることによって日本国民を統治することが容易に出来ると考えたらしい。

天皇が民主主義を望んでいる、天皇が平和主義を望んでいる、天皇アメリカとの友好を望んでいる、という形でメッセージを送れば、日本国民はほとんどそれに疑いを持たずに従うという計算があったようだ。このために、ゆがんだナショナリズムの温床はそのまま残されてしまったようだ。

このゆがんだナショナリズムから発生する愛国心は、宮台氏は「国粋主義」と呼んでいる。これは、国家という存在を崇高なものとして考えて、その柱にすがるような思想だ。国家から国民を見る考え方で、国家の命令に従わない人間を非国民と考えるような考え方だ。

この「国粋主義」は、草の根を持たない「さびしい輩」はこれにすがるしかない。ということは、地域が空洞化し、会社共同体が空洞化し、家族が空洞化している現在は、「さびしい輩」がかなりの多数を占めていると考えられるので、国家にすがる人間も増えているのではないだろうか。自分の周りに仲間と呼べる存在がいないと感じられたら、幻想的な共同体であっても国家という柱にすがったほうが自分の尊厳を保つことが出来る。括弧つきの「右翼的」なものが氾濫する今の状況は、このような「さびしい輩」が増加する状況から生まれているのではないかとも感じる。

ゆがんだナショナリズムが再び間違った道を歩まないように、これを正しく批判していかなければならないのだが、この日本の特殊性ゆえに、ナショナリズムそのものを否定するという行き過ぎた批判の方向へ向かう恐れもあることを宮台氏は指摘する。柱にすがれと主張する国粋主義が間違いであることは確かだが、柱そのもの(=国家)を否定する括弧つきの「左翼」的思考も間違いだという。

戦後の日本の豊かさは、戦前の間違ったナショナリズムから生まれた軍国主義を否定したところから生まれた。それを続けていたらこのような豊かさは得られなかっただろう。戦後の自由な社会は、それが行き過ぎた間違いもあっただろうが、基本的には人々の労働意欲を高め、豊かさをもたらした。その豊かさを享受しているのに、戦前回帰のような「国粋主義」を主張するのは、現状をまったく正しく捉えないでたらめな愛国心だと宮台氏は言う。

それと同じように、現在の国家が提供する豊かさを享受しているわれわれが、国家そのものを否定するのは、国家の便益にただ乗りしている公共心のない無知な輩だということになる。どちらも行き過ぎた間違いだということになる。否定するのは国家ではなく、現政府・現統治権力でなければならない。これらの発想を宮台氏は、「バカ右翼」「バカ左翼」という言葉で表現しているが、どちらにも行き過ぎないバランスのとれた発想が必要だろう。

国家にすがるのではなく、国家を批判的に監視する目をもち、しかも国家を否定せず国家の役割をよく理解するというバランスを持たなければならない。このようなバランス感覚はどうしたら育てられるだろうか。板倉さんが語っていた「よい先入観」を持つにはどうしたらいいだろうか。

ゆがんだナショナリズムのゆがみを直す先入観はどのようなものになるだろうか。宮台氏は根が必要だと語っている。その根はどのようにして作られるだろうか。それはどのような教育によって育てられる根なのか。それはたいへん難しい課題で、なかなかこれだということがいえないものだろうと思う。だが、教育再生会議が提出するような、道徳教育の強化や、規律の強化・愛国心の教育でそれが作られるとは到底思えない。それは戦前回帰の「国粋主義」を育てるだけなのではないか。

日本のエリートも根を無くしているのではないだろうか。政治を主導するエリートたちが、国粋主義こそが愛国だと勘違いしているような気がする。「さびしい輩」であるエリートたちが、柱にすがれと主張しているような感じがする。草の根の庶民は、これを拒否して、本当の根を作る努力をしなければならないのではないかと思う。仲間との連帯をどう作っていくか、これこそが重要な課題ではないかと感じる。