常識をひっくり返すことの楽しさ


以前に宮台真司氏が、理論活動の醍醐味として、当たり前の前提から驚くべき結論が導けることというものを語っていたことがある。誰もがよく知っている当たり前のことからは、普通は平凡なつまらないことしか導かれないように見える。しかし、本質を捉えた理論活動は、当たり前のことが覆い隠していた真理をさらけ出し、その衝撃的な面を見せてくれる。そんなときに理論活動というものの見事さを感じると言うのだった。

今まで隠されていた衝撃的な事実が暴かれるというのは、ジャーナリズムの世界では大スクープとして歴史に残るときがある。しかしそのようなことは少ないし、近代成熟期のように情報が管理されるような社会になったら、おそらくそのようなスクープはもう見られないのではないかと思う。スクープでさえも操作されるような時代が近代成熟期ではないかと思う。

専門家であればまだ隠された情報に接する機会もあるだろうが、それが衝撃的なものであればあるほど、それを発表する機会はなくなるに違いない。権力の側が望まない情報は隠され、権力の側が望む情報は、その情報の真理性を検証することなくマスコミによって大量に流されることだろう。それに対して、どの程度検証されているかと批判することは大切なことではあると思うが、今の時代にあっては批判としてはそれは弱くなってきているのを感じる。「うそも繰り返せば真実になる」というヒトラーの手法は、より洗練されて現在の時代に拡大されているのではないかと思う。

こんな時代に、細かい情報を持たない大衆の側にいてできることは、当たり前の事柄から本質を導き出す理論活動に当たるのではないだろうか。小林良彰さんは、理科系的な学問は、設備や金がなければ肝心の情報が得られないということで、紙と鉛筆さえあれば理論活動で真理に迫れる文科系的な歴史という学問に転向したという。

その小林さんが書いた『複眼の時代』(ソーテック社)という本は、昭和51年に書かれた本でありながら、今の日本社会を正しく予言するような部分もあり、しかもそれがその当時も今もよく知られている事柄だけを根拠に論理を展開して導かれているのにすごさを感じる。まさに理論活動の見事さを体現したもののように感じる。

小林さんの主張を字面だけ受け取ると、何か日本の長所だけを取り上げて、それこそ「美しい国、日本」というようなものとして受け取れたりするので、それこそが常識的なものではないかと思われるかもしれない。しかし、左翼的な常識から言えばそれは常識はずれではないかと思えるもので、これは言い換えれば学問の世界では主流ではない常識はずれの主張になるのではないかと思う。そのような常識はずれと見える主張なのに、その論理展開をよく理解するとその主張の正しさが分かってくる。そこに理論活動の見事さを僕は感じる。

小林さんが主張するのは、たとえば「江戸時代までに日本は世界史的水準に達した」というものだ。これは、現在の日本でさえもまだ遅れた国だと思っている人のほうが多いのではないだろうか。ましてや、左翼的な発想では、このような主張は、日本の長所を誇大に言い立てる愛国心をあおる言説に見えるのではないだろうか。しかし、小林さんの説明を聞くと、確かに日本は「江戸時代までに日本は世界史的水準に達した」というのが事実だと感じる。

そして、このことが事実なら、そのようなすばらしい日本を建設した、先人たちに誇りを感じてもいいのではないかと思う。それが愛国心というものならば、僕は事実としてすばらしかった先人を尊敬する気持ちは、歪んではいない愛国心ではないかと思う。それは押し付けなくとも、自然に心の中に生まれてくる気持ちではないかと思う。

さて、小林さんは国家の歴史というものを、「発展から遅れたものには自己の運命を選ぶ権利がないというのが、現代にいたるまでの人類歴史の基本法則であった」とかなり冷めた目で眺める。小林さんは、「停滞している国家は、より発展した国家、民族、人種に接した場合、進んだものを取り入れていち早く肩を並べるか、それとも征服され、衰亡させられるかのいずれかの道を選ぶことを要求される」とも語る。

こういう言い方は、一見侵略を肯定するような反動的な言い方に見えるかもしれない。しかし、ここで肯定されているのは、侵略行為というものではなく、国家の侵略の歴史における法則性が肯定されているのである。道徳的にはどうであれ、遅れた国は進んだ国に植民地にされ侵略されたという事実の中に法則性があったということが肯定されている。それが善であるのか悪であるのかという判断はここにはない。これを読み間違えると、道徳的判断が事実の判断を邪魔することになってくるのではないかと思う。これは、理科系的に冷たい目で見なければならないことであって、文科系的な情緒を入れた判断をすべきではないと思う。

このような一般法則を認めるなら、論理的な帰結としては、植民地化されなかった日本は少なくとも遅れた国ではなかったという結論が導かれるだろう。現在の日本はアメリカの植民地のようなものだといわれているが、その判断はまた別の要素が入ってくるので、ここではあくまでも江戸時代の日本について考えておきたいと思う。

日本が植民地化されなかったというのは、誰もが知っている事実である。だがそのことと、日本が当時の先進国であったということとを結びつける理論活動はなかなか難しいのではないかと思う。しかし、日本は、アジアの中では最先進国であったことは間違いない。このことが戦争の歴史とも深くかかわってくるので、このような認識をもつと、戦争の意味も少し違ったものになってくる。常識的に流通しているような、日本の戦争が侵略戦争の面が大部分であったというのにも疑問を持つようになる。このあたりも、単純に小林さんの主張を受け取ると、反動的な侵略戦争肯定論のように見えてしまう。これほどの見事な理論であってもまったく知名度が低かったのは、当時のマルクス主義全盛のころの学問の世界というのが影響しているのだろうと思う。少しでも日本の進歩した面、戦争等の肯定面を主張すれば、反動的理論として無視されたのではないだろうか。

歴史的事実としての「元寇」というものもよく知られているものだが、これを撃退したものは「神風」であり、日本は幸運であったというのが俗説としての常識ではないだろうか。小林さんは、これに対して「日本がそれなりの発展した国家となっていたことを示す」といって違う解釈を提出する。神風などなくても、日本は元の侵略を撃退できたはずだという。次のように解釈を語っている。

「当時の武力からすれば、たいした優劣はなかったのであり、しかも武家政権の下に国家的統一が維持されていたことを思えば、たとえ上陸させても、全土の征服を許すことはありえなかったであろう。また、ともかく上陸して進撃することを許さなかったという意味だけでも、それなりの進んだ条件を備えていたといえる。」


当時の武力では1対1の戦闘行為が基本だっただろうと想像できるし、たとえ最初に武力で勝利したとしても、相手を屈服させた状態を続けるためにはかなりの大量の戦力をそこに割かなければならなかっただろうし、何よりも、日本も国家として統一されていた部分があったために、小さな単位を破るだけでは侵略が成功しないという点は重要なものだったのではないかと思う。小林さんが語ることのほうが、神風のような偶然性で片付けるよりも説得的だ。事実には合理的な説明がつけられるものなのである。神風を持ち出すのは、そのことについては本当のことは分からないと宣言するようなものになってしまう。

また、日本は鎖国の間に世界の進歩から取り残されて遅れた国になったというのが俗説としての常識ではないだろうか。これに対しても小林さんは、むしろ封建制という面では、当時の日本は先進国であったと主張する。これは、今の時代から振り返れば封建制などは遅れた時代に見えるが、その前の時代から比べれば、封建制のほうが国家として進歩しているという観点がなければ、封建制としての先進国という見方は出来ない。このような見方においても、事実として受け止めることが大事で、封建制だから進歩していないという道徳的な観点で見てはいけないと思う。

日本が進歩したことの根拠としては、小林さんは恵まれた自然と、それを背景とした人口の増加などを挙げている。歴史を見る観点として、人口統計の重要性を板倉さんも指摘していたが、理科系的な観点は同じような発想になるのだろう。小林さんは、日本の進歩性を次のように語っている。

「集約農業と疎放農業の相違、人口密度の相違はあるが、大陸諸国に比べて、日本人の個人的な自立性が高いことは、西洋の学者の多くが指摘するところであり、西洋と東洋を比較する場合にも、日本は別であるという但し書きをするものが多い。これは地理的、気候的条件が長い期間に渡って人間に影響を与え、一定の気質を形成してきたことにも関係があるのであろう。特にそうした指摘は、封建制の中に形成される契約関係、すなわち、自立した個人と個人が契約に基づいて主従関係を結ぶという意味をめぐって行われ、ヨーロッパの封建制によく似たものを探すとすれば、それは日本の封建制に見られるといわれる。」


日本人の「自立性」などというと、そんなものはないと思う人もいるかもしれない。確かに近代民主主義の時代における「自立性」という観点から見れば、日本人にはそのような「自立性」は乏しいように見える。しかし、ここで考察しているのは封建制における「自立性」であるから、現在の観点からのものではないと受け取ったほうがいいだろう。

厳しい自然条件で生きていく大陸の人々は、集団で協力的でなければ生存そのものが危うくなるということがあったが、穏やかな自然に恵まれた日本では、封建的な支配関係はあっただろうが、その中で許される「自立性」は、他のアジア諸国よりも大きかったという判断だ。そしてそれはヨーロッパの封建制に近いものがあったと小林さんは判断しているようだ。これに対しても「近い」という判断であって、条件の違いからくる相違点はあったものだと思われる。

ヨーロッパの国は陸続きであり、他の国の圧力を感じながらの封建制であるから、国家の対抗する力を強くするための封建制だっただろう。強い国家のための封建制であり、それをより効果的にするための人間の自立というものがあっただろうと思う。日本にはそのようなところは、島国であるという条件からはなかったように思われるので、その点では質の違う自立になっただろうと思う。

江戸時代には、日本では「和算」と呼ばれる数学が発達し、それは世界的な水準の高さを誇った。これなどは、封建制の中で許される自立の範囲での創意工夫として、日本が封建制国家として先進国であったことを示すものになるのではないかとも感じる。

また、日本が先進国だったという「先入観」で眺めると次のような発見もある。アジア諸国が植民地にされた時代に、ポルトガルやオランダが日本を植民地にしなかったのはなぜかという解釈をすると「日本の側にそれ相当の生産力の高さ、軍事技術の進歩、文化水準の高さがあったためである」と小林さんは語っている。

小林さんが提出する「先入観」で歴史を眺めれば、日本のすばらしさがいくつも見つけられる。無理やり愛国心を育てるために、歴史を解釈する必要はなくなる。その論理の合理性を理解さえすれば、愛国心などは自然に生まれてくるように感じる。法律の条文に入れる必要などないだろうと僕は感じる。