理科系(数学系)的発想と文科系(芸術系)的発想


江川達也氏がゲストとして出たマル激では、江川氏とともに宮台氏が理科系と文科系について言及していた。これを「数学系」「芸術系」と呼んだほうが正確だろうというような発言だったと記憶している。僕もそう感じた。

日本の大学では経済学は文科系のほうに入っているようだ。しかし現代経済学というのはほとんど数学の一分野のようになっている。アメリカなどでも経済学でノーベル賞を取るような学者はほとんどが数学系の出身ではなかったかと思う。映画「ビューティフル・マインド」で描かれたジョン・ナッシュなどは数学の天才として描かれていた経済学者だ。

法学の分野では、ほとんど記号論理学を基礎教養として学ばなければならないようになっているとも語っていた。理論活動をする分野ではますます数学の必要性が高まっている。江川氏などは、客観的な判断を必要とする仕事はすべて数学の能力を測るべきだなどという暴論を吐いていたが、これはある面では当たっているのではないかと、自分が数学系の立場であることを差し引いてもそう思う。この場合の数学は、いわゆる学校数学のような公式を覚えていれば答えが出てくるというものではなく、思考の過程を重視する論理の流れとしての数学を理解する能力ということになる。

江川氏は、文科系の学問というのは、理論活動ではなく「味わい」を述べる鑑賞に過ぎないという指摘もしていた。これは文科系のほうからは反発と反論が出てくるものだと思うが、文科系と呼ばずに、「芸術系」と呼べばある意味では当たり前のことを語っているのではないかと思う。芸術というのは、まさに味わいが重要なものであり、鑑賞において同じものを感じなくても、それは観賞の主体の条件の違いによるものであり一般法則はないものとして捉えなければならない。

対象のより細かい部分を鑑賞でき、深い味わいが出来るということが芸術における高い評価になるだろうと思う。だが、同時に芸術においては、その対象に深い味わいを感じなかったとしても、それですぐに鑑賞能力が低いということにはならない。万人に共通に認められる真理というのは、芸術では成立しないのだと思う。ここが「数学系」の科学と違うところであり、この違いで人間の活動を分類すれば、大学での学問はほとんど「数学系」になるのであって、文科系という分類が必要なくなるのではないかと思う。

文科系の学問は味わいを語るだけだという江川さんの言葉を、文科系への悪口だと取るのではなく、もともと文科系という分類があまり意味のないものであって、理論活動の基礎には論理があり、論理を基礎にしたものはすべて「数学系」だと理解してしまえば、今まで文科系の学問だといわれているものを専攻している人も、それは実は「数学系」だったと再認識すればいいのではないかと思う。そして、そう認識したほうが、おそらく客観的な判断においては、感性に揺さぶられることが少なくなるのではないかと思う。

学問的な意味での「数学系」と「芸術系」の区別を、日々の出来事の判断にも応用すると、感情のフックに引っかかるような、頭でよく考えた後に結論を出すことの出来ない、条件反射的に反発したり、賛成したりするような問題に対処したときに、目を覚ますための技術として使えるのではないかと思う。最近の出来事では、柳沢大臣の「女性は子どもを産む機械」という言葉に対する反応になるだろうか。

このような言い方は、「数学系」的な文脈であれば、単なるたとえとして語られていると理解できるのでまったく問題ではない。機械は生命をもたず、人間としての女性は生命をもっているという違いはあるのだが、何らかの抽象過程においては、そのような特殊性を捨象できる過程がある。特殊性を捨象して共通性を抽象できるなら、それは両者を一緒くたにしてもまったくかまわない。数学における抽象というのはそういうものだ。

だから大事なのは、柳沢大臣がどのような文脈でこの言葉を使ったかにあるのだが、それはまったく報道されない。ジャーナリストでもないわれわれには、報道されなければ文脈がどうだったかは永久に分からない。それでは、この言葉に対する評価はわれわれには出来ないということになるだろうか。僕は仮言命題の形で行えると思っている。どのような文脈かは分からないが、もしこのような文脈であればそれは正当性を持っていると言えたり、このような文脈であれば不当性をもっているということがいえるだろう。それを仮言命題の形では考えることが出来ると思う。

柳沢大臣の発言は少子化に関する文脈で語られたらしい。大状況としてはそこまでは報道されているようだ。もし数学的な文脈で女性を機械にたとえても不当性が現れないとしたら、それは人口統計においての数だけが問題のときではないだろうか。とにかく出生数が減っているということが問題で、この数を増やすということが解決になり、増えさえすればその過程は問わないというような文脈だったら、何人産めるかという能力の問題になり、能力の問題を、純粋に機械的な問題だと受け取って社会と切り離して考えるなら、「生む機械」という抽象も可能ではないかと思える。

しかし、この場合は文脈としては、女性が子どもを生みたくなるような状況を社会的に整備していくという発想はまったく抜け落ちて捨象されることだろう。機械として捉えるなら、それは性能の問題になるからだ。社会が女性の支援をして動機を高めるというようなことは機械に対しては行われない。だからこのような文脈だったら、女性を機械にたとえたということよりも、むしろ社会性を無視しているという政治家としての見識のほうが批判されるべきではないかとも感じる。これは、もちろん、女性を機械にたとえることが数学的にどうなるかを想像して、それを仮定として展開した論理なので、実際に柳沢大臣がこのような発言をしたということではないので勘違いをされないように注意したいと思う。

僕は、少子化の問題を人口統計の面から考えるというのは数学系の発想としては悪くないと思う。だが、それを女性が子どもを産む能力に結び付けて、日本人の女性に子どもをたくさん産んでもらって解決する方向を考えようというのは、発想としては貧しいのではないかと感じる。他にも解決の道はあるのではないだろうか。

少子化で人口が減少して困るのは労働人口の問題である。だから、少子化の問題を出生率の問題にするのではなく、労働力の日本への移入の問題として解決する方向を考えれば、「生む機械」としての能力を女性に上げてもらうという発想は必要なくなるのではないだろうか。

日本の現在は、外国人労働者を締め出していながらも、違法滞在者として弱い立場にとどめておいて安く買い叩いて使うという形になっている。これは一部のものにとっては利益になるだろうが、日本社会全体の未来にとっては危険な種をはらんでいくことになるのではないだろうか。虐げられた人々がいつまでもその地位に我慢しているだろうか。違法な存在が、ある種の犯罪と結びつく可能性も高まるのではないだろうか。

日本社会は、外国人労働者の役割を正当に評価して、評価に応じた報酬を正当に受け取れるようにするべきだと思う。今のままにしておいて、犯罪が起きたら厳しく取り締まるということをしていたら、警察権力に使う金が肥大化していき、そのことによって警察権力が強くなり、結果的に一般日本人の自由も失われていくということにもつながるのではないか。

日本社会が、外国人労働者を正当に評価する国なら、有能な労働者が多数集まるような国になることも期待できるだろう。単純労働をするような、違法に入ってくる労働者で充分だと思っていたら、治安も文化の水準も低くなっていくに違いない。平和で安全で、しかも多様な文化が交流しあって、文化水準も高い地域を作るような、そのような政策に転換していくべきなのではないだろうか。

女性を機械にたとえて語るようなものは、柳沢大臣の見識の低さを示すものかもしれない。うっかり発言してしまったので謝罪したというような態度からはそのようなものも伺える。だが、その言葉だけを取り上げて、言葉だけから何かを判断しようとすればそれは「数学系」の理解ではないように思う。

特定の言葉に感情的に反応してしまうというのは、鑑賞としての感情が個人的な条件にかかわっているという意味では「芸術系」の発想だ。これは、対象が本当の芸術であるならば何の問題もない。その芸術に対しては、自分の好き嫌いを基本にして、味わいとしての感想を語るのは問題はないだろう。

柳沢大臣の発言に関しては、この評価や判断は、「数学系」として結論を出したほうがいいのか、「芸術系」として反応してもかまわないのか。僕は「数学系」として、論理的な判断の対象にしたほうがいいような気がする。

そういう意味では、この発言が女性蔑視の気持ちを表しているかどうかとか、女性への差別発言ではないかとか、柳沢大臣の心と結び付けて評価するのはどうもしっくりこない。これを批判する政治勢力も、文脈上どこに問題があったのかをはっきりさせるべきだろう。僕のような一般人と違って、柳沢大臣が具体的に何を語ったかの情報も得られるのではないか。

そして批判がより本質的になるのは、単に発言の言葉尻を捉えるのではなく、柳沢大臣の文脈が論理の展開としてどのような方向にいくかということを見極めるところにあるのではないだろうか。僕には今のところ想像の範囲でしかこれを考えることが出来ないが、誰か優れたジャーナリストが本質に触れるような報道で情報を教えてくれたら、日本のジャーナリズムにも期待が持てるようになるのになと思う。マスコミのニュースはほとんどゴミのようなものだ。そこからはほとんど何も読み取ることが出来ない。想像するしかない。