歴史的事実に対する確たる証拠


涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベルと呼ばれる小説をふとしたきっかけで読んだことがあった。そこには、世界が5分前に創造されたものだったということが語られている部分があった。それは、論理的には証明することは出来ないが、反証することも出来ない命題として語られていた。

世界が5分前に創造されたということは、想像はできるが、それが本当だと信じている人はほとんどいないだろう。多くの人が、ばかげた空想だと思っているはずだ。それ以前の記憶を誰もが持っているのだから、5分前に突然出来たなどということを信じる人はいない。

しかし、それ以前の記憶も実は5分前に創造されたものだと前提すると、5分前に世界が想像されたと仮定しても、論理的なつじつまは合わせることが出来る。このようにして、5分前に世界が創造されたと仮定するとまずいことがあっても、その全部につじつまを合わせるような解釈を見つけることが出来る。だから、ばかげた主張だとは思っても、この『創造説』には、論理的に反駁することが難しい。原理的には不可能だと考えられる。ポパー的な概念を使えば、反証可能性がないので、科学ではないと主張することは出来るだろう。しかし、ポパーが定義する意味での科学ではないからと言って、それが真理ではないということは証明できない。

論理的な真理というのは、科学で証明する必要性がないという意味で科学ではない。そして、ポパー的な反証可能性がないという命題は、仮説を実験で確かめるという認識構造になっておらず、現象をあとから解釈してつじつまを合わせるという形になっているので反証可能性がなくなる。

歴史的事実というのは、現象を後から解釈してつじつまをあわせることが出来る対象だ。過去に起こった出来事を歴史的事実という。それは、確かにそのようなことがあったのだと確証することは出来るのだろうか。5分前に世界が出来たということが、論理的には仮定できてしまうものなら、それ以前の記憶なども、単にみんながそう思っているだけだということに対して、いやそうではない、そのことは確かにあったことなのだといえるのだろうか。

5分前に世界が出来たという主張は、多くの人がそれを信じないのは、それがいかにも不自然に見えるからだ。つまり、都合の悪い事実が次々に出てくるように思われる。そして、いくら後からの解釈でつじつまを合わせられるからといっても、それはいかにも屁理屈であるように感じられる。屁理屈で解釈をしない限り、もう解釈がこれで終わりということにならない。

過去のことであろうとも、今までに知られていない新しい事実が発見されることはいくらでもある。この未知の事実に対して、解釈だけでつじつまを合わせている理論は、常に解釈の変更をしていかなければならない。ちょうど、天動説が常に理論の変更をしなければならなかったように。

これに対して、地動説のように科学として確立された真理は、新しい事実が発見されても、その未知の対象に対しても有効な理論として解釈を変えることなく通用する。科学の有効性というのはここにあると僕は思うのだが、天動説は、ディーツゲンが語るように、視覚的真理という面に限れば真理であるともいえる。科学ではなくても真理であるということは言える。

世界の「5分前創造説」は、科学にはなりえないが、天動説のような真理になりうる可能性は、完全には否定できない。この完全には否定できないということから、それも正しいのだという主張も出てくるかもしれない。しかし、その不自然さ、無理な論理・屁理屈というのはどうしても引っ掛かりを感じる。

歴史学というのは、過去の事実を基礎にして、そこにある種の歴史の流れとしての法則性を求める科学だろうと僕は思っている。だが、その基礎とする事実に曖昧さがあった場合、そこに構築された法則的認識も基礎が危ういものになってしまう。果たして、これは確かにあったことだという事実の確認は出来るものだろうか。

これは不可知論的に考えてしまえば、究極な確認、つまり100%正しい事実だと主張できるものはないといわなければならなくなってくるのではないかと思う。現実に存在するものは、100%の確認は原理的に出来ない。だから、100%確実な事実を求めれば、それはないということになってしまわないだろうか。

そんな時、それは100%確実ではないから「事実ではない」と主張する言い方を許してしまえば、それは不可知論を認めたことになってしまう。100%とという可能性を根拠にして、99.999…%確かめられた事実であっても、「事実ではない」という言い方を許すことになってしまう。

今週配信されたばかりのマル激では、NHKの番組改変問題での裁判において、政治家の圧力というものが「事実」だったかどうかという問題を論じていた。これは、いわゆる歴史的な事実ではないが、過去にあったことを証明するという問題で、非常に興味深いものだ。

この裁判においては、「直接的な証明は出来なかった」と解釈されているようだ。つまり、圧力があったことを直接判断できるような、政治家の発言が存在したという証拠はなかったようだ。このとき、事実の判断としては次のどれが妥当だと考えられるだろうか。

  • 1 直接的な証拠はなかったので、圧力はなかった。
  • 2 直接的には証明できなかったが、圧力の疑いは残った。
  • 3 圧力はあったのだが、直接的な証明は出来なかった。

僕は、3の判断が妥当だと思うのだが、これは直接証明することはほぼ不可能だろうと思われる。発言を記録したテープを残すなどということは難しいし、たとえテープがあったとしても、政治家が、言質を取られるような発言をしないように警戒していれば、記録としては残らない。

もし、直接証明できる証拠がなければ事実の証明が出来ないとしたら、歴史学というのはまったく成立しなくなるだろう。それは、真理を語る科学ではなく、想像を語る文学としてしか存在できなくなるだろう。直接の証拠がなくても、状況証拠で事実が証明されるという理解をしなければ、歴史学は成り立たない。しかし、状況証拠からの推論は、100%正しいということは原理的に言えない。この問題をどう解決したらいいのだろうか。

NHKが政治家から圧力をかけられるという状況証拠はかなり見つけることが出来る。その最たるものは、宮台氏が「週刊ミヤダイ」で語っていたが、予算編成権が国会にあるということだ。この制度があることによって、予算案が通るかどうかに時の統治政権の意向が深くかかわることになる。つまり、権力的な上下関係が、制度的に存在するということは客観的にいえることになる。

この上下関係があるから、必ず圧力を感じるということは言えないものの、圧力を感じるほうが普通だということは言えるだろう。このような見方が「性悪説」だと思い、「性善説」を信じたい気持ちからは否定したくなるとしたら、それはあまりにもナイーブ過ぎる人間観になるだろう。権力を持っている人間が、その権力を自分の利益に使うことのほうが普通であって、それを公共の利益のために常に使うと考えるのは、ありえない空想のように僕は思う。

このような制度的背景にある権力の作用として、NHKの側は政権担当者と会うだけでも圧力を受けると考えられる。ましてや、呼びつけられたり、伺いをたてに行ったりすれば、その状況だけで圧力があるということを告白しているものだといえるのではないだろうか。状況証拠的にはそう受け止めることが出来るのではないか。

NHKが置かれている状況を、システムとして抽象すれば、統治政権から圧力を受けずにシステムが回ると考えるほうが、論理的なつじつまが合わない。圧力を受けずに、独立性を保って公共性を実現したら、統治権力から不利益をこうむると考えるのが、システムとしては普通なのではないだろうか。NHKのシステムとはそのような形での安定をしているのではないか。本当の公共性を発揮しようとすれば、NHKは、現在のシステムが破綻してつぶれるのが論理的にはつじつまが合うのではないかと思われる。

現実的なものが合理的であると考えるなら、NHKが圧力を受けたのはほぼ明らかだと判断してもいいのではないだろうか。NHKは、このような制度の下でも、例外的に統治権力である政府の圧力を跳ね返す存在なのだろうか。マル激で、江川達也さんが、歴史においてつじつまが合うことが大切だと強調したのは、現実に存在するものは、やはり法則性に従うのであって、例外的な存在というのは、やはりめったにないのだということなのではないか。

NHKは、原理的に圧力を受ける存在となっている。だから、状況証拠は、あふれるようにありふれたものとして出てくるだろう。それは、状況証拠だけで、直接の証拠がなくても事実が証明できる対象だと考えなければならないのではないかと思う。状況証拠が希少なものであって、例外的なものとして見つかるようであれば、それは状況証拠だけで存在を証明することは出来ないだろうが、状況証拠だらけの、原理的にそのような存在だということが、論理的に言えるような対象に関しては、状況証拠が事実の証明になるのではないかと思われる。

南京大虐殺」という歴史的事実に関しては、直接の証拠の解釈が大きく分かれるものだ。これに関しても、100%確かな証拠を出せといわれれば、NHKの圧力のケースと同じことになるのではないかと思う。100%の確実な証拠は原理的にありえない。それでは、そのことからすぐに「南京大虐殺」はなかったということになるのだろうか。それはありえないだろう。せいぜいが、「あったかなかったかは分からない」というような主張が出てくるだけだろう。

しかし、このような主張であっても、その存在に疑義を提出するだけでも、事実を捻じ曲げるということに関しては役に立つ。この場合も、南京で、歴史に残るような大事件が起こったということは否定しがたい事実として証明することは出来るのではないかと思う。それを「南京大虐殺」という名称で呼ぶかどうかには、異論が存在するかもしれないが、なかったことにすることは出来ないのではないかと思う。

それは、歴史の法則性というものを考えたときに、南京という場所で事件が起こったのは偶然性だろうが、そのような構造をもった事件を日本軍が起こすことは必然性として、論理的なつじつまの合う解釈が出来るのではないかと思う。日本の軍隊の組織の日常や、中国における戦争のやり方、その他原理的に抽象できる事柄から、論理として導かれるものが、状況証拠だけで事実を確証させてくれるのではないかと思う。南京での事件は衝撃的には違いないが、むしろ日本軍にとっての日常の延長であることが実は言えるようになるのではないだろうか。それが、たとえ100%の確証がなかったとしても、状況証拠で事実が確定すると主張できるようになるのではないだろうか。