「社長目線」という視点


内田樹さんの『下流志向』という本が売れているらしい。僕も内田さんのファンなので、この本を早速買って読んでみた。確かに面白い本であり、その面白さが大衆的に受けているのであれば、この本が売れるというのも理解できる。ただ、一つ気になるのは、この本がどれほど売れているかということだ。いわゆるベストセラーに近いくらい売れていると、ベストセラーにろくな本はないという法則に、この本が当てはまるのか、それとも例外的に当てはまらないものなのかが気になる。

ベストセラーにろくな本がないのは、それが俗流的な常識を語るがゆえに大衆に受け入れられるというところにある。多くの人が賛同するだろう事柄の中でも、感情をくすぐっていい気分にさせるようなところを持つものが、それゆえに広く読まれてベストセラーになると考えられるからだ。去年の例でいえば、『国家の品格』は、そのような属性を持った典型的なベストセラーだったのではないかと思う。

耳に痛い真理を語ることばが多くの人には受け入れられないだろうということは容易に想像できる。真に優れた人は評価されるまでに時間がかかる。『下流志向』という本が、広く常識的に受け入れられる事柄を、気分よく受け入れられるように書いてあるのでよく売れているのか、そのような装いをとっているにもかかわらず、そこに書かれていることが実は、今の常識的な視点からはなかなか見えにくい隠れた真理を語っているものなのか、考えてみたいものだ。

常識を革命的にひっくり返す真理というのは、そのままで提出したのではなかなか受け入れられないので、それを受け入れやすい形に薄めて提出されるということは戦術的にありうるだろう。内田さんには、時々そのような書き方をしているようなところが見られるので、常識が支配するような事柄をテーマにしたときは、かなりの反発を呼ぶようなときがあるようだ。嫌われるのを承知であえてそれを書くと言うようなところがある。

このような傾向は、宮台真司氏などはさらにはっきりと意識して発言しているようなところがある。あえて挑発的に語ると言うのは、宮台氏のほうがさらに過激な感じがする。内田さんは宮台氏が嫌いなのだが、このあたりが共通しているのは面白い。

宮台氏は徹底して「数学系」の人間だと言うのを感じるが、内田さんには「文学系」の香りもする。論理的な展開をするときは、内田さんも「数学系」的な発想を離れるときがないと僕は思っているのだが、論理ではなく、感情を率直に述べるときは「文学系」の香りを感じる。好き嫌いを語るときなどにそれを感じる。

内田さんは、宮台氏が嫌いで、上野千鶴子氏が嫌いで、フェミニズムが嫌いだ。この感情を論理的に証明しようとはしない。数学系なら、それをしたくなるかもしれないが、内田さんは感情の吐露を率直に語るだけだ。宮台氏に関しては僕は共感できないが、それ以外の対象に関する感情には、おおむね共感して受け止めている。

内田さんには「数学系」と「文学系」が微妙にバランスよく共存しているのを感じる。それが『下流志向』のベスト・セラーにつながっているように感じる。数学系的な面だけでは、やはり大衆受けするのは難しい。宮台氏などは比較的本がよく売れるほうだとは思うが、マニア的なファンが買う比率のほうが大きいだろう。ベストセラーは難しいのではないかと思う。

宮台氏の本は挑発的なタイトルで目を引くことがあるかもしれないが、その中身で人を気分よくさせてひきつけると言うのは難しいのではないかと思う。それは、「文学系」の要素をかなり加味しないと出来ないのではないだろうか。宮台氏は、意図的にその要素を盛り込むときもあるようだが、基本はやはり「数学系」だ。「文学系」的表現を、人をひきつけるのに利用はするが、それは「数学系」的な理論に人を誘い込むことが目的だ。

宮台氏の場合は、論理的な納得を経てその主張に共感すると言う過程を感じるが、内田さんの場合は、理屈抜きに共感できたりすることがある。むしろ、理屈ではその共感を語れないときがある。このあたりの「文学系」的な感覚のバランスが非常に気分よく感じる。それが、ベストセラーに近いくらい売れる本を書けるという要素につながるのではないだろうか。

そのバランスをよく感じさせてくれるのが「社長目線」と言うエントリーで語られている「社長目線」というものではないかと思った。これは、「数学系」としては「客観的視点」といいたいところなのだが、社長の立場からの視点だと言うことでは、「客観的」とはいえなくなる。「社長目線」は、ある特定の立場からの視点になる。

この視点は、立場を越えた客観的なものではないから、「数学系」の視点ではない。「文学系」の視点だ。しかし、これが客観的な判断に役立つと言う点では、それが特定の立場からのものだと言うことを忘れない限りでは、「数学系」と「文学系」のバランスを保った有効な視点であると僕は感じる。

内田さんはここで、当事者の視線で書いたものは、当事者にとってはあまりにもリアルで、しかも分かりきったことなので関心が湧かないという指摘をしている。そして、当事者でない人は、当事者の立場に立つことが難しいので、今度は逆にそれをリアルに感じられない。これは、夜間中学を舞台にした、山田洋二監督の映画「学校」が作られた当時の、夜間中学校関係者・特に生徒からの感想として、そのようなことを裏付ける言葉をよく聞いた。

生徒にとっては、当事者でありすぎるので、あの映画にはまったく感動できなかったそうだ。ありふれた日常であり、むしろ映画の中の世界はきれい過ぎてうそ臭くさえ感じたそうだ。しかし、あの映画は「学校」シリーズの中では最大のヒットをし、多くの人が感動して見たものだった。

あの映画を、「あれは教師の映画だ」といって一蹴した夜間中学校卒業生がいたが、それはかなり的を射た評価だと思う。山田洋二監督も、寅さんシリーズを見ると分かるように、大衆受けするヒットする作品はどのようなものであるかと言うのをよく知っている、プロフェッショナルな映画作家だと思う。だから、あえて当事者の視線ではなく、教師の視線で映画を作ったのではないかと思う。それの方が、大衆的ヒットという可能性においては大きいと判断したのではないかと思う。

「教師の映画だ」という評価は、本当の姿を伝えていないという低い評価とともに語られたのだが、僕は逆に、そのことによって大衆的なヒットをしたのだから、夜間中学を世間に知らせることに対しては大きな貢献をしたと高く評価している。本当の姿を伝えることが大事なときもあるだろうが、存在そのものを広く知ってもらうことが大事なときもある。あの当時は、知られることに対して山田洋二監督の映画は大きな貢献をしたと思う。

さて、教育に関しては誰もが当事者を経験するので、いまさら分かりきったことを言われてもあまり関心を持たない。むしろ、少数者の視点こそが新たな発見をもたらす。そのような考えから内田さんは「社長目線」というものを考えていたようだ。日本において現実に社長である人は圧倒的少数者だろう。だから、実際に社長として物事を見るという経験をしている人は少ないに違いない。この目線は、それを知っている人から教えてもらわないと、なかなか知りえないのではないかと思う。

内田さんは、

「「社長さん」たちというのは、他人(つまり、ビンボー人)が彼らに押しつける社会的コストの構造的な負担者という自己認識を持っている。
この「社会的コストを押しつけられる側からするところの、社会的コスト削減策の吟味」(というのを『下流志向』ではしているわけなんですよ)は、まるでファナティックでもないし、イデオロギッシュでもない。」


と書いている。これを読むと、社長の立場と言うのは、ある特定の立場ではあるけれどもかなり「客観的」な立場に近いものとして立てる可能性を感じる。個別的な利害としては「他人(つまり、ビンボー人)が彼らに押しつける社会的コストの構造的な負担者」というものがある。これを少しでも減らしたいと言う利害は、エゴを含むものであり、客観的とは呼べない。

しかし、だからと言って特定のイデオロギー的発想で、負担を切り捨てれば自分の利益になると言う単純な発想では問題が解決できないことを知っているのではないかと思う。その負担が、社会の中でどのようにバランスよく分け合うことが出来るかを考えなければ、自分だけがそれを免れたからと言って危機が終わるわけではない。

雇われる身は、自分の給料がどうなるかと言う単純な発想で問題に対処することが出来るが、社長目線に立つと、「社会的コストを押しつけられる側からするところの、社会的コスト削減策の吟味」という公共的な面、つまり客観性の高い方向の思考を進めなければならなくなる。この思考が、ある特定の立場からのものであると言うことを忘れない限りで、これは客観的な結論を導くために役立てることができる。

内田さんは、「この「想定された読者」に擬制された立ち位置と扱われている問題の「距離感」がどうやら読者の琴線に触れているように思われる」と、社長目線に立った思考の進め方が、この本が売れていることの原因の一つであろうと推測している。山田洋二監督が、「教師目線」で夜間中学を描いた発想と似ているのではないかと思う。

山田監督は、商業映画の製作者として、それが一定のヒットをしなければならないと言う要請に応えなければならなかった。そして、それに応えるだけの技量を持っていた。だが、あの映画を撮ることで知らせたかったのは、日本には普通知られているものとはまったく違ったタイプの学校があり、教育があると言うことだった。それは、映画がヒットすることで十分目的が達成されたと思う。ヒットさせることが目的だったのではなく、それは一つの手段であり、本当の目的は違うところにあった。だから、あの映画は、数あるヒット映画が持つ俗流性をかなり免れていたのではないかと思う。

内田さんの『下流志向』も、かなり売れているとしても、いわゆるベストセラーが持っている俗流性からは免れている部分が多いのではないかと思う。それは、大衆受けする部分を手段と捉え、本当の主張は「客観性」のある部分になっているからではないかと思う。

下流志向』で主張されているのは、学びや労働から逃走する若者たちが、自らの不利益となるような行為をしているように見えるのに、実はこれが合理的な選択であり、彼らにとっては最も利益となるような方向なのだということが、「客観的」な見方なのだということにある。われわれの社会はそのようなねじれた特性をもっているのだということを知らなければならないと言うことだ。これは、よく分かっている人にはありふれたことかもしれないが、常識にとらわれていた人にとっては、新鮮な視点ではないかと思う。この本は、たとえよく売れたとしても、俗流的なベストセラーではないと評価できるのではないかと思う。